第六話『なまえをおしえて』
母は、ぐしゃぐしゃの顔を祖母に促されて洗いに行った。
「緋織」
と、祖母が呼ぶ。三日呼ばれなかっただけで、ずいぶん久しぶりな気がする。
そういえば私は、緋織という名だった。言われずとも、何も注意せずとも、自分がその名であることを、忘れかけていたような気さえする。
「緋織。どこも怪我はない?」
「うん、怪我は、ない」
「おなかはすいてない?」
「うん、大丈夫」
「そう、ならいいの」
祖母は一度私の頭をなでると、早く上がりなさいと言って居間へと入っていった。私もそれに習う。三日ぶりに入った居間は、社よりもずっと広い。社がこじんまりしすぎていただけだろうか。
祖母の席の正面に座る。祖母はコップに冷たいお茶を入れてきた。
「よかった、無事で」
「その、ごめんなさい。勝手にいなくなったりして」
「それもそうだけれど……この町では、勝手にいなくなることがおかしいことではなかったことがあるから」
「おかしなことでは、ない」
「この町は『過神』の地。神隠しなんてざらにあったの」
言葉に詰まった。過神の話を――、祖母から聞くことになるとは思わなかった。私が何も知らなかっただけで、それは当たり前に根付いているのだろうか。しかし、祖母は至極真面目な顔をして話していた。
「ばかみたいな話だと思う、緋織。でもほんとうなの。五十年くらい、いえ、もっと前だったかしら……そのくらいまでは人の子がいなくなるなんて、よくある話だったの」
「思わない、けど。おばあちゃん、どうしてそんなふうに語るの? まるで、身に覚えがあるみたい」
いくらそんな伝承が合ったからと言って、真っ先にそれを疑うのはやはり不自然というものだ。ほんとうに、自分が体験したことがあるというのでなければ、目に見えないものを信じられることはないのではないか。
祖母は「そうね」と呟く。
「身に覚えが、あるわ」
と。
ずっと昔に思いを馳せるように。
きっと大切だったものを思って。
そのひとことを言った。
訊ねたかった。それはいったいどういうことだったのか。もしかしたら、ハチさんのことを知っているかもしれないから、私の知らないことをたくさん知っているだろうから――だけど、聞けなかった。
私が祖母を十分に知らないからかもしれない。どう訊ねたらいいのか、どこまで訊ねていいのかわからなかった、というのもある。でもそれだけじゃない。
祖母のとてもたいせつなものなのだ。
私なんかが聞いていいことではない。私は、祖母と特別な関係にはない。
「こういう話をあなたの母さんは好きではないし、無事で帰ってきたのだから、聞かなかったことにしてもいいわ。ごめんなさいね、余計な話だったわ」
「そんなこと――」
「さ、母さんと話していらっしゃい。母さん、心配していたわ」
と、促されて母のところに来たはいいけれど。
無言。
無言。
無言――そして、無言。
その間に、時折母の鼻をすする音が聞こえる。嗚咽こそないものの、居心地の悪さといったらない。
「……」
無言。
「……緋織」
小さく呼ばれる。「なあに」
しかし、またそこで無言になる。切り出したところで、進展したと思うべきか。母の方をちらと見ると、母は俯いて、長く伸びた爪をもてあそんでいる。いつもきれいに整えられていた爪は、ピンクのマニキュアが剥げ、割れている爪もあった。母のそんな姿は、見たことがなかった。
「おかあさん」
ふと、口を衝いた。母が顔を上げる。
「おかあさん、なんで、ここにいるの」
自分で思うより、ずっと低い声が出た。母が驚く。私も自分の声の冷たさに驚き、しかし一度衝いて出た言葉をとめることはできなかった。
「おかあさん。相手の人は?」
あんなに幸せそうに言っていたのだ。それこそ見たことがないくらい。だから一緒に来ていないわけもなかった。聞きたくはなかったけど、訊ねてしまった。
母は黙っている。答えたくないのだろうか。違う部屋にいるとしても、同じ家にいればさすがにわかるだろうが――
そのまましばらく待っていたが、母は答える素振り見せなかった、私は一言「おやすみ」とだけ言ってその部屋を出た。私に二階の貸し与えられた部屋へ戻る。
母は、肝心な時にいつも言葉をくれない。再婚をするといった時もそうだ。なんの前振りもなく、「私、この人と再婚するわ」だなんて、あんまりだと、思ったのだ。思い返してみれば、たぶん、ずっとそうだった。大事なことはなにも私に言わず、私もまた、聞くことを早々に諦めてしまった。聞いても、さっきのように押し黙ってしまうだけだったから。
いらだつ。というよりは、ささくれだっていた。母に会うとは思ってもみなかったから、動揺していたのだと思う。
乱暴に押し入れに押し込まれた布団を引っ張り出し、その中へもぐりこんだ。吐き気みたいな、せりあがってくる苦しさを誤魔化したかった。私は布団の中で丸くなった。
朝は、やはり変わらず、訪れるものである。
布団から出るのは――否、母と顔を合わせるのが嫌だったけれど、昨日までさんざん心配をかけた身だ。このまま布団に閉じこもり、体調などであらに心配をかけてしまうのは気が引ける。
そろりそろりと階段を降りる。意味は特にないが、忍び足だ。
味噌汁の匂いがする。当たり前だが、社で感じていたものとは違っていた。味噌が違うのか、具が違うのか、それとももっと別の何かが違うのか。たぶん、三つ目だろうな、と思いつつ、きゅうと鳴る胃をおさえた。
居間へ入ると、すでに卓袱台の上に漬物や魚などのおかずが何品か並べられていた。出来立てだ。母はまだ起きてきていない。母は朝に弱い人だった。
「緋織、起きたの? なら、あの子を起こしてきてくれる?」
「おかあさん、いつも朝ごはん食べないよ」
「まあたそんな生活を送ってたの? うちにいる間はちゃんとみんなで朝ごはんを食べるから、起こしてきて」
有無を言わさぬ祖母に、居間を追い出された。母は一階の祖母が寝ている部屋で一緒に寝ているらしく、私は重い足を引きずって起こしに行った。
結局母は相変わらず寝起きが悪く、起こすのに時間がかかってしまい、待ちかねた祖母が起こしに来てようやく起きた。
その食卓でも、私は母と言葉どころか視線すら交わす事はなかった。
朝ごはんの後は、部屋に戻って布団を仕舞い、ぼうっと机に向かった。やることなど何もないけれど、布団に横になってしまえば病人のようで、なんだかいやだった。机に突っ伏し、目を閉じる。
こつん、と障子戸を閉めた先の廊下から音がした。窓は開け放たれているから、窓ガラスに当たった音ではない。不思議に思って、障子戸を開けた。
「ハチさん」
「よ」
窓の外の木の上に座るハチさんの手には小石がいくつか握られており、廊下にも小石が転がっていた。どうやら私を呼ぶために投げたらしい。
「そんなの投げないで、勝手に入ってきたらいいのに」
「そうもいかねえよ。オレたちみたいなのは人の家に入るには許可が要る。その許可もひとりに出すと他に対しても緩くなるから、出すなよ」
「はあ……わかりました」
よくわからないけれど、何もなしにハチさんたちは家の中へ入れない、ということだろうか。
私は申し訳程度のベランダへ出る。すると、ハチさんはベランダの柵へ軽く渡ってきた。ベランダの柵に器用に着地し、しゃがむ。
猫だけあって、身軽だ。
「どうしたんですか、今日は」
「んん、いや、用事は特にない。ただどうしてるかなと」
ハチさんは人懐こい笑みを浮かべる。ほんとうになにも用はないようだった。
くだらない話をする。今日の晩御飯の話や、いつだかヒヅキさんが一日中寝ていた話。ハチさんが好きなものの話――ハチさんは魚と、煙管が好きだという。煙管。およそ猫が好みそうなものではないのに、だ。
その日は私の昼ごはんの時間に帰り、それからも三日と空けずに顔を見せた。
決まって昼間だ。夜が来る、暗くなる前に、ハチさんは帰っていく。
母とは、顔を合わせることもなく、相変わらず、話をしていなかった。
「いやいやいや、ちゃんと話しなきゃだめでしょう」
帰ってきて一週間くらい経った頃のある夜、訪ねてきたヒヅキさんが呆れ混じりに言った。
私の部屋でまるで自分の部屋のように寛いでいる。ていうか、ハチさんが言ってたの、実は嘘なんじゃないだろうか。私、このひとに『許可』を出した覚えはないのに、ふらりと現れては当たり前のように入ってくるんだけど。
「ヒヅキさんにはわかんないですよ」
「ざんねん、俺、百目だよ? およそ見通せないものはない、百の目を持つ妖。あなた自身にも分からないことだって分かっちゃうよ」
「真顔で冗談言わないでください……」
ヒヅキさんは持参した酒らしいものを寝転がって吞みつつ、冗談とも本気とも取れないことを言っていた。私は氷をいくつか沈めた麦茶をちみちみ飲む。ヒヅキさんは酔っているのかわからない顔色で、空にした瓶を振り、その底を向けて、言い放つ。
「俺は嘘、言わないけどねえ。まあ、いいや、とりあえずあなたはその名前の由来でも聞いておいで。きっと何か変わるよ」
と。
ヒヅキさんの言うことが気になり、私はその翌日、母のいない隙を狙って、祖母に尋ねた。母は部屋で持ってきた仕事に手をつけているようだった。
私の名前にどんな意味が込められているのか、そういえば私は知らない。ヒヅキさんはなんでも見えているし、およそのことは知っているとは言うけど、あのひと時々抜けてるから、どこまで信じられるのかはわからないのだけど。
「おばあちゃん、訊いてもいい?」
「うん? なあに、緋織」
祖母は見ていた新聞を脇にやり、祖母がこちらに目をくれた。
「私の名前、って、どんな意味があるの?」
祖母が少し、目を見開いた。こんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。
祖母は「そうだねえ」と悩む素振りを見せ、眼鏡を外した。それをちゃぶ台の上に置き、迷いのない口調で話し始めた。
「緋織のその名前はね、私がつけたの。私の尊敬するひとの名前から一文字いただいて、緋織がまっすぐ強く、生きられるように、と」
「おかあさんが、つけてくれたんじゃないんだね」
その声に、図らずも残念さがにじんだ。私は慌てて、それを取り繕おうとする。大事な名前を、一生懸命考えてくれた人にこの態度はあんまりだ。
しかし、祖母は笑って言う。
「でもまあ、あの子なりの愛情が込められた選択だったと、私は思うよ」
「……どういうこと?」
「おまえの母さんが、迷信やら怖い話やらが嫌いなのは知ってるね?」
私は頷いた。
母は根拠のないものが嫌いだった。それはある種病的とも。私は、だから、そうしたものと縁なく育ったのだ。それでもあの夜、あれらを妖だと抵抗なく受け入れられた理由は、自分でもあまりよくわからない。
「あの子がああなったのは、この町の温度を持った『迷信』のせいなんだろうね。高校を卒業してすぐに家を出て行ってしまうくらいには、嫌いだった。でも、おまえが生まれたときだ」
祖母はしみじみと、大切な記憶を思い出すように緩やかに語る。
私は、人よりも小さな体で生まれてきたという。早産だったのだ。そのせいか、私は生まれてすぐに生死をさまよった。理由は数多考えられたが、そのどれにも当てはまらない原因不明の病で。
そこで母は、まじないごとに詳しい祖母に名づけを頼んだ。
「名前はとても大切だからね。あの子もそういうことは嫌いだけれど、ほんとうにあり得ることだから恐れて嫌いだと思っていたんだろう。自分が嫌いだと思うことよりも、そういうものに頼るくらいには信じていた」
だから、と祖母は話を結ぶ。
「おまえはちゃんと愛されているのよ。おまえが健やかに育つように、母さんは尽力してきた」
「……そうかな」
「そうよ。母さんだけじゃない、父さんも、お前のことをちゃんと愛していたよ」
「……でも、おとうさんとおかあさんの仲はよくなかった」
「二人の仲が悪いからって緋織が愛されていない理由にはならないでしょう?」
言葉を失う。納得できたわけではなかったけれど、どうにも言葉は出なかった。確かにふたり揃って学校の行事には来てくれたし、休みの日にはよく遊びに連れて行ってもくれていた。だけど、自分の嫌いな相手の子どもを、愛してあげることなんて、できるのだろうか。
母が部屋を出た音がして、私はやはり逃げるようにして二階へ上がった。母は怖かっただろうか。原因不明で、手を尽くしてもなにが悪いのかわからず、そうして弱る私を見るのは。
「どうだった?」
と、その夜、やってきたヒヅキさんが唐突に尋ねてきた。
「どう、とは」
「名前のこと。どう、何か変わった?」
「いえ……ああ、でも、由来は知れました。祖母の尊敬する人の一文字を頂いているんだそうです」
「へえ、あの子がそんなふうに。ああ、そう、あなたの名前ね、俺は図らず知っちゃったわけだけど、他のものに名前は聞き取れないような術を掛けておいたから」
「え、それ今更言うんですか」
ヒヅキさんは今日も清酒を呷る。このひと、結構酒を吞むみたいだけど、酔っているところは見たことないなと思う。白い顔は白い顔のままだった。
「そういえば、ヒヅキさん、うちの祖母のこと知ってるんですか?」
「んん? なんで?」
「あの子とか言うし、それに帰ってきたその日とか……」
そのときはいろいろあってあんまり印象には残らなかったけれど、確か、あの時、ヒヅキさんは祖母の髪に唇を落としていた。あれは一体――と、思い至ったのだ。
「あー、あれねえ。うん。まあ、俺、あの子のことはよく知ってるよ」
と、それ以上のことは言うのに抵抗があるようだったので、聞けなかったのだけど。
昼間来るハチさんと違って、ヒヅキさんが昼間来ることはなかった。ヒヅキさんは私がお風呂をすませ、部屋で布団を敷き始めた時間帯にやってくることが多い。その時間になる頃、祖母はお風呂に入っているし、母は持ってきた仕事をしている。私のいる二階に二人は上がってこないから、ヒヅキさんと話すことにあまり気を遣わなくていい。
まあ、それは昼間もあまり変わらないが。