考える草
私は草だ。
いつから草だったのかは忘れてしまったけれど、気づいたときには草だった。草は踏まれてもまた立ち上がると言われているので、私はよく踏みつけられた。最初はこの野郎とも思っていたが、次第に痛みに慣れ、挙句の果てには何も感じなくなった。
隣の花壇を眺めると、そこには色とりどりの花が咲き乱れていた。当然のことながら彼らは踏まれることなどない。たくさんの人間がそこにやってきては、咲き誇る花たちを褒めちぎる。私はそれをただ眺めている。悔しいとは思わない。もし自分があの花たちだったとしたらそれはそれで大変だと思う。胸を張って咲かなければいけないし、少しでも旬が過ぎたらあっという間に枯れてしまう。そのぶん、私のような草は通常の花よりも長生きする。長生きしたところで何になるのかと問われてもそんなことこっちが聞きたいと返さざるを得ない。だから今日も今日とて私は空を眺める。生きている理由。それは空を眺めること。それ以外にない。それはきっとこれからもずっとずっと続くのだろう。
このまま滅びていくのだろうか。空を眺めているといつも脳裏にそんなことばがうかんでいる。このまま子孫を残さずに孤独に独りで惨めに死ぬ。そんな未来が訪れるのだろうか。そうおもうと、すこしだけ、ほんの少しだけいてもたってもいられないような、そんな気分になる。いざとなればどこへだって飛べる。そう信じ込むことで多少なりとも狂わずにいられる。でも自分のことは欠片も信じることが出来なかった。自分を信じても結局は裏切られるだけ。それは誰かに裏切られるよりもずっとずっと私の心を苦しめるだろう。
重苦しいため息をひとつ吐き出して、私は俯いた。地面には私の細長い影が斜陽に照らされて薄く伸びている。間延びしたチャイムの音が校庭に鳴り響き、授業の終わりを告げている。そろそろだ。そろそろこの花壇の周りを子供たちが通る。きっと彼らは私のことを踏み付けていくだろう。別に構わない。好きなように踏むといい。むろん私は小学生に全身を踏みつけられることによって性的な快楽を味わうようなタイプの草ではない。まあ、そんなことはどうでもいいか。私は再びため息を吐き出した。植物は空気中の二酸化炭素を吸い込みそれを酸素に変えるという機能を持っているらしいが、生まれてこの方、そうした人間の役に立つようなことをした覚えがまるでない。いつもいつも私はため息ばかり吐いている。生まれたときからずっとそう。目が覚めたらため息。雨が降ってもため息。晴れていてもため息。ため息。ここから一歩も歩き出すことが出来ない。人間はいいなあとおもう。鳥もいいなあとおもう。たんぽぽもいいなあとおもう。私にないものをたくさんもっている。
と、そのようなことを考えて独りまた滅入っていたところ、一人の少女が私の前に駆けてきた。おそらく私のことを踏みつけるのだろう。いや、もし仮に彼女が私のことを踏みつけなかったとしてもきっと別の誰かが私のことを踏みつける。だから彼女が私のことを踏もうが踏ままいがそんなことはもうどうでもよかった。ピンク色のスカートに水色のシャツ。夏にピッタリなそんな服装を身にまとった短髪の少女。肌は少々青白く、おそらくは室内で遊ぶことが多いのだろう。私のことをじっと見つめるその眼差しはなぜだか妙に真剣だった。
もしかしたら彼女は私の正体を見破っているのかもしれない。子供というのはおとなよりもそうした神秘的な現象に対して敏感だ。故に私が沈思黙考タイプの草であることをその無垢なる慧眼で見破ったのかもしれない。しかしながらそれがなんだというのだろう。もし仮に彼女が私の正体を見破ったところで、私の憂鬱が晴れるわけでもないし、もしかりに彼女が学校でこの草さん人間の言葉がわかるの、などと言おうものならそれこそ迫害者である。それだけはなんてしてでも阻止しなければならない。むろん彼女のことを私はまだ何も知らない。これからもおそらく知ることはないだろう。確かに彼女は小学生にしてはなかなかどうして大人びた面持ちをしている。着ているものや髪型は多少なりとも幼いものの、その眼差しはどこかしら聖母のようであった。慈愛。私の脳裏にそんな言葉が浮かぶ。思えば私は産まれてこの方、誰かから特別な寵愛を受けたことがなかった。別にそれが嫌だったわけではないし、この前人間たちが話していた「置かれた場所で咲きなさい」という話には多少なりとも心が動かされるものもあった。しかし私は置かれた場所で咲くことも出来ないし、動くことも出来ない。馬鹿な小僧どもは私のことを踏みつけてくるし、誰にも見向きもされない。まあ小僧共に関しては私のことを認識しているからこそ踏んでいるとも言えるのだが。
「ねえ」
だからここで彼女が話しかけてきても動揺してはいけない。男というのは女性の一挙手一投足で動揺してはいけない。ここのところよくこの花壇の前に来ては愚痴のようなものをもにょもにょ言って帰っていく男性教諭の荻原なんかはまさにその典型だ。やつはダメだ。たしかに失恋は辛い。辛いけれども立ち上がれよ、と、私は思う。いつまでもいつまでも彼女が夢に出てくるだとか忘れることが出来ないむこうもまだぼくのことを思っているだとか、そんな話を毎日毎日聞かされるこっちの身にもなってみろ、という話だ。むろん彼は私に聞かれているとは夢にも思っていないだろう。しかしだからといってなにをしてもいいというわけではないのだ。
「もしあなたの考えていることが全部伝わってるって言ったら驚く?」
そりゃあ驚く。私の考えていることが人間如きに伝わるわけがないのだからーー
と、そこまで考えた瞬間、私の身体はむんずと掴まれた。なにをするか。離せ。小娘。離せっ。
「フフフ。油断したね」
油断するも何も私はどうすることもできない。もし仮に何か防御策を講じることが出来たのなら喜んでしていただろうが、私はこれでもしがない草。突然の襲撃にあった場合、どうすることもできない。ただただこうしてされるがままになっているほかないのだ。私の葉脈もこれまでかーー。
「ねえ、草さん。もしよかったら友達になってよ」
彼女は柔らかいほほ笑みを浮かべながらそう言った。私はどうしようか迷ったが、人間にそんなことを聞かれるとはおもってもいなかったので、おもわず首を縦に振ってしまった。
どうして彼女が私のことを理解できるのか。なにゆえ私と友達になろうと言い出したのかはわからない。しかしながら今はそれでもいいもおもった。何一つとしてわかるものはないけれど、今こうして彼女の掌に抱かれながら私は、自分の中でドロドロと渦巻いていた怨念じみた情念が少しずつ浄化されていくのを感じていた。この先に何が待っているのか分からない。もしかしたら捨てられるのかもしれないし、考えたくないことではあるのだが、燃やされるかもしれない。彼女がマッドサイエンティックな思考の持ち主なら、人語を理解する草は果たしてどんな断末魔をあげるのか、それはさながらマンドラゴラのようなものになるのではないか、などといった興味を抱いているのだとしたらそれはとても恐ろしいことであるし、死にものぐるいで避けたい未来なのだけれど、どのみち私の体ではどうすることもできなかった。
なるようになればいい。
でも痛いのはゴメンだ。
私は改めて彼女の瞳を見つめた。どこまでも澄み切った、透明な黒がそこにはあった。