序章3 『紅蓮が照らす闇夜』
「おい……。なんだよこれ…………」
リネアがついた時にはすでに惨禍の爪痕が刻まれた後だった。
多くの建物は崩れ落ち、爛々と燃える炎が覆い尽くす。舞い上がる火の粉は留まることを知らない。
かつてリネアたちが過ごした穏やかな風景は、もうそこにはない。
目の前の惨状に重くなる足取り。絶えず炎によって生み出される陽炎が視界を歪める。
広場の石垣には誰のものともわからない血が飛散している。そこで起きた非道な行いは想像に難くない。リネアは苦渋に顔をしかめた。
ニールでの思い出が蘇っては、現実の景色に打ち砕かれる。前に進むたびに、リネアは胸の奥を貫かれる。
それでもリネアは進み続ける。彼女が生きていると信じて。
「邪魔だ!」
リネアの存在に気付き、襲いかかってきた鳥型の魔物を一蹴する。顔面から叩き斬られ、横路に霧散していく。
目には忌々しい赤い闇光を灯し、醜い異形。こいつらが、魔族——。
リネアの目には怒りが募る。こいつらのせいでフィリアが。こいつらのせいでニールが。
湧き上がる感情を拳に乗せて、魔族を粉砕しながら奥へと進んでいく。
「フィリア! いるなら返事をしてくれ! 頼む!」
胸から全てを絞り出すように、叫ぶ。
業火に染まるその場所を見据えながら。フィリアと共に過ごした日々を、燃え上がる炎が塵へと変えていく。
遅すぎた。全てが遅すぎた。自分は何も守れていない。たった一人の家族さえ——
「……リ、ネア…さん………!」
自分を呼ぶ声に、はっと顔を上げる。今にも消え入りそうな小さな声だが、聞き逃すはずがない。フィリアの声だ。フィリアは生きている。
諦めかけていたリネアの心に、一瞬で光が差し込んだ。
それだけで十分だ。リアだけは絶対に守る。
——これだけが、今俺が存在している理由だ。
半壊した扉を掻き分けて、小さな体が顔を出す。
フィリアだ。
その姿を目に入れると、リネアの顔は安堵の色に染まる。
しかし、
『ギェェ!』
刹那、上空から魔物が降り立ち、真下に向かって鋭爪を振り下ろした。
響く衝撃音。
確かな一撃に、魔族はその顔を醜くひしゃげる。
フィリアの体は跡形もなく消え去ったかと思われた。
だが、その寸前。
リネアは全身に光の粒子を纏い、消える——。
「——やらせねえ。こいつは、死んでも守る」
次の瞬間。異形の顔がありえないほど歪み、衝撃によって上体が大きく後ろに逸らされる。
そこには、自らの拳を叩き込むリネアの姿。
そして、間髪入れず続けざまに剣戟をお見舞いした後、切っ先を胸元に突き刺し、とどめ。
半獣型の魔族は何が起こったかを理解することなく、消滅した。
「リア! 大丈夫か?」
魔族が死んだことを確認し、後ろに伏せていたフィリアのもとに駆け寄る。
最愛の人に抱き寄せられ、フィリアは思わず頰を淡く染める。
抱きしめる力をさらに強め、リネアは安堵の声を漏らした。
見たところフィリアの傷はかすり傷程度で出血も少ない。とりあえずは命の心配はないはずだ。
これまで見たことのないリネアの表情に感化されたのか、フィリアの抑えていた感情がわっと溢れ出す。
「リネアざぁぁん! こわかった…。こわかったよぉ…!」
「ああ。ごめんな」
泣きじゃくるフィリアの頭を優しく撫でる。リネアの腕の中で、彼女は小刻みに震えている。
怖かったよな。泣きたかったよな。ここまでよく頑張った。
顔を上げ、フィリアはリネアの腰部——いつの間にか携えてある剣を目にすると、
「でも、リネアさん。剣はここに置いていったはずじゃ……」
怪訝そうな顔で尋ねると、リネアは得意げに答える。
「あれだけ時間があれば十分だ」
「えっ!? あの一瞬でですか!?」
「ま、そういうことだな」
リネアが“最速の騎士”と言われた所以。
それは、リネアのみに与えられた“天恵”、【神速】。
天恵というものは、神から与えられた力の総称で、ごく限られた者にしか与えられることはない。人の身体に宿る“神力”を糧として発現する、魔法と双璧を成す特別な力。
そのうちの一つ、【神速】はリネアが11の頃に突然開花した。
人智を超えた速度で、目標まで一瞬で跳ぶことができる。その速さは雷の如く、誰にも見切ることはできない。
リネアが寝室から剣を拾い攻撃まで転じたさっきの一連の動きは、魔族にとっては一瞬だった。いや、他の誰であっても視認することすら叶わない。リネアだけが、空間を飛び廻ることができる。
「リア。安全な場所に隠れててくれるか?」
リネアの言葉に、フィリアは小さく頷く。
今は自分の出番ではない。出ていくことでむしろ足を引っ張ってしまうかもしれない。
一緒にいたい気持ちをぐっと抑え、彼を待つ。
「…でも、無茶だけはしないでくださいね」
「ああ」
フィリアと約束を交わし、リネアは再び魔物と対峙する。
こちらに気づいた怪物達は、短い吠声をあげ、威嚇する。
じりじりと空気が震え、ぴんと張り詰める。
フィリアには悪いが、無茶をせずに乗り越えられるほどこの局面は甘くない。こっちは一人に対し、奴らはざっと10を超える。まるでいつかの戦争のようだ。
自分は不利な戦況を強いられる運命なのかもしれないな、と心の中で苦笑しながらリネアは剣を構える。
自分の役目はフィリアを守ること。たとえこの身が滅びようと知ったことではない。
少しの静寂の後、リネアは地を蹴った。
「うぉぉぉぉぉ!!!」
魔物の大群に突っ込んでいく。
最初の一体を切り倒し、中へと切り込む。
が、奴らも反応し次々と攻撃を仕掛ける。それを全て弾き、身を翻しざまに一閃。
白く輝いた剣線は身体を真っ二つに切り裂き、リネアはたっと着地する。
多少のダメージは気にせず、ただ前へ、前へ。
「こいつら、どんだけ湧きやがる!」
だが、倒しても倒しても、終わりは見えない。
それどころか、強さを増して襲いかかってくる。仲間の声に呼応した別の個体が、次々と飛来しているのだ。
リネアも依然勢いを増して、応戦する。
しかし、巨体の魔族が振り払った爪牙が右足の義足を粉砕する。
「くっ!」
一気に機動力を削がれ、リネアは初めて地に膝をつける。
反撃の隙を見出すことすら叶わず、ただ相手の攻撃を弾き返すことで精一杯だ。
リネアも【神速】で何匹か葬り、気概を見せる。
が、相手が悪すぎる。
消耗し続けるリネアの体力に対し、魔族はその数を益々増やし続ける。
リネアの目から一瞬光が失われる。
だが、それでも諦めるわけにはいかない。諦めることだけは、絶対に嫌だ。
全身の力を振り絞り、抗い続ける。
傷ついても、血が噴き出そうとも、その一振りで魔族を切り払っていく。
その時、リネアの耳に絶望の報せが届く。
「——リネアさん!」
優しく、労わるような、それでいてはっきりとした声。
いつもリネアの心に優しさを与えてくれた声。
そして、今は一番聞きたくなかった声だった。