序章 幕間 『ひとときの休息』
「…ふふっ」
「…………」
じーっとこちらを見つめるフィリアの双眸と視線が交錯する。
さっきからリネアの顔をちらちら伺ってきていたが、我慢できなくなったのか今度は堂々と視線を向けるつもりらしい。
パンを一口かじり、その整えられた小さな顔にうっすらと浮かぶにやけ顔に睨みつけて返す。
「リネアさん!」
「なんだ」
ワクワクという文字が見えてきそうなほど目を輝かせながらテーブルの上に身を乗り出したフィリア。対するリネアは極めて不機嫌そうに短く答える。
そんなリネアの様子を気にも止めず、フィリアはその姿勢を崩さない。
そして再びリネアの“眼”をじーっと見つめ、
「ほんっとーーーに真っ赤ですね! その目!」
やはり。にやけ始まった時点でそんなことだろうとは思っていたが。
彼女の表情に合わせて触覚のような癖っ毛がぴょんぴょん跳ねる。楽しい、のサインだ。
「はぁ」
ため息交じりに無邪気なその顔を睨みつける。フィリアはそれに気づくと、もっとたくらみのある表情に変化し、くすくすと笑った。
あの一件、魔族との戦いがあったあの夜。
魔族が放った火炎弾によってリネアは意識を失った。その後、奇妙な夢を見たことも覚えている。見覚えのない、しかしはっきりとした夢。
きっと死の直前にはあんな幻想を見るのだろう。間違いなく、その時点で自分は死んでしまったのだと悟った。
しかし、彼の人生は終わりを告げることはなかった。
そして彼に、新たな体が与えられた。
意識を取り戻すと、失ったはずの右半身が戻っていた。自分の意思で自由自在に動かすことのできる、正真正銘の自分の体だった。
それは目の方も例外ではなく、新たな光が灯った。
しかし、右の目に戻ったものは、リネアが元々持っていた澄んだ空色の目ではなく、フィリアと同じ“赤眼”だった。
別にリネアは“眼”を差別してきたわけではないし、自分が持つことになんの抵抗もない。
ただ、赤色の目を持っているという事実にまだ慣れないのと、何よりも左右で色が違うことに戸惑いを隠せないでいた。
そして–––
「二人でおそろいなんてなんだか運命的なものを感じずにはいられないというか…。はっ! もしかして、やっと私の気持ちをわかってくれたんですか? リネアさん!」
これだ。
「断じて違う。まずなんで体が戻ったのかもわからないし、自分で目の色を決めたわけでもない。そしてお前は妹だ」
「いっ! …いも……いも……いも……」
何を芋芋言ってるのかわからないが、こんな風に軽くあしらうのが最適解なのだとリネアは最近学習した。
フィリアの異常なまでの妄想に付き合っているとこちらのペースを崩されかねない。
「いや、でもこの世には“しすこん”なる妹が大好きなふしだらなお兄ちゃんが…」と訳の分からないことを口走っているが、気にせず食事を進める。
今思うと、こうして普通に生きられていることは奇跡と言っていいだろう。
つい一週間前、あんなことがあったばかりなのだから。
魔族。かつて神と人間が協力し、その悪しき力を封印した。神話ではそう伝えられている。
しかし、事実として奴らはニールの村を破滅へと追いやった。全てを破壊し、殺し、焼き尽くした。
加えて、奴らに全て共通していたことは赤い“眼”を持つことだった。暗闇の中に彷徨う、深紅の双眼。あの光景はどんなに時が経っても忘れることはないだろう。
目にしたのは今回が初めてだ。しかし、リネアの直感が叫ぶ。奴らを野放しにしてはいけないと。恐怖とも、不安ともつかない感情。言いようのない“嫌な”予感がリネアの心にうずまく。
類稀なる力に群を抜いた速さ、そして人間のような知能を備えた個体。最後に剣を交えたあの魔族が悩みの種となっていた。
他の魔族には感じなかった何かが、奴にはあった。だからこそ、リネアは手数をかけることなく始末した。始末できた。——それで終わりだとは思えない。
今回は幸いにも退けることができたが、もしあの個体が、いやそれを超える魔族が群れを成して襲ってきたとしたら? 人口が密集した地域——王都に矛先を向けたとしたら? 考えるだけでも寒気が走る。地獄絵図。そうなることは予想に難くない。
ニールの村はほぼ全てが全壊。
家屋は炭も残らないほど燃やし尽くされ、村の住人は虐殺された。残ったのはリネアとフィリア、たった二人だけ。
あの時、自分が村を離れていなければ。みんなを助けられたかもしれない。少なくとも全滅という状況にはなっていなかったはずだ。何もできなかった自分への怒りがこみ上げる。
しかし、そんな二人もあれがなければ同じ運命を辿っていた。
半身の復活により、リネアの本来の力が戻っていなければ。
この奇妙な現象については原因が全く掴めなかった。リネアによるものなのか、それともフィリアか。はたまた魔族の影響なのか。
フィリアにも聞いてはみたのだが、どうやらその時の記憶がなくなっているらしい。原因の究明としては残念だが、リネアはある意味では安堵した。
本人が知っていればきっとまたうるさくなるに違いない。リネア自身としても、忘れておきたい出来事だった。
「リネアさーん。 どうしてそんなにむーって顔してるんですか?」
ずっと口も開かず、上の空だったリネアの様子を見かねたのか、フィリアが首を傾げる。
リネアの何気ない様子に変化を感じ取り、こういった気遣いができるのもフィリアのいいところだ。
リネアは頭をぽりぽりと掻きながら視線を上げる。
「うーん。ちょっと気になることがあってな」
「……魔族のことですか?」
「ああ。……リア、あいつらはなんでニールを襲ったと思う?」
いくら一人で考えても答えが出るものではない。フィリアにも訊ねてみることにした。
フィリアが記憶を失っているという場面、そして魔族が最後に放った言葉のことを軽く説明し、答えを待った。
「そうですね……」
フィリアはひとしきり考え、一瞬何かを口にしかけたが結局頭を振った。
申し訳なさそうに体を小さくして、それにつられて彼女の触覚もしょんぼりする。
少しの沈黙があり、今度はリネアが人差し指を立てた。
「考え方を変えよう。あいつらが本当に魔族だとしたら小さな村を一つ襲っただけで済ませると思うか?」
「いえ。災厄と言われているくらいだし、そんなことで満足するとは思えません」
真面目な雰囲気を感じ取ったのか、フィリアの顔がきゅっと引き締まる。
「そう。そして、奴らは俺が撃退した。だが、この状況。奴らが黙って見てると思うか?」
「……まさか、」
リネアは声色をいつもより低くし、いつになく真面目に語った。
本来ならば今回の襲撃はある意味で様子見だったはずだ。でなければ、ニールなどという辺境の村を襲ったりする利点がない。無差別に、ということもあるがどんな事柄にも理由はついて回ると考えるに越したことはない。
すぐに考えつく理由としては、自分たちの力を試すこと。リネアの推測によれば、奴らが復活したのはそう昔のことではない。少なくとも、リネアが騎士団に所属していた段階では魔族の噂などはなかったはずだ。だとすれば、復活したのはこの5年の間。長い間封印されていたのだとしたら、当然本来の力には程遠い。小村を襲って現在の状態を確かめるのも頷ける。
しかし、ニールのような小村などすぐに滅ぼし、人間達に魔族の存在を知らしめることができる。そう考えていたはずだ。
だが、実際はそうならなかった。撃退されたからだ。それもただの一人の人間ごときに。
この状況、奴らはどう見るか。
よほど弱気でなければ、必ず復讐に来るはずだ。
ただ、同じような小村を襲ったところで意味はない。人間に圧倒的な力を示しに来るだろう。魔族の存在を誇示するために。
そしてあの言葉。
——ド…コ、ダ……。
リネアの勘違いでなければ、奴は確かに「どこだ」と言っていた。言葉を話せることも驚きではあるが、問題はそこではない。
魔族は“何か”を探し、行動を始めているということだ。ものなのか、人なのか、それが魔族にとって重要なピースであることは間違いない。
何かを探すときに一番大切なものは情報だ。情報を集めるには人が多ければ多いほど良い。当然、ニールなどの村よりも大都市が望ましい。
そして、世界最大の都市、情報収集にはこれ以上ない場所はこの国にある。
リネアの予想が正しければ–––––
「——王都に行く。おそらく、奴らはそこを狙って来るはずだ」
「……王都……」
フィリアは小さく呟き、虚ろげな表情を見せる。
幼い頃、フィリアは王都で捕らえられ、そこから奴隷としての生活が始まった。またその繰り返しになるのではないかという不安が一瞬頭をよぎる。
だが、
「俺がいるだろ? 心配すんなって」
今はリネアがいる。彼が守ってくれる。
それを示すように、リネアは微笑んだ。白い歯を見せ、屈託のない笑顔。
それを見たフィリアは——
「っ! リネアさん!」
破顔させながらテーブルから身を乗り出してリネアに抱きついて来る。
それをしっかりと受け止め、優しく頭を撫でる。少し硬くなっていたフィリアの表情が和らいでいく。
二人を見守るように暖かな陽光が差し、太陽がそっと微笑む。
「それに、俺の家だったところだぜ? 一緒にいれば誰も変な目で見たりしないさ」
「はいっ! そうですねっ!」
やっぱりフィリアには笑った顔がよく似合う。
この笑顔を守るためにも、王都のみんなを守るためにも、また歩き出さなければならない。
オリヴィアが誇る最強の騎士として。
リネアは窓の外を眺めながら、心に決意を刻み込んだ。