番外編 『なかなおり』
「……なんですか?」
視線を感じ、顔を上げるとリネアと目が合った。
綺麗に整った眉。きめ細かく柔らかい肌。透き通るような空色の瞳。ずっと見ていたくなるほど完璧な顔。今は閉じられてしまっている右目も、きっと綺麗な青色だったのだろう。
そんな理想の存在が、こちらを見て微笑んでいる。フィリアは頰を少し赤く染める。
「……いや、ちょっとな」
「えー。教えてくださいっ。気になります」
言葉を濁すリネアに、フィリアはその瞳をまっすぐ見つめながら先を迫る。
どうせまた上手くごまかされるのだろう、そう思っていながら、フィリアはじっと彼の言葉を待った。頭を掻きながらしばらく逃げ道を考えていたリネアだったが、ついに決心したようで、ゆっくりと言葉を紡いだ。
それはフィリアには信じられないような言葉だった。信じられないほど、何よりも、嬉しい一言だった。
「フィリア。お前のことが好きだ」
「……え?」
一体……、何をいっているのだろう。
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。
が、すぐに思考を取り戻し、たった今リネアの口から紡がれた甘い言葉を反芻する。
お前のことが好きだ。お前のことが好きだ。好きだ。好きだ。好きだ……。
間違いない。彼はそう言ったのだ。誰に? 私に。
感情が頭の中で暴れ回る。ずっと待っていた言葉だった。欲していた言葉だった。だが、いざ本当に言われるとなると、心の準備が追いつかない。
「で、でも……、私なんて全然だめだめだし、ドジだし、リネアさんのこと大好きですし……って、あれれ? と、とにかく私なんて——」
自分でも何を言っているのかわからなくなりながら、腕をブンブンと振って必死の抵抗(?)を見せるフィリア。
目が回る。体が宙に浮いたような感覚に陥りながらも、かろうじて視点を戻す。
「——っ!」
と、超至近距離にリネアの顔があった。鼻先が触れ合いそうなほど近くに迫る。
そして、優しく抱きしめられる。柔らかく、全身を包み込むような抱擁。男の人とは思えない花のような香りが鼻腔を擽る。
「リア。……ずっと、こうしたかった」
「……私も、です」
胸がきゅぅっと引っ張られるほどの幸せを感じながら、フィリアもそっと腕を回す。思ったよりしっかりした体つき。当たり前だ。彼は王国の騎士だったのだから。
でも、今は私のものだ。
「……リネアさん」
「ん?」
「……大好き……、大好きですっ!」
「ああ。……俺もだ」
顔を見合わせ、笑い合う。
何よりも大好きな笑顔が、すぐ近くにある。ここに感じられる。
これ以上の幸せはきっとない。
いや、これから二人で見つけていくんだ。
フィリアは、抱きしめる力をぎゅっと強めた。それに応えるように、リネアに引き寄せられる。
私は今、世界で一番幸せだ。
ずっとこのままでいたいと、そう思わずにはいられない。
フィリアは愛する人の胸の中で、二人の未来に心を弾ませた。
▷
「——ってなるはずだったんだけどなぁ……」
青々とした並木の下を一人歩きながら、フィリアはぼやいた。
密かに描いていた淡い幻想。想い人であるリネアとの幸せな時間は訪れることなく、結果的にただの妄想で終わってしまった。
それだけで終わっていればまだ良かったのだが、最後の一言を聞いた瞬間、勢いに任せて家を飛び出してきてしまった。「妹」と呼ばれること自体にそれほど嫌悪感を抱いているわけではない。ただ、それを他でもないリネアに言われることだけは嫌だった。だって、「妹」であるということはイコール「恋愛対象ではない」ということと同じなのだから。
といっても、思わず飛び出してきてしまったのは今回が初めてだ。いつもならリネアにお詫びとして頭を撫でてもらえればそれで良かったのだが、今日はどうしてか我慢できなかった。少し欲が出ていたのかもしれない。
「……あぁ、もう。私のばか。……うぅ。どうしよう……」
別にリネアに対して怒っているわけではない。それに、すぐに引き返してしまってもお人好しなあの人のことだ。きっと笑って受け入れてくれるに違いない。
だが、あんな形で家を出てきてしまった手前、簡単に尻尾を振って戻るわけにもいかない。それこそ子供だと馬鹿にされてしまう。
どうしようどうしよう。
両手で頭を抱え、自問するフィリア。
「あうぅ……」
しばらく続いた葛藤の結果、少し散歩をしてから帰ろうという結論に至った。
日も暮れかかり、西日が作り出す影が伸び始める。
心地の良いそよ風に頰を撫でられながら、フィリアは村の中央へと続く通りを進んでいく。
フィリアたちの家は少し離れた人気のない場所に建っているので、買い出しに行くにしても、何か用事があるにしても少し時間がかかる。
それでも数分もすれば、通りを彩るように道の両側から伸びる樹影が見えてくる。少しずつ間隔をあけて規則正しく並んでいる木々は、中央広場がもう近くに迫っていることを示す合図だ。
「……はぁ…。どうしよぉ……」
広場に着くと、フィリアは敷設してあるベンチにちょこんと腰掛けた。
だんだんと明かりが灯り始める周囲を一瞥し、短いため息を漏らす。
本当なら、今頃夕食を食べ終え、リネアと一緒に一息ついていたはずなのに。それを投げ出してしまったのはフィリアだ。
今更ながら自分の行いを反省し、心を落ち着かせる。
「あら? フィリアちゃん! どうしたのこんな時間に。……リネア君は一緒じゃないのね?」
「あ、バニラおばさん」
足をぶらぶらさせながら黄昏ていると、背後から声をかけられる。
振り返ると、そこにいたのはややふくよかなバニラというおばさんだった。顔にはいくつものしわが刻まれているが、反して声には張りがあり、まだまだ元気でいるぞという印象を受ける。
バニラはフィリアの全身から放たれる空気を感じ取ると、見事にその理由を言い当てた。
「…リネア君と喧嘩中ってところかしら」
「え? どうして……」
「フィリアちゃんがそんなに落ち込むなんて、それくらいでしょ? ほんと、大好きなのね。彼のこと」
「い、いやっ。そんなんじゃ——」
「……はい」
言いながら、フィリアは視線を下に移し照れ臭そうな表情を見せる。
そうだ。大好きなのだ。彼のことが。
隠しきれない少女の想いを、バニラは微笑ましく受け取った。肩をすくめて恥ずかしがるフィリアの横で「ああ。それでこそ青春よねぇ」と息を巻いている。
「どうしたらいいと思いますか?」
一通りの顛末を話し、これからどうすべきなのかをバニラに訊ねる。人生経験が豊富な彼女であれば、きっと有意義な答えをくれるに違いない。
「そうねえ……」
人差し指を頬に当て、少し考える仕草を見せる。
しばらくして、何か思いついたのか目を見開いた。
「何かプレゼントをあげるなんてのはどうかしら? そうすればきっと、フィリアちゃんの気持ちを少しはわかってくれるはずよ。いくら鈍感なリネア君でもねっ」
にっとフィリアに笑いかける。
フィリアの方も目を輝かせ、今までどんよりとしていた顔にやっと笑顔が浮かんだ。
「でも、何を送ればいいんでしょう……」
そういえば、リネアに贈り物など一度もしたことがない。しようと思ったことはあるものの、彼が贈って喜ばれるものが、フィリアには思いつかなかった。
困ったなぁ、そう思っていると、今度も解決してくれたのはバニラだった。
「それなら、うちで買っていけばいいんじゃない? がっかりはさせないわよ」
「あー! それがいいですね! そうしましょう!」
バニラは花屋を営んでいて、その種類は100を超えると言われている。なるほど、それならきっとリネアにぴったりのプレゼントが見つかるはずだ。
しかし、さすがは商売人だ。自分の店の売りどころをしっかりとわかっている。もしかすると、最初からこうなることを見越してフィリアに声をかけたのかもしれない。
フィリアはいらぬ勘繰りをしながら、大きな背中について花屋へと向かった。
考えてみれば、こうして村の人と話すことができるのも、自分への偏見をなくしてくれたのも、全部リネアのおかげだ。
彼に引き取られてからすぐは、“眼”を持っているフィリアを快く思う者はもちろんおらず、どこかに捨ててしまえという声さえあった。それでも、彼だけはフィリアに対して普通に、いや普通以上に接してくれた。だからこそ、フィリアは村人たちの心無い言葉を聞いてもなお、ニールの村にいたいと思えたのだ。彼さえいれば、それでよかった。彼の優しさを一端でも与えてもらえるならば、それで十分だった。
だが、彼はそれ以上のものをくれた。村人たちに、フィリアへの態度を改めるよう進言してくれたのだ。最初は乗り気でなかった人たちも、リネアの真摯な態度に心動かされ、果たしてフィリアへの偏見はなくなった。いや、リネアによってフィリアの良い面が村人たちに伝わり、理解してもらえたと言った方が正しいだろう。
こうしてフィリアは、以前のように周りの目を気にし、怯えながら生きる必要がなくなった。
だから、今のフィリアがあるのはリネアのおかげなのだ。
感謝してもしきれない。でも、少しでもその気持ちを伝えたい。
今回のプレゼントがそのきっかけになってくれれば。
フィリアはきゅっと唇を引き締めた。
「これなんかどう?」
バニラは体格には見合わない器用な手つきで店頭に並べられた花を数種類選別すると、少し悩んだ末に花を一本フィリアに差し出した。
中央には明るい黄色の筒状花が小山を形作り、そこを基点として純白の花弁が羽のように連なる。顔を近づけてみると、林檎のような甘い香りが仄かに漂い、鼻腔をくすぐる。
「カモミール……でしたっけ?」
「そうよ。よく覚えててくれたわね。偉いわフィリアちゃん」
カモミール。この花について、以前にバニラに教えてもらったことがある。
その甘い香りから、お茶などの香り付けとして使われることが多く、一部では薬草として用いられることもあるらしい。
たしか、花言葉は……「仲直り」だったはずだ。花屋のバニラらしい、気の利いたおすすめだったのだと、フィリアは感心した。
「ちょっとベタすぎたかしら?」
「い、いえ。そんなことないです」
そう言いながらも、フィリアは納得いかない様子で綺麗に整えられた展示に視線を戻すと、渾身の一本を見つけるために歩き回る。その目は真剣そのもので、バニラは彼女の様子を微笑ましく見守った。
せっかく勧めてくれたバニラに多少の罪悪感を感じながらも、フィリアは自分で選ぶことに拘った。というより、最初から決めていたのだ。この贈り物はリネアへの謝罪と同時に、自分の気持ちを彼に伝えるためでもある。それならばやはり自分で選ぶべきだ。そのことを理解していたからこそ、バニラも口出しはしなかった。
「…これはっ……」
あれこれ迷うこと数十分。
ようやく特別な一本がフィリアの目に留まった。
澄んだ紫色の大きな花弁が身を広げるように直立し、みずみずしく波を打つ。花弁の付け根の方まで辿っていくと、紫一色というわけではなく、黄、白、桃など幾重にも重なった色が滲んでいる。
言うならば、虹の花。
思わず感嘆の声が漏れてしまいそうなほど綺麗で、ため息が出てしまいそうなほど美しかった。
フィリアは手を伸ばして優しく掴むと、バニラの元へと向かった。
「おばさん! これにしますっ!」
「んん? ……アイリスね! いいじゃない!」
椅子に腰掛けて本を読んでいたバニラは振り向くと、笑顔で駆けてくるフィリアに言った。
「アイリス?」
「そう。アイリス。とっても綺麗でしょ? 私もお気に入りの花なの」
「へぇ! そうなんですかー! えへへっ」
バニラは無邪気な笑顔の少女の頭を撫で、フィリアは嬉しそうにはにかんだ。
「リネアさん、きっと喜んでくれますよねっ!」
「ええ。きっと。だって——」
バニラは何か言いかけたが、ふと言葉を飲み込んだ。
きっとこれは言わない方がいいだろう。なんとなく、そう思った。
「だってー?」
「いや、なんでもないわ。さ、早くリネア君のところに戻って仲直りしてきなさいっ」
そう言ってフィリアの背中を押し出すようにずいずいと出口まで移動する。
あわわ、とフィリアは慌てて足を動かしながら、右手に持ったアイリスの花を落とさないようにゆっくり進む。
外はもうすっかり暗くなり、街灯が地面を淡く照らしている。
フィリアは一歩踏み出すと、くるりと振り返り、バニラに笑顔を向ける。
「おばさん! お花、ありがとねっ!」
「ううん。こちらこそ、若い頃に戻ったみたいで楽しかったわ」
「じゃあ、またねー」
「気をつけてねぇ」
こちらを見ながら手を振るフィリアの姿がだんだん遠くなっていく。木々の間に溶け込み、しばらくすると、やがて闇に飲み込まれていった。
フィリアが選んだアイリスという花。
バニラはもちろんアイリスが何の意味を持つのか知っていたが、あえて言わなかった。本人は知らないでいた方が趣深い。だって、あの花言葉は彼女にぴったりなのだから。
「あなたを大切にします」。リネアを一途に想う、彼女らしい花言葉だ。おそらくフィリアは知らないだろうが、本能で選び取ったのだろうか。そうだとしたら、もっと趣深い。
花は人の想いを届けてくれる。
彼女たちにもそうあって欲しいと、バニラはそっと想いを馳せた。
「ふんふーん。ふふーんっ」
鼻歌を歌いながら、さっきこの道を通った時とはまるで真逆の気分で軽快にスキップを踏んでいく。
「えへへっ。どうやってわたそうかなぁ」
帰ったらいち早く渡そうか、それとも少しお話ししてから渡そうか。
いや、彼が寝ている間に枕元に置いておき、驚かせようか。
ワクワクが止まらない。だんだんと人気が少なくなっていっているはずなのに、フィリアの心は弾み出す。いつもよりも帰り道が楽しいのはなぜだろう。
そんなこと、分かりきっている。またあの人と話せるからだ。愛しいあの人と笑い合えるからだ。
「ふふっ。リネアさん、びっくりするだろうなぁ」
この後に起きるであろうことを妄想し、表情を緩ませる。
道の終わりが近づき、木組みの大きな家が目に入ってくると、フィリアはいっそう息を弾ませた。
フィリアはそーっと裏手に回ると、生い茂る草陰の中にアイリスの花を隠し、素早く表に戻る。
深呼吸を挟んだ後、玄関の取っ手に手を掛け勢いよく手前に引く。
そこに見えたのは、ほっと息をつく青年の姿。
彼もまた、フィリアのことを心配していたのだ。そんな当たり前のことが嬉しくて、自然と笑顔が溢れ出る。
「ただいま!」
“あなたを大切にします”。
白い歯を輝かせる顔には、そんな言葉が浮かんでいるようだった。
この時はまだ、誰も知らなかった。
目の前の景色が、一瞬で地獄へと変わり果てるのを。
フィリア「次のお話から”だいいっしょう”に入ります! ぶっくまーく、しといたほーがいいかもですよ?」