小さな手 (ショートショート76)
私の手に、ある患者の記憶を記したカルテともよべる記録がある。
幼児の記憶――。
タッタッタッ……。
お部屋の前の道で足音がする。
――アヤおねえちゃんだ。
あたし、足音でわかるんだ。夕方、アヤおねえちゃんはいつも走って通る。ああして足音をひびかせて。
あたしはまだ小さいから、土蔵の二階の窓から顔が出ない。背伸びをしても空しか見えないの。
――いつだって、お外が見たいのに……。
だから、この前。
お外が見たいって、おかあさんにお願いしたの。
そしたら一度だけ、あたしをダッコして、お外を見せてくれた。ちょこっとだったけど……。
そのとき前の道を走ってる、おねえちゃんの姿が見えたの。タッタッタッ……って。
「だあれ?」
「ごはんを運んでくれる、アヤおねえちゃんよ」
おかあさんが教えてくれた。それであの足音、アヤおねえちゃんのものだって知ったの。
一日三回、アヤおねえちゃんはこの土蔵にやってくる。あたしたちの食べるものを運んでくれてるの。
あたしは二階にいて下に降りたことがないんで、まだアヤおねえちゃんの顔を知らないんだ。あのとき見えたのも、うしろ姿だけだったから……。
――アヤおねえちゃんって、どんな人なんだろ?
あたしね、いつも考えてるの。このお部屋でアヤおねえちゃんのこと……。
母親の記憶――。
この土蔵の二階で生活するようになって、もうずいぶんと月日が過ぎたような気がします。
三年でしょうか? いえ、もっとたっているような気もします。
目の前で、人形と無心に遊ぶアヤ。
この子を産んだ直後、私は体調をくずし療養のため実家にもどりました。それからはアヤと二人、この土蔵で暮らしてまいりました。
回復のきざしがいっこうに見られない私は、相手方から一方的に離縁されてしまったのです。さいわい父が地主で裕福なため、食べることにこまらないことが唯一の救いです。
もう、ずいぶん長い間。
私の両親と、ときおり往診にみえられるお医者様以外、だれ一人として顔を合わせておりません。
それが最近になって……。
ひとりの娘が、この土蔵にやってくるようになりました。面倒をみてくれていた母が腰を痛め、歩くことさえままならなくなり、その母のかわりとして、父が近隣に住む村の娘を雇い入れたのです。
娘の年は十五、六でしょうか。
――ああ、自分もあんなときがあったのに……。
まだあどけなさの残るしぐさに、つい昔の自分を思い重ねてしまいます。
この娘の仕事は、日に三度、この土蔵に食事を運んでくる、ただそれだけです。決してアヤに会わせることはありません。
なぜなら……。
だれにもアヤを見せることはできないのです。
ときおり窓枠に小さな手をかけ、外を見たいとせがむアヤ。
かわいそうなアヤ。
少女の記憶――。
村役場の戸籍係、これが今のわたしの仕事だ。
今日、ある女性の死亡届を受理した。その名前は忘れもしない。わたしが十五のときに奉公した、地主様のところの若奥様である。
――アヤ奥様、亡くなったんだ……。
ふと、五年ほど前のことを思い出した。
短い期間だったが、わたしは地主様のところで働いた。腰を痛めた大奥様にかわって、洗濯、掃除などをしながら、土蔵に食事を運ぶのが仕事だった。
はなれの土蔵。
そこにはアヤ奥様と女の子が暮らしていた。
女の子は重い病気。それで母親のアヤ奥様が、つきっきりで世話をしている。働き始めた日、地主様からそう教えられた。
日に三度、二人の食事を土蔵に運んだ。ただし二階まで運ぶことはなく、一階の上り口に置いて帰るだけだった。だから、アヤ奥様と顔を合わせるのはまれであった。
ただ、食事を運ぶたびに……。
二階から子守唄が聞こえていた。アヤ奥様の悲しみにあふれた歌声が……。
女の子の姿は一度も見ることはなかった。二階から決して降りてくることがなかったのである。
ただ何度か、土蔵の窓からのぞく女の子の小さな手を見たことがある。小さな手だった。それで女の子の手だとわかったのだ。
三カ月ほどたったころ。
とつぜん地主様から言い渡された。アヤ奥様は入院したので明日から来なくていい、と。あとになって知ったのだが、病気だったのは女の子ではなく、アヤ奥様の方だったようだ。
あの日から……。
アヤ奥様とは一度も会っていない。この村に帰ってこなかったのだ。そしてあれからすぐに地主夫婦はこの世を去り、今では屋敷に住む者はいない。
アヤ奥様の死亡届を処理しようとして、おかしなことに気がつく。アヤ奥様の戸籍に、あの女の子の記載が見られないのだ。
離婚前の戸籍を調べてみた。やはりそれにも、子の出生記録はなかった。
――あの子はだれだったんだろう?
今になって思うに……。
あの子は、あれからどうなったのだろうか? 地主夫婦のもとに残っていれば、わたしは引き続き雇われていただろうから。
土蔵の窓からのぞいていた小さな手。
その小さな手が目に浮かんだ。
三名の記憶――。
これらは、ひとりの女性によって語られたものである。ときには幼児、ときにはその母親、ときには少女となって……。
彼女は最近、精神科医の私が担当することになった患者で、アヤという名前。もう十年もの長い間、この病院の一室で過ごしてきたそうである。
カルテにある彼女のおいたち――。
S村の裕福な地主の家に出生。
幼いころから病弱。
十八歳で村役場に就職し、二十三歳のときに結婚。
この結婚を機にS村を離れる。ところが三年後、子が産めない身体だとわかると、相手方から一方的に離縁される。
その直後に発症。以後、往診により治療を続けるも症状悪化。
入院後も回復のきざしはなく、現在に至る。
この間、両親は他界。財産は遠縁の者によって管理され、医療費もその者から支払われている。ただし面会履歴は一切なし。
三名のアヤに共通するのは、土蔵。
私は、その土蔵に向かった。治療するには、彼女の心の深層に潜むものを突きとめねばならない。
そう考えたのである。
目的の場所に着ついたのは、すでに日暮れ前の黄昏どきであった。土蔵の前の道に立ち、彼女が療養していたという二階を見上げた。
そして、このとき――。
私は見た。
窓からのぞく小さな手を……。
彼女の心の中にしかいないはずの、女の子の小さな手を……。