序章5 『幻』
『––––アさん! リネアさん!』
泣き叫ぶような声がする。朦朧とする意識の中、自分の名前だけがゆらりと脳裏に浮かぶ。
延々と広がる暗闇、だが、そこに微かな淡い光がゆらめく。近いのか、遠いのかもわからない。
ここはどこだ?
目を開け、辺りを見渡してみるが何も変わらない。淡い光が漂うだけだ。
不思議と、体はすんなりと動かすことができた。怪我を負っていた筈だが、どこにも見当たらない。
「……あれは、なんだ?」
灯の方へ歩いていると、リネアは異変に気付く。
一つだと思っていた光は、その数を三つに増やしていた。いや、増えたのではなく、元から三つあったのだ。ちょうどリネアの視点から一直線に重なるように。リネアが動いたことで、そう見えただけだった。
相変わらず何も見えず、不自然に自分の体だけははっきりと確認できる。何か光源があるわけではない。言ってみれば、無の空間に自分だけが存在しているような、そんな感覚だ。
リネアはゆっくりと歩を進め、やがて一つ目の淡光へとたどり着いた。
手で触れてみるが、感触はない。風を切る音もなく、リネアはただ腕を動かしただけになってしまった。
一歩進み、顔を近づけてみる。すると、光は収縮し、すっとリネアの体へと消えていく。
「こ……れは」
突然、脳裏にある光景が浮かび上がる。
リネアと、もう一人の少年が肩を並べ談笑する様子。
自分の姿から察するに、それほど昔ではない。
『なあ、リネア。本当にできるのかな? 戦がない世界なんて』
『さぁ、どうだろうなぁ。そればっかりは他国との関係もあるし、難しいかもしれないな』
『だよなぁ。……ほんと、もう懲り懲りだ。戦争戦争って、俺たちは何の為に戦ってるんだか』
『たしかになぁ。でも——』
『ん?』
『俺とお前がいれば、実現できるかもしれないな。その、戦のない世界ってやつを』
『それには世界を平和に導くための圧倒的な力が必要。今はその準備期間、ってことか』
『ま、そゆことだ』
『なるほどねー。お前も言うようになったな。昔はあんなに弱っちかったのによ』
『うるせっ。いずれはお前だって追い越してやるからな』
『はははっ。こっちだって負けるかよ。——っと、もう時間みたいだ』
『ちぇっ。まだ少ししか休んでないのになー』
『同感だ。ってことで、行くか。相棒』
『おう』
現実へと引き戻される。
あれはなんだ? 昔の……記憶?
見えていたのはたしかに自分の姿だった。だが、話を交わしていたあの男は誰なのか。様子を見るに、自分とは親しげに話していた。それに、純白の鎧に身を包んでいた、ということは同じ騎士団の仲間なのか。
リネアは記憶を辿り、懸命に思い出そうとするが叶わない。顔や話し方、雰囲気など、どこか心の端に引っかかりはするが、どうしても思い出せない。
「……相……棒…………」
最後にあの男が口にしていた言葉。自分でも唱えてみると、妙に胸がざわつくような感じを覚える。しかし、思い出すには至らなかった。
リネアは考えるのを諦め、再び歩き出す。
光の側まで寄ると、同じようにリネアを包み込んだ。
頭の中に流れ込む、淡い光景。
さっきと同様に、しかし今回は思い出すのは容易だった。
映し出されたのは、小さな桃髪の少女。
『…………リネアさんがいなくなったら、私どうなるんだろう……——』
『ん? どうした?』
『い、いえ! 何でもないです。ちょっと独り言を……。ほっ! ほんとに何でもないですからね!?』
『いや、どう見ても何事もなくないだろ。動揺しまくりだ』
『……ばれてましたか』
『ばればれだったからな』
『そうですか……。でも、ほんとに何でもないんです! ただ——』
『リネアさん、死んだら許しませんからね! むしろ私がリネアさんのことを呪いに行っちゃいます』
『それは……結構だな。でも、それは安心していいぞ。リアを残していくなんて、死んでも死にきれないからな』
『その言葉、信じていんですね? ちょっとにやけてるのが気になりますけど』
『だいじょーぶ。それに、俺はこう見えても元騎士だぜ? どんな奴でも返り討ちにしてやるよ』
『ふふっ。それは期待できますね。……じゃあ、私がピンチの時はリネアさんが助けてくださいねっ。約束です!』
『任せとけっ!』
「リア……」
これはほんの最近、自宅でのフィリアとの会話だ。
今となってはもう、交わすことの出来なくなってしまった約束。フィリアを守ることができなかった。彼女を残してこの世を去ってしまった。
後悔の波が押し寄せる。強くうちつけられては、リネアの心を抉っていく。
もう一度だけでも、フィリアの顔が見たい。
だが、それは叶わぬ願いだ。わかっている、もうそこには戻れないことを。
リネアは、頭ではそう理解していても、自分の心を納得させることは出来なかった。
暗い面持ちで闇の中を進み続ける。
三つあったうちの二つはもう消え、残りはあと一つの光だけ。
このあとはどうなるのだろう。やはり天国にでも生かされるのだろうか、それとも、地獄。戦争のためとはいえ、人を殺めてきたことには変わりない。それならば、地獄だったとしても文句を言える立場ではない。
お前のせいだ。
亡霊たちが囁いている。そう感じてしまうほどリネアは追い詰められていた。
“死”という状況を甘く考えていたわけではない。むしろ、リネアは十分すぎるほど死を覚悟して魔族との戦闘に臨み、敗れた。
それだけで終わってくれるなら、まだよかった。
だが、幸せな記憶、フィリアとの暮らしを再び目にすることで急に実感が湧きだした。もうあの時間には戻れないという、心を抉るような現実がリネアに襲いかかる。
できることならもういっそ、今すぐこの意識をなくしてしまいたい。それ以前に、なぜ今自分はこんな状況になっているのだろうか。
そんなことを考えながら、リネアは最後の光の前に辿り着いた。
恐る恐る、ゆっくりと手を伸ばす。
「っ!」
さっきよりも一段と強い光が、リネアの体を包み込む。全身を撫でるように、優しく広がっていく。
やがて光は薄れていき、暖かな何かが心に留まる。
そして、弾ける。
リネアの記憶、なのであろう光景が断片的に流れ込む。
最初に映ったのは、幼い頃のリネアと、白銀の髪をなびかせた少女。
『…………ぐすっ。……うぅ…………』
『あ、いた! もー、またこんなところに隠れて。男の子なんだから泣かないの』
『で、でも……』
『大丈夫。何があってもリネアは必ず守ってあげるわ。約束よ——』
場面は移る。
『リネアと私がずーっとこのまま、一緒に居られれば、少なくとも私たちの国の間での戦争は無くなるのにね』
『それって、どういう……』
『ふふっ。そのままの意味。あなたと離れたくないってこと』
『ぇええ! そりゃ、ぼ、僕は嬉しいけど、でもっ、でもっ。ええ!?』
『慌てすぎ。強くなったって言っても、こんなことで心を乱されちゃうなんて、まだまだですなっ』
『う、嘘だったの!?』
『さぁ。どーでしょー。その時がきたら、教えてあげる』
『そ、そんなぁ……。ずるいよ』
『ほら、いくわよ。ばれたら大変なんだから——』
再び、移る。
『——、大丈夫か!』
『っ! リネア!? どうしてここに!? きゃぁっ!』
『くそっ!』
『リネア、逃げて! 私は大丈夫だから! はやく!』
『——逃げてたまるか。お前は必ず守る。約束だろ?』
『——うんっ……!』
そして、最後。
『……はぁ。っはぁ。……くっ…………』
『——リネア……』
『…………え、…………の、か…………?』
『……リネア。……ごめんなさい…………』
『…………?』
『————』
『……お、……いし………て……』
「あ、れは……」
間違いない。
最後の場所だけははっきりと記憶に残っている。騎士としての最後の勤めになった、あの戦争だ。
そのはずだ。そのはずなのに、リネアは全く思い出すことができない。しかも、黒髪の少年との記憶とは違い、何も出てこない。
その前の二人の逢瀬にしても、全く心覚えはない。
色鮮やかな花が咲き誇っていた場所も、話の内容も、そして彼女が誰なのかもわからない。
だが、リネアにとっては何よりも大切な記憶であったことだけは確かだ。それほど鮮明に蘇り、心に焼きついて離れない。
あの顔。あの声。全てが懐かしい。愛おしい。
それでも、思い出すことは叶わない。
ゆらり、と小さな光がリネアの前に姿を現す。
優しく弾け、最後の言葉を告げる。
『生きて。あなたは強い人なんだから。——リネア。約束、したでしょ?』
「ぁぁ……ぁ…………」
すーっと一筋の水滴が頬を伝う。
それを皮切りに、涙が溢れだす。
なぜ泣いているのか、自分でもわからない。でも、涙が溢れて止まらない。
間も無く、光はその姿を消した。
リネアは涙を拭い、先を見据える。
そうだ。
俺にはまだやり残したことがある。
何も守れてない。守れていないじゃないか。
だからせめて、死ぬ前に家族を一人、守らせてくれ。
フィリアが、俺を待っている。
『——リネアさんっ! リネアさん!』
「待ってろ。すぐに行く」
自分を呼ぶ声が、この暗闇の向こうで待っている。
リネアは、その場所を目指し再び歩き始める。
両の目に決意の光を灯しながら。