序章2 『侵されゆく平穏』
「……なんですか?」
リネアの視線に気づき、フィリアが怪訝そうな顔を見せる。
「いや、なんでも」
「いや、ぜったいなんでもなくないですよ! じろーって見てましたもん! …いやらしい目で!」
整ったフィリアの顔が、だんだんといたずらっぽい表情に染まっていく。
あらぬことを言われ、リネアは手に持っていたスプーンを滑らせる。いや、それはやばい。
「いや、まじで違うんだって! 大体そんな、妹をそういう対象で見るなんて——」
確かにはたから見れば、いや誰が見てもフィリアはとびきり可愛い見た目をしている。だが、リネアにとってフィリアは妹のような存在だ。ずっと寄り添ってきた妹をそんな目で見るはずはない。
——いや待て。妹をいやらしい目で見てたとしたら、それはすごくやばい。
それにしては、フィリアは妹と言われることをすごく嫌っているのだが、どういうことなのだろうか?
全力で否定するリネアをジト目で睨み、フィリアは小さなほっぺをぷくーっと膨らませた。
「そーですかそーですか。……少しくらいはそういう目で見てくれても………」
「ん? なんか言ったか?」
「いやいや! すこーし独り言を」
フィリアはそそくさと鍋の具をよそい、自分のやましい気持ちをごまかした。さっきまでリネアに非難を浴びせていた姿はどこへやら。
その様子にリネアは気づいていないらしく、フィリアはほっと息をつく。
(リア。ほんと、変わったな)
今はこうして気丈に振る舞っているフィリアだが、村に来たばかりの時は人間不信と言っていいほど精神が不安定だった。唯一まともに話すことができたリネアに対しても、どこか心を開ききっていないところがあった。
その理由は、フィリアの眼にある。
彼女の眼は綺麗に透き通った赤色だ。だが、それが災厄を引き寄せる。
リネアも含め、ほとんどの人の目の色は青系統や黒系統だ。逆にそれ以外の人は極めて少ない。まして、赤い“眼”はなおさらだ。
そして、その“眼”の所持者は酷く嫌悪され、蔑まれる。
その理由はなぜか。この部分は大陸全土での共通認識。情報網が発達していないここニールでさえ知らないものはいないほどだ。小さな子供達でも知っている。
『赤い眼は“魔族の象徴”である』
古くから伝わるこの言葉は人々の心に植え付けられ、今もなおその心を支配している。
魔族というのは昔、その圧倒的な力を持って人間たちの国を滅ぼしかけたと言われている存在だ。大型のもの、小型のもの、数多の魔族存在したが、等しく持っていたのは妖しく輝く赤い“眼”だったと伝記には記されている。
今となっては自らの目で見たという人はほとんどおらず、魔族というもの自体が存在したのか定かではなくなってきているのにも関わらず、この悪しき風潮だけが残ってしまった。
別に赤い眼になりたくて生まれてくるわけではない。本人にはどうすることもできないことだ。にも関わらず、その眼の所持者は辛い人生を強いられる。
落ち着いてきた頃に話してくれたのだが、フィリアのそれまでの人生はひどいものだった。幼い少女にはあまりにも残酷な日々。
物心ついた時から奴隷として売り払われ、痛めつけられる毎日。同じ奴隷として心を通わせた者が次々と殺されていく。それは地獄のような光景だったと彼女は語った。
加えてフィリアはその人生に幕を降ろすことは許されなかった。自分以外の奴隷が抹殺されてもフィリアだけはその首を取られることはない。彼女が主人の命令に逆らった時でさえも、殺されることだけはなかった。
赤い眼は“貴重”だからだ。自分が飽きたとなれば、他の誰かに売り払ってしまえばいい。それだけで巨額の金が手元に戻る。それの繰り返しだ。
そんな日々が11年続いた。
聞いているだけだったリネアでさえどうしようもないほど心が痛む。本人の気持ちは想像を絶するものだろう。
そして3年前、突如としてフィリアの命運を左右しかねない出来事が起こった。
国を挙げての赤眼の取り締まり。赤い眼の所持者を連行してきたものには、法外な金額の報酬と新たな貴族としての地位が約束された。
フィリアはその噂を聞きつけると、全身に嫌な悪寒が走った。
理性ではなく、フィリアの本能が叫ぶ。絶対に捕まってはいけないと。
奴隷売人の隙を見て逃げ出したフィリアは、一人で国内を駆け回った。
とにかく、王都から遠くへ逃げなければ。食事もとらず、睡眠も最小限だけ。身を削って走り続けた。
そしてある日、売人の依頼を受けていた賊に見つかってしまう。
もうだめだ。逃げ切ることなどできはしない。フィリアは絶望したが、それでも僅かな望みをつなぐために諦めることだけはしなかった。
そんな彼女の想いは、奇跡を起こす。
もし、その時居合わせたたのがリネアではなかったとしたら? 賊を追い払うことはできたか? できたとしてもその後は? 結局は国に突き出されていたのではないか?
まさに奇跡だった。
リネアはフィリアという少女の運命を大きく変えたのだ。
「リア」
「…はい。…なんでしょう……?」
しかし、フィリアも彼にかけがえのないものを与えてくれた。
フィリアと出会ってから、リネアの生き方も変わった。
フィリアと話すのが楽しいし、フィリアが笑ってくれることが嬉しい。
それまで家族の繋がりを感じたことのなかったリネアに、同じような絆をくれた。
絶対に失くしたくない、かけがえのない存在だ。
「うん。リアは俺の大切な妹だ」
リネアはぽつりと呟く。
瞬間、リネアの視線によって赤く染められていたフィリアの頰が急激に冷めていく。
そして顔をぷんぷんと膨らませて、
「だーかーらー! いーもーうーとじゃないですーーー!!!」
そう言って、家を飛び出していってしまった。
大きな家に一人取り残されたリネアの頭上には「?」マークが浮かんでいた。
▷
——これはまずい。ものすごくまずい。
結局その後は「一緒に寝てもらいますからね! そしたらゆるします」と言って聞かないフィリアの態度に圧されて、リネアは渋々一緒に寝ることになった。
はじめは問題なかったのだが、なかったのだが……。
フィリアはぎゅーっと抱きついてくるので、リネアの体には必然的に二つの柔らかな膨らみが当たってしまう。身長の割に主張が大きい双丘はリネアの理性を揺さぶってくる。
——だめだ。
もちろん妹にやましい気持ちを持ってはいけないということはリネアも重々承知だ。だが、それとこれとは別だ。
意識しすぎて寝られない。
「ごめんな。リア」
リネアは気づかれないようにそっとベッドから抜け出すと、足音を立てないようにゆっくりと移動する。息を殺して、慎重に。
先ほどの葛藤のせいですっかり目が冴えてしまった。このまま眠りにつける気もしないので、星でも見に行こうか。
いつもの草原は星の眺めが抜群に良い。オリヴィアでは街灯の光で姿を隠していた小さな星も逃さず目に見ることができる。少し夜風に当たるには絶好の場所だ。
「そーっとそーっと」
すり足で玄関まで辿り着き、無事に音を立てずに家を出ることに成功。
この時間は大門は閉まっているので、裏の小さな扉から村の外へと出る。
大きな満月が照らす夜の道に趣を感じ取りながら進んでいく。
「やっぱすげえな。ここは」
一気に辺りは開け、心地よい静寂がリネアを包む。
いつものように寝転がり、夜空を見上げる。
山際から青白い色彩が淡く広がっていく。小さな星たちが控えめに輝き、薄い河を形作っている。
それらの中央で佇む月は、手に届いてしまいそうなほど大きく、手にすることが叶わないほど綺麗だった。
「さてと。——ん?」
体を起こすと同時に、闇夜に一筋の光が走った。
流れ星か? いや、それにしては近すぎる。
それにあの方向。ニールの村だ。
いやな予感がリネアの頭によぎる。
まさか——
「!」
数秒遅れて盛大な爆発音が鳴り響く。
木々が揺らめくほどの爆風とともに、火の粉が舞い落ちる。
さっきまでの静寂が一転、草木がざわめきだす。
一体誰が? 何のために?
いくつかの疑問が頭に浮かんでくる。
だが、今はそんなことはどうでもいい。
「リア!!!」
リネアは叫び、疾駆した。
何度目にしたかわからない、この世の終わりのように紅く染まった景色の中を全速力で駆け抜ける。
たった一人の家族を守らなくては。