序章1 『第二の人生』
『ブゴォォォ!!』
怒気を孕んだ魔物の声が鳴り響く。
3Mにも達しようかという巨体に、ねじれ曲がった二つの大牙。
激しく大地を踏み荒らし、大猪はその身を震わせながら突進を繰り出す。
「来い!」
対するは隻眼の青年、リネア。
迫り来る巨躯によって生み出された風圧が金の髪を波打たせる。
しかし、リネアはゆっくりと正面の獣を見据え、剣を構える。
自身の何倍にも上るその体躯を前にして、彼は動じない。
粉砕した木片を撒き散らしながら、大猪はリネアの寸前まで距離を縮める。
魔獣の牙先が触れようかとするその時、リネアは左手の剣を煌めかせた。
『ブゴォ!?』
一瞬のうちに二つの剣戟を刻まれ、魔物の体躯は後方へと弾き飛ばされる。
間を置かず、リネアは追撃を敢行する。
一閃。
大きな衝撃が辺りを包み、木々を薙ぎ倒す。
無慈悲な一撃をもろに食らった猪は耐えきれるはずもなく、絶命した。
「うしっ!」
リネアは得物を鞘に収めると、猪を自分の荷物に括り付けた。左手しか使うことができないので時間はかかるが、今となっては慣れたものだ。
失った右足にも義足がつけられ、歩くことはできるようになった。木で作られた簡素なものだが、普段の暮らしには問題ない。
大きなモノが追加された荷物を背負うと、リネアは帰路についた。
あの戦争から5年。
リネアはオリヴィア王国の南端、ニールという素朴な村で暮らしていた。
この村は辺り一面が雄大な緑に囲まれ、澄んだ空気は淀んだ気持ちを洗いさってくれる。周りが山地なので、ヴァランが言っていた通り戦とは無縁だ。
傷自体は完全に癒え、問題なく体を動かすことはできる。大猪を対峙するくらいには。
それでもリネア本来の力には程遠いのだが、無理に戦う必要のなくなった今の状況では十分すぎるほどだ。
歩を進めていくと、やがて大きな木組みの門が目に入った。今はまだ昼間なので、扉は左右に開かれ内部が伺える。
控えめな装飾の家屋が建ち並び、のどかな雰囲気が見て取れる。中には小川が通っており、村のちょうど中央にあたる場所には大きな広場が円形に設けられている。
まさしく地方の農村といった感じのこの村が、リネアは好きだった。
そしてここの住人も。
リネア自体が騎士団以外の人とあまり接した経験がなく、初めはお互いによそよそしくなってしまっていた。しかし、みんなが仲良く笑い合い、助け合う。そんなニールの村の関係性が次第にリネアの心の鍵を開けていった。比喩抜きで村全体が家族のような、そんな感じさえした。
小さい頃からずっと騎士団にいたリネアにとっては新鮮で、ずっと欲していたものでもあった。そんな温かいものを、ニールのみんなは彼に与えてくれた。
昔の自分を否定するわけではない。確かに騎士の仲間達と一緒に切磋琢磨してきた日々は間違いなく楽しい思い出だ。しかし、リネアは今の生き方の方が魅力的だと、そう思い始めていた。
大切な人とともにのんびりと暮らすこともまた、善い生き方なのだ。
戦いに明け暮れ、国のために身を捧げる。それしか生きる意味を見出せなかったリネアにそんな感情が芽生えたのも、ニールの村と、ある少女のおかげだった。
背負われた猪に目を丸くする村人たちを通り過ぎ、村の奥へと進んでいく。
少し離れた場所にある少し大きめの建物が、リネアの家だった。
近づいていくと、一つ。小さな少女と目が合う。
「あ! リネアさーん! ただいまー! おかえりー!」
「お、リア。ただいまー」
自分の名前を呼ぶ声に、リネアは左手を上げて答える。
声の主はフィリア。肩にかかるほどの桃色の髪に、端正な顔立ち。ふんわりとした雰囲気の彼女は、隠しきれない可愛さを身に纏っている。身長は低く、リネアの肩にやっと届くくらいだ。
「って、またすごいのもってきましたね…」
フィリアもまた例に漏れず口をあんぐりと開ける。
それと同時に、細長く伸びた癖っ毛がピンピンと逆立つ。
本人の意思で動かしているわけではないのだろうが、この癖っ毛は大体フィリアの感情に呼応して動いている。嬉しい時はくるくると、悲しい時はしなしなと。少なくともリネアにはそうとしか思えない。今まで何度も目にしてきたが、予想に反した動きはしたことはない。
「だろ? そこら辺歩いてたら急に現れてよー、あまりにも食べてほしそうな顔してたから、ついな」
「つい。って、ちょろっと買い物してきたわー。みたいなノリで言わないでくださいよ。その猪もきっと今頃こう思ってるはずです。『な、なんやこいつ。こいつの方がよっぽど化け物やんけ』って」
「はっはっはー。先に吹っかけてきたのはこいつの方だからな。俺は売られた喧嘩を買っただけだ!」
「もー。相変わらずですね、リネアさんは」
「それより! 今夜は鍋パーティーだ。美味しく頼むぜ、リア」
「おっ! いいですねー! まっかせといてください!」
言いながら、フィリアは家の扉を開けてくれる。
リネアはありがとう、と中に上がろうとするが、
「むっ」
荷物が引っかかって入れない。猪だ。
普通に考えればわかることなのだが、どうして。
「……」
「……」
数秒、無言の時間が続く。
「「……ぷっ。あはははっ!」」
堪らず、吹き出す。
小鳥のさえずりを背景に、二人の笑い声が響く。
「あっははは!。リネアさん! おっちょこちょいにもほどがありますよ!」
「こ、こんなことは誰でも一回くらい……」
「ないですよー。——ぷっ」
「お前、後で覚えてろよ」
笑い続けるフィリアに呆れながら地面に荷物を降ろし、猪を紐から引き離す。
ようやく笑いが収まった様子のフィリアも涙をぬぐい、解くのを手伝った。
そして今度は確実に、中へと足を踏み入れる。
リネアとフィリア、二人の家だ。
当たり前だが、二人は本当の家族ではない。一緒に暮らすようになったのが3年前。リネアがニールに越してきてから2年が経った頃だった。
リネアが村の外に散歩をしにいった時のことだ。
村を出て北にしばらく歩くと、見晴らしの良い草原が広がっている。心地の良い風が草木を揺らし、所々には花が控えめにその身を覗かせる。その場所で、太陽の光を浴びながら昼寝をするのがリネアの日課だった。
いつものように寝転がると、どぉん、と大きな衝撃音がリネアの耳に届いた。
体を起こし、音の聞こえてきた方角へと急ぐ。
見えてきたのは森の中を疾駆する少女と、それを必死の形相で追いかける賊だった。
ボロボロになった少女、フィリアはリネアの存在に気づくと、すがるような声で叫んだ。
『はぁっ。はぁっ。助けて!!!』
心からの悲痛の叫び。
フィリアの必死の想いをリネアは受け取らずにはいられなかった。いや、頭で考えるよりも先に、体が動いていた。
『待ちやがれ! てめえを売り払えば、俺は———』
『残念でし——った!』
リネアは即座に男の目の前に跳ぶと、顔面に拳を叩き込んだ。男は驚く間も無く吹き飛ばされ、やがて意識を失った。
『大丈夫か?』
リネアはフィリアの元へと駆け寄ると、優しく抱き寄せる。
が、反応はない。かといって、呼吸は続いているので死んでいるわけではなさそうだ。
村に連れ帰り事情を話したところ、一時的にリネアの元で様子を見ることになった。フィリアの意識が戻ったら、その後のことはその時考えようと、そう結論付いた。
その予定だった。
しかし、結局こうして二人は3年間一緒に暮らしている。フィリアが帰るべき場所がないのと、何よりもリネアに懐いてしまったのが一番の理由だった。
リネア的にも、一緒に居られる人ができることは嬉しかった。——本音を言えば、少し寂しかったのだ。
「リネアさん、ソルテ味でいいですか?」
「ああ。頼むー」
日も暮れ始め、フィリアはいそいそと夕食の準備を始めた。
ソルテというのは白い粉状の調味料のことで、様々な料理に使われる。しょっぱくて、癖がないのでどんな料理にでも合わせることができる。
今回の鍋のようなメニューであれば、ソルテをベースとしたスープを煮込むことだってできる。
一方でリネアは食器を運び終え、椅子に腰掛ける。
特にすることもなかったので、フィリアの手伝いをしようと声をかけるが、
「リアー。俺も手伝お–––」
「いいですっ!」
即答。
いつもは柔和な態度を崩さないフィリアだが、この話だけは譲れない。
なぜなら、フィリアは知っているからだ。
リネアの、絶望的なまでの料理の下手さを。
それは、フィリアが体調を崩したある日に起きた。
いつもはフィリアが料理を作っていたのだが、今回ばかりはとリネアが人生初の料理に挑戦することになった。早くフィリアの体が良くなるよう、あれこれ考えて慣れない作業をこなしていった。そしてついにリネアはお粥を作り上げた。
———へえ。案外リネアさんって料理上手なんだな。
それほど難しい料理ではないが、香りも良く、見ただけで涎が出てしまうほど美味しそうな見た目をしていた。もしかしたら、フィリアが作ってもこうはならないかもしれない。フィリアは彼の意外な一面に少し驚いた。
だが、良かったのはここまでだった。
『ゔっ!?』
口に入れた瞬間、声にならない声を出し、涙を流すフィリア。
まずい。すごくまずい。
シンプルな見た目からは想像もできないほどたくさんの味が口に広がる。甘み、辛み、苦み。リネアの作った料理(とは言えない何か)に、全ての味覚が支配される。
もう、口に入れていられない。吐いてしまおうか。いや、それだときっとリネアは悲しんでしまう。
心の中で葛藤を繰り返し、フィリアは意を決して飲み込んだ。
形容し難い嫌な感覚がフィリアを襲う。なんというか、全身が見えない棘で刺されているような、そんな感覚。
『リネアさん、今までありがとうございました…。私の分まで、生き…て』
フィリアは死を覚悟した。魔料理の情報が頭まで伝達され、全身に力が入らない。
慌てふためくリネアをよそに、フィリアの意識はだんだんと薄れていった。
幸い体には何の影響もなかった(しばらく料理に対して若干のトラウマは残った)が、それ以来フィリアはリネアに料理を作らせてくれなくなった。もう、あんな思いはこりごりだ。
リネアに自覚はないが、フィリアの反応を見て流石に悟った。
といっても、リネアとしてもフィリアの美味しいご飯が食べられるなら文句はない。ちょっと悔しい気もするが。
そうこうしているうちに鍋の仕込みが終わったらしく、フィリアが土鍋を両手にこちらに向かって歩いてくる。小さめな彼女が持つとかなり大きく見える。
「できましたー!」
「おー」
じゃーん、と勢いよく蓋を開けると、篭っていた湯気とともに美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐる。今にも涎が出てしまいそうだ。
フィリアが向かい側の席に着くと、二人は笑顔で手を合わせる。
「「いっただっきまーす!」」
待ちきれない、とリネアは真っ先に牡丹肉へと手を伸ばす。
熱々のうちに口に放り込む。
うん。美味い。
猪独特の臭みは全くなく、全体にソルテの味がしっかりと染み込んでいる。食感も柔らかく、噛むたびに肉汁が溢れ出す。
「どうですかー?」
「……最高だ!」
「やった! えへへ」
幸せそうに頬張るリネアの姿を見て、フィリアもまた嬉しくなる。
リネアと違い、フィリアの料理の腕前は一級品だ。見た目だけで言えばリネアの料理の方が優っているかもしれないが、中身はまるで違う。リネアが毎回のようにフィリアを褒めるのも仕方のないことだ。本当に美味しいのだ。
フィリアも自分の皿に取り分け、二人で食卓を囲む。
側から見れば兄と妹。まるで家族のようだ。
リネアは小さな幸せを感じながら、フィリアの横顔を眺めていた。