第七話『おかあさん』
涼しい雨が降り敷くその日、ハチさんが来なかった。
雨だから来ないのか、と思ったのだけど、その日からハチさんはぱたりと来なくなったのだ。併せてヒヅキさんも急に顔を見せなくなり、私は一人で過ごすことが多くなった。
雨の音が鼓膜を揺らすのを感じながら、部屋の中央へ大の字になって寝そべっていた時のこと。誰も尋ねてこないのは寂しくはあったけれど、ヒヅキさんは私の体から黄泉のものが完全に抜けるまで、と最初に言っていた。来なくなったとしたら、私に向こう側と関わる理由がなくなった、ということだけだろう。それはつまり、私にもその理由がなくなっているのだ。最初から、そういう関係だった。だから――一人に戻った、だけだ。
その、五月蝿いくらいの雨の音だけだった部屋に、かぼそい声が裂いて現れた。
「緋織」
ざわと肌が粟立った。母の声だった。
「緋織、入っても、いいかな」
「……うん」
断る言葉が浮かばず、私は素直に彼女を招きいれた。母は少し痩せたようだ。目の下の隈は最後に見たときよりも濃くなっているようで、とても健康そうには見えない。顔色は悪く、唇は青ざめていて、口紅すら塗っていない。三食をともにしているけれど、私があまり顔をあげないから、母の顔を見るのは久しぶりな気がした。
「緋織。私、再婚はやめるわ」
「……は?」
母は、腰を下ろすとすぐにそう言った。準備してきた言葉はそれだけで、前置きなんてなにも考えていなかったと判断するほかない唐突さで。
急すぎて、驚いた。何の話だ、と私は素っ頓狂な声が出た。
「私にとって一番大切なのは、あなただから。ちゃんと考えて、あの人ともちゃんと話をして、決めたことなの。私も……あなたのことをちゃんと考えていなかった」
「いや……え? でも、ねえ、待ってよ」
「緋織……?」
「だって、おかあさん、笑って報告したじゃん。私と一緒にいるときよりもずっと幸せそうだったじゃん……!」
何を言っているんだろうと思う。涙霞の先の母の顔が見えない。
ただ、言っていることに違和感がなかった。たぶんずっといいたかったことなんだと思った。父と母と、私といたときの母が、再婚を提案した時のような顔はしなかった。記憶にある母は、ずっと笑っていない。だって母が幸せになれるなら、そのために自分がいらないのならば、だったら、私は一緒にいられない。自己犠牲ではない。私は、私が苦しいから。だからだ。
だから、私は逃げ出したのだ。
「ねえ、私がいない方がおかあさん、幸せになれるんじゃないの――」
ぱしん、と音がした。続いて頬が熱を持ち、叩かれたのだと気付いた。涙がぼろっと零れ落ちて、視界が一瞬クリアになる。母が泣いている。顔をくしゃくしゃにして、泣いていた。
はっはっ、と息が上がっている。涙がぼろぼろ流れている。
「そんなこと、――そんなばかなこと言わないで。あなたはちゃんと私の娘よ、大事じゃなかったらこんなところまで追いかけてきていないわ」
「あ、おかあ――」
「あのひと……あなたのお父さんとちゃんと話をしたの。あなたをきちんとしあわせにするために、私は再婚することを、あのひととたくさん話し合ったの」
こんなところ、というその言葉に、母がこの町を好ましく思っていないことを感じた。それよりも、いや、ちゃんと話し合った、ってなんだ。おとうさんは事故で亡くなったんじゃあ、ないの?
母は、呆ける私の肩を引き寄せ、力いっぱい抱きしめた。私より少しだけ背の高い母の肩口に顔が当たる。それで口がふさがれて、息が苦しくなる。なる、んだけど。バカを言わないで、と重ねて言う。
「緋織、私はあなたのことをちゃんと思っているわ」
*
ざあーっと雨の音だけが耳鳴りのように鼓膜を叩いている。
窓を開けているせいで、部屋の中に涼しい水気を含んだ風が流れ込んでくる。雨の夜は部屋の中もなんだか暗いような気がしてくる。濡れた髪をタオルで軽く叩く。
数センチばかり開いた障子戸の向こうに、夜によく映える緋色が見えた。障子戸を開けると、大きな番傘をさして、ベランダの柵へ立っていた。
「ヒヅキさん? そんなところでどうしたんですか?」
呼びかけると、ヒヅキさんは雨に掻き消されそうなほどの声で、
「大事な話が、ある」
と言った。