閑話弐『むかしばなし』
昔話をしよう。
二つの昔話だ。
一つはほんとうに昔の話だ。とても――ね。
一つはそう昔の話ではないかもしれない。君自身の話だ。
順を追って話していこうか。
昔々。
この辺りはとても賑わった、人も妖も活気にあふれた町だった。その頃は、人と妖との境が今よりずっと曖昧だった。少しずつ人の世が明るくなって、二つの世界は分かれつつあったんだけれど、それでもまだ当たり前のように重なり合っていた。今みたいに完全に分けたのはわりと最近の話でね。
とある化け猫はね、そんな時代に妖となった。
白い毛並に左右色の違う目。おそらく海外からの船に乗って、来てしまったんだろうね。他と違う姿、目立つ姿は仲間にも疎まれ、人にも気味悪がられた。挙句のはてには災いを呼ぶとさえ言われたようだね。人は得てして得体の知れないもの、他と違うものを恐れるものだ。
その猫は、人に嬲り殺された。気味の悪いというその白い体が赤黒い血に塗れて、ともすれば黒猫にすら見えてしまうくらいに。
あまりに理不尽な暴力だった。母とはぐれ、知らない土地に迷い込み、挙句にわけの分からないまま殺された。それは恐怖から憎悪と恨みへと変わり――そのどろどろとした恨みは、猫を妖異へと変えた。
自分を殺した人を呪い、通りかかる人を呪い、最早何を呪っているのか分からなくなった頃――
化け猫は一人の遊女と出会った。
化け猫が死んだ場所が、ちょうど花街の入り口の裏辺りで、たまたま外へ出る許可を得ていた遊女に見つかったんだ。草むらの中でひそやかに、ぎろりと血走った目を覗かせる子猫の姿をした何かに、遊女は手を差し伸べた。およそ恐ろしい化け物の姿になっていただろう――その白い猫に。
――「おまえも、ひとりかい」
と。
結局その遊女は、恐ろしい化け物を化け物と思わず、化け猫は遊女に飼われることになった。遊女が猫を飼う話はよくあることで、しかしまあ、凶暴そうな外見だったんだろうね。恨みを抱えた化け猫なんだから。当の遊女以外は近寄りもしなかった。
遊女は、両親に生活のために売られてきていた。その遊郭で暮らし始めて日は浅く、生活には慣れず、打ち解けることも出来ずにいたんだ。つまるところ、彼女も化け猫と同じく、ひとりだった。
そんなふたり――ひとりと一匹は次第に心を通わせるようになった。それが恋だったのか、信頼だったのかは定かではないけれど、確かに愛だった。
鋭かった化け猫の目付きは和らぎ、幼かった遊女はしたたかになった。そうしてふたりは互いを支えに、けして生きやすくはない小さな部屋で暮らした。
ところが――
往々にして幸せというものはそう長くは続かない。
ある富豪の息子がその遊女をたいそう気に入った。足繁く通っては彼女を口説き、その身を請けたいとまで言うほどだった。けれど、息子は大の猫嫌いだった。
その頃にはおよそ恐ろしさは鳴りを潜め、色こそ変わっているが普通の猫の姿を取れるようになっていた化け猫だったのだけど、息子は身請けするとしてもその猫は連れてこさせないと言うのだ。どころか気味の悪い猫、と口汚く罵った。遊女が頷くはずもなかった。
そうして、痺れを切らした息子は強引に話を進めることにする。金に物を言わせ、遊郭を説得し、最後には遊女がそこへいられないようにさえしてしまった。
背水の陣となった遊女は、終には逃げ出した。化け猫を連れて。
化け猫は言ったんだよ。そこまでしてもらうことはない、そっちに行ったほうがこれから幸せになれるだろ、と。オレは他とは違う、災いを呼ぶ猫だから、と。
しかし遊女も頑固だった。
私が行けばおまえはひとりだろうと、おまえが私にくれたのは幸せだけだったよ、と。
逃げるうちに、外を走りなれていない遊女は力尽きる。そう遠くまで来ないうちに倒れ、追っ手は彼女を見つけた。――そこで彼女は殺されることとなる。
というのも、彼女が逃げ出したことを知った富豪の息子がね、甚だ自尊心を傷つけられたんだ。見つけ次第殺してしまえ――と、そう言っていたそうな。そうして彼女は殺された。それも素人仕事だったために楽には殺してもらえず、ただ化け猫だけはその体の下に庇って。
そこからはもうそれは語るにも辛い惨劇だったそうだよ。
遊女と過ごす間に薄らいだ化け猫の怨嗟や憎悪が、遊女が徐々に生き絶えていくのを見て膨れ上がった。小さな化け猫はそのどろどろとした感情を大きく孕み、ただそこにいてその姿を見るだけで呪いを振り撒いて、遊女を嬲った者どもは直ちに死んだ。呪いはそれだけにとどまらず、彼女を買おうとした富豪の息子と、その血族をもろとも根絶やしにした。人というものに絶望しちゃったんだろうね、もう見境なんてなかったんだ。
ところが、呪いが満ち満ちる前に、化け猫を止めたのは遊女だった。遊女は最後の息へ言葉を乗せた。彼女の最後の言葉は、その化け猫がもらったんだ。
なんて言ったかは定かではないけれど。きっと当人しか知らないけれど。
一つだけ確かなのは、遊女と化け猫が何か約束をしたということ。約束を守るために呪いにあふれた心を静めたんだって。あるいは――呪いを静めるために約束というよりどころを与えたのかもしれないけれど。
とりあえず、ひとつめの昔話はおしまい。
じゃあ次は、ふたつめの話をしよう。
君の話だといったけれど、先に話しておくことがある。興味ないかもしれないんだけど、まあ、聞いてくれたらこのあとの話が少しわかりやすくなると思う。
その話っていうのは、俺の話なんだけど。
俺は見ての通り百目なんだけど、俺は生まれてからずっと百目だったわけじゃないんだ。ああ、もちろん、ほかの妖だったわけでもない。
俺ね、もとは人間なんだ。具体的には七十年か、そこら前まで。
やっぱり驚いてる? でもねえ、昔は珍しい話でもなかったんだよね。妖と人の世の境界があやふやだったころにはよくある話だった。かといって俺が生きてた時代によくある話かっていうと、そうでもなくて、俺は例外中の例外だったんだけど。
まあ、とにかく、俺はもともと人間だったわけ。
どうして俺が百目になったかっていうと、それはまあ、話は長くなるから割愛する。や、気になる? そうかあ、疑問を残したまま先に進むのはよくないね。じゃあ、少しだけ。
俺が今守っているお社に眠っているのは、この地の主だって言ったよね。それは狐なんだ。だけど、半分は人の血が流れている。今から千余年前に生きていたほんとうにこの地が産んだ主の子ども。母は子を産んですぐに亡くなってしまって、子どもは父親に引き取られた。その子がこの地に戻ってくるまでにこの地は荒れてけがれてしまっていた。しかも、子どもは半妖だったから、うまくこの地を治められなかったんだ。
それで、その子は選んだ。力が及ばないならせめて、自分の力を末永くこの地の平穏のために使うことを。
その狐の妖力っていうのは人にも妖にも作用する、とても穏やかなものだった。その子が妖だけにその力が及ぶようにこの地を切り離して――ああ、人には心地よすぎるものなんだ、それ。人の生態を崩しかねないほどに。だからまあ、切り離したんだよ、それで、その力が妖の息づくかがみに染み渡ると、ほんとうに穏やかになった。この地に住まう妖はすこしずつ主が溶かしていく妖力で、十二分に生きていられるようになった。この地が今、穏やかなのはそういうことだね。
ちなみに、今この地に見鬼の子が生まれないのは、こちら側に関わる力は残らず土地の養分になるからだ。土地を分けるときにもともとそこに居た見鬼の力は全部、主が預かったんだ。
その狐の子が、俺の大事な親友なんだ。
俺も人だったころは、それはもう見事な赤い目をしていてねえ。きっとあなたよりもずっといろんなものが見えていた。恐ろしい目にも遭ったよ、それこそ命に関わる、ね。
あなたの血族に、見鬼がいるかもしれないって話はしたね。ごめん、あれ、いるかもしれないじゃなくて、いるんだ。最初から知っていたよ、あなたの祖母がそうだった。――そう、だったんだ。先に言ったように、今はもう何にも見えてない。
それでね、大事な話。
俺とあなたには、あなたが生まれた時からの縁がある。
さあ、気づいたかな。
俺の名はヒヅキ。漢字では――緋色の月と書く。
うん。
あなたの名前は最初からずっと知ってたよ。あなたが俺の一字をとって名付けられた、その日から。
あなたのおばあちゃんは、俺の大切な友人だったんだ。
あの子が俺の名を一文字取ってつけたのは俺と縁を作るためだった。この地であなたが生まれて育てば、その見鬼の力は土地に溶けて、確実に目覚めることはなかった。この地に見鬼はもう育たないから。
でもあなたは他所で生まれた。見鬼は受け継がれる。何かの拍子に表に出てくるかもしれないその才は、この地で育たない限り消えない。だからあなたの祖母は、俺と縁を結んだんだ。いつかどこかで目覚めてしまうかもしれないのなら、この地で俺がいるところで目覚めれば、危険はいくらか減るのではないかと。俺の名を取った時点であなたがここへ来ることは確定したんだ。
あなたが生まれたその瞬間から弱っていたのは、そうだね。奥底に眠る見鬼の力に目敏く気づいた妖がいたんだ。それを食べようとして、食べる前にいたぶって遊んでいた。あなたのお母さんが、あなたのおあばちゃんを頼らなければ、あなたはきっとそいつに食べられていた。あなたと俺に縁ができて、俺はあなたの危機とあの子の望みを知ったから、手遅れになる前に手が打てた。
そしてあなたはここへ来る。俺は、まあ、知っていたわけだ。いつ来るかまでは分からなかったけれど。
それで、俺と強い縁ができたことで、俺は生まれたばかりのあなたが持つ、ある縁を知った。俺は百目で、ある繋がりのためにこの力を得たからかな、縁を見るっていうことがとても得意なんだ。その縁はあなたが生まれるよりもずっとずっと前からあるような古いものだったけれど、まだ繋がっていた。それも、この町に住まう誰かに。
同時ににある秒読みが始まった、ということにも、すぐに気が付いた。
間に合うか、間に合わないかは俺もわからなかったけれど、間に合った。もう名前も忘れてしまって、俺に言われてもそれが自分の名だと認識できないくらいになっても、愛しいひととの約束だけは大切に取っておいた、あのひとと、あなたはここで、出会った。――あの、白い化け猫に。
あなたは信じるかな。
化け猫がした約束は、化け猫を救うだけじゃなかった。
それはお互いを見失わないように繋いだ糸。掠れず切れず、繋ぎとめる糸。しあわせに成り損ねたふたりがもう一度それを目指すための、赤い糸だ。もう二人がどうしようもなくなった時に、二人をめぐり合わせて、互いを救うための糸。
だけれど、それも永遠に持つわけではない。あとわずかで切れてしまう。
――そう。
あなたは、かつて化け猫と約束した遊女だ。彼女があなたとなってここへ来るまでにずいぶん時間が掛かってしまったけれど、あなたとしての今生が最後の機会だったのだけど――
化け猫は待っていたよ。でも、遊女がどこかで幸せになっているのなら、自分がいなくてもちゃんと幸せになっているのなら、それでいいと。彼の命の危機では約束は守られない、ってことにもなっていた。あなたが他の幸せを捨ててまで自分のところに駆けつけることを、あのひとは許さなかった。あのひとは、自分が遊女の枷になるのは嫌がってるからね。
不幸を願うわけではない。だけど、あのひとの幸せを願っていた。
そうして、あなたはここへ来た。化け猫を救い、またあなたも彼に救われた。
ねえ。
実感はわかないと思うけれど――いや、そうでもなさそうかな。
うん。どの道、彼は消えてしまう。君が与えた仮名があっても、たとえば式の契約を完了したとしても、彼はもう長くない。だから、最後に、彼も幸せになってもいいと、俺は、思う。