序章4 『最後の約束』
「——リネアさん!」
血の気が引いた。
声の主は他でもない、フィリアだった。
リネアは振り返り、フィリアを手で制しながら声を荒げる。
「リア! どうして!」
どうして。
なぜ出てきてしまったのだ。
今この状況で、リネアの勝ち目が限りなくゼロに等しいことは自分でもわかっている。
だからこそ、フィリアには出てきてほしくなかった。彼女が大切な存在であるからこそ。
フィリアが死ぬ姿など見たくはない。まして、この戦場に彼女一人をおいて先に死ぬことなどできるはずがない。
しばらくしたら場所を移してフィリアが逃げられるような状況さえ作れればそれでいい。彼女が生きてくれるならば。そう、思っていた。
だが、そんな希望さえも潰えてしまった。
ますます悪くなる状況に、リネアは顔を顰める。
「だめですっ! だめなんですっ!」
立ち尽くすリネアに、フィリアは全身で泣き叫ぶ。
それを受け止め、リネアも真っ直ぐにフィリアを見据える。
「わたしはっ! リネアさんがいない世界なんてっ!」
「……リア…………」
息を切らしながらリネアの元へと駆ける。
自分の想いを届けようと、ただ前に。
あと少し。
リネアの元まで数M。
その時だった。
「グギィィァァァァッッ!」
死角からの攻撃。炎を纏った魔力弾が無防備なフィリアを襲う。
「くっ!」
一瞬気付くのが遅れたリネアだが、それでも最後の力を振り絞り【神速】を発動。
フィリアを回収し、追撃を逃れる。
しかし、
「……ぐぁっ!」
リネアはその場にどさっと倒れこむ。
逃げる瞬間、魔族が放った炎弾が体を抉ったのだ。
燃えついた炎は皮膚を溶かし、肉を露わにする。広がった傷口からは血が流れ、周囲を浸していく。
リネアは憔悴し、呼吸のリズムも不規則に早まる。
「……よかっ…た」
弱々しく声を絞るリネアに、フィリアは作り笑顔を浮かべることしかできない。
そんな様子を見て、リネアは優しく微笑む。
「リ……ア……。」
弱り切った体とは裏腹に、リネアの目には強い意志が灯る。
これでいい。幸い、魔族は今リネアたちを見失っている。これでフィリアを、守るべき人を守ることができる。
自分が囮になることで、フィリアは生き延びることができる。彼女がどう思おうと、リネアは構わない。ただ、彼女に生きて欲しい。それだけだった。
「……い、いか? リア。俺が……はぁっ………、囮に、なる。だ……から、リア、は……今のうちに、……に、…逃げろ」
息も切れ切れになりながら、リネアはフィリアの目をまっすぐに見つめる。
「でもっ! それじゃあリネアさんが……!」
フィリアの目からぽろぽろと涙が零れだす。
ほらみろ。リアだってこんな風に誰かを想って涙を流せるんだ。たとえ赤い眼を持っていたとしても、あんな奴らとは違う。
「……頼む」
リネアの、最後の願いだった。
「っ! …………わかり、ました…!」
リネアの決意を受け取り、フィリアはゆっくりと頷く。艶のいい頬が濡れ、赤い光を反射する。
そうだ。それでいい。
もはや感触がない左手を上げ、フィリアの頭を撫でる。
おそらく、これが最後だ。
泣き続けるフィリアの後方に、動き回る異形の姿が見えた。
もう時間はない。早くフィリアを行かせなければ。
体を起こし、振り払おうとするが、フィリアは強く抱きしめて離さない。
「……リアっ!」
目が合った。
涙で潤んだ、綺麗な紅色の瞳。その奥には、彼女の慈愛と寂しさが溢れる。
でも、もう行かなければ。
リネアは遠方の魔族を見据え、立ち上がろうと力を入れる。
「……っ!」
瞬間、体が強引に引き寄せられる。
振り向くと、小さな顔がほんの鼻先まで迫っていた。
間も無く、唇が触れ合う。
何も理解できないまま、時が過ぎていく。
ただ、フィリアの温かさが唇を伝って絡み合う。
「リ、ア……! なに、して……」
「だめですっ! リアはリネアさんがいないとだめなんですっ! だからっ! だから!」
「リア……」
「——死なないで!」
まっすぐな言葉が心を打つ。
——そうか。リアも……。
どうしてフィリアの心を理解してやれなかったのだろう。自分が彼女を必要としているように、彼女も自分を必要としている。そんな簡単なことにも気付けなかったのか。
ふっ、と力が抜けフィリアに体を預ける。
意識すらはっきりとしない。
それでも、華奢な体を引き寄せ抱きしめる。
強く強く、抱きしめる。
「……リア、ありがとう…………」
リネアは優しく、囁くように呟いた。
——今まで本当にありがとう。でも、最後の約束だけは守れそうにないや。ごめんな。
意識が遠のいた。