底にあるもの
お引越しが決定したといえど、すぐに移動するわけでもなし。
私は今日も鈍色スクラップでいっぱいのホールを眺めるばかりだ。
なぜか壁に張り付いて剥き出しな配管の位置から動線の経路を絞り出す作業を続けていると、またもや足音が左から聞こえて来た。
コツコツとした硬質な音では無いので、おそらく助手共の誰かだろう。
博士の方はヒール付きの靴しか履かない、聞き分けは容易だ。
やはり助手だった。
…あぁ、検査の時にいた男か、名前はウートルだったか?
鉄パイプ椅子を腕の下に抱えやって来た男は、イスを立てると背もたれを前にして座った。
「調子はどうかな077番?毎日ボウフラみたいにプカプカ浮いてるだけの生活なんだ、さぞ気楽だろうね」
背もたれに胸を預けた男は、スマホじみた機械をじぃっと見つめながら言った。
なんだこいつ?
独り言言いに来たのか?わざわざ実験体に?
友達いないのかな…
「実は魂殻というのは自意識の影響をもろに受ける妙ちきりんな性質を持っていてね、要は個体の思考スキームの複雑さをだいたい測れる訳さあ。…それで当然君のそれも調べてみたんだが。なんとまぁ、人と比べて遜色ないほどの思考力を持っているじゃないか!
はっきり言って077番、君ほどの異常個体は今まで見た事がないよ。その知能の高さが、君の体にある複数の魂殻とどう関係しているのか。是非とも知りたいものだねぇ…」
さっきから聞いても無いことをペラペラ喋りやがって……どうせ話しかけるなら魔法の習得方法を教える位の懐の広さを見せろ、このダボが。
またぞろ虚空から取り出したタバコを咥え、スマホをポチポチやりながら男は続ける。
「博士もえらいこっちゃえらいこっちゃって騒いでね、取り敢えずお付きの俺に接触を命じられたんだけど……まず言葉を教えるところから始めなきゃいけないんだろう?それって凄い面倒臭いよね…俺は君のママになるために研究者やってるわけじゃないってのに」
男がスパスパ蒸す煙で景色が曇る。
この上なく邪魔だ、面倒臭いからさっさと消えろよ。
「だいたい声も出せねえだろうにどうやって言葉理解させるんだよ……文字表でも見せていけば良いのかな。ほれ、これが発音表だ。一丁前に考えられる頭してるんだから、ヒーマ語くらいはさっさと覚えてくれよ?ホントにさぁ…」
スマホもどきの画面をこちらに向けて、文字らしきものを指しながら「あー」とか「いー」とかの音を発するウートル助手。
言葉なんか最初から分かっとるわボケカス。
とは思ったが、文字の理解も必要だろうと真面目に説明を聞くことにした。
覚え漏らしはない。
ノロノロと進む発音講座はじれったかったが、おかげで標識やパネルが読めるようになった。
これはデカイ。
あいにく此の身には文字の配列からだけで言語解読する程の語学スキルは無かったのでな。
至るところに浮かんでいる光学掲示板の内容が把握可能になったことでこの施設の推察には大いに役立った。
だが手に入る情報量が増えたところで状況は何も変わりない。結局のところは自ら行動を起こす事が出来なければ、抗うことはおろかもがく事すら許されないのだ。
「整備用具の保管方法についての注意」や、「1日の水分使用量上限について」、「今週の食堂献立表」等々。どこまでもどうでもいい知識だけが脳内溜まっていくことに辟易しながら、時間は過ぎていった。
ゴトゴトゴト
私、正確には私を包むガラスカプセルは巨大なエレベータに乗せられていた。
とうとう引越しの時間が来たのだ。
室内ゆえ相変わらず昼も夜も分からないが、文字講座が始まってからそう時間は経っていないはずだ。
無人操縦の重機ロボが二台がかりで左右から私のカプセルを壁から切り離し、キャタピラを鳴らしゆっくりとエレベータの中まで運んで行く感覚は、中々どうして、神輿に担がれているようで悪く無かったとも。
これでカプセルの隣に張り付いてべらべら喋り倒すこの男さえいなければ完璧だったなぁ。
「前にも話したと思うけど、君はこの特大培養ポッドで作られた実験体だ。で、作った実験体にいちいち暴れられても困るってんで、肉体がある程度まで成熟すればポッド内の包酸素ゲルに神経麻痺薬を混合させる事にしてるんだ」
階を示すランプがポツポツと下に下に点滅していく。
B5からB9層だったか?ふむ、最下層ではないか。……ここに来てますます脱出が絶望的になって来た感が凄いのだが。
「これは安全管理上避けられない対策なんだけど、こと君のケースにおいてはそれが致命的な欠陥になってしまったんだね。なんせ身体が動かないんじゃ此方の意思が伝わっているかどうか確認のしようもないし。
そこで博士とも話し合ったんだが、一度君のポッド内の麻痺薬を抜いてみようと思う」
ん?
「まぁ今の君に言っても通じないか。そこら辺はおいおい、上手くやっていくよ。それよりまずは……人間の叡智を伝える偉大なメディア、言葉を覚えて貰わない事にはねぇ。
…俺達も暇じゃないんだからさぁ」
無人重機の縁から足をブラブラさせながらぼやくモジャモジャ茶髪の白衣男。
私にはその姿が、海を割り道を照らすモーセに見えた。
そして唐突に鳴り止む機構の駆動音。
いっそ不気味になる程の静寂の中、私を下層まで送り届けた鉄箱の壁が開いた。
「研究だってようやく佳境に…って着いたか。
ここの階層間って無駄に距離が長いから嫌いなんだよね、まぁ仕方ないのは分かるけども。
ハァ……ようこそ、Sa研最深部、旧人の青山、マッドらの駆け込み寺。この施設にゃそれはもう不名誉な呼び名がたくさんあるけども。その中ですらB9層は特別でね」
聞こえるのはウートル助手の声と、キュルキュル回るキャタピラの擦れ音のみ。全体的に不自然なまで薄暗い通路をゆきながら、話は続く。
「澱んだ汚泥の、更に下へ溜まった沈殿さぁ。俺達も大概ヤバイ事に手ェ出してるマッドなサイエンティストってことは自覚してるけどね?そんなクズどもでも気後れしちまうような所なのさ、ここは」
厳重に錠が掛けられたハッチが上がって行く。
鉄の壁をせり上げてまず目に入ったのは。
「みたもう、旧き人の負の遺産」
暗い暗い、どこまでも落ちて行きそうな黒
世界に穿たれた穴
奈落の底へ
伽藍堂