第五話『なんで』
境内に上がり、社へ入る。祭壇の横を抜けて、居間へ入ると、ふわっと甘い匂いがした。吐き気を助長させるかと覚悟したが、ほとんどそんなことはなかった。
「あれ、おかえり。どこ行ってたの?」
「ヒヅキ。こいつ、もうまずい。さっさと返さねえと、オレと縁が出来ちまったから」
「……ああ」
私の代わりに、ハチさんが答える。ヒヅキさんはすっと目を細め、「まあ、とりあえず座って」と促した。
一度台所へ戻ったヒヅキさんは、甘い匂いのする皿をもってきた。
「暇だったからおやつにと思って、パイ焼いたから。食べながら話しよう」
「……アップルパイ、ですか?」
「そうそう。食べて。わりと上手く焼けた」
「食べて、って……」
吐き気がしている中でそんなものはとてもじゃないが――しかし、ヒヅキさんはそれでも推して来るので、一口、ほんとうに一口だけ含んだ。戻したらどうしよう、ここで吐くわけにはいかない、お手洗いまで持つか、いや外の方が早いか――と巡らせた思考は無駄に終わった。しっとりと甘い林檎の風味が舌に乗り、飲み込めばせり上げてきていた吐き気が嘘のように消えるのが分かった。
「そういう妖の事情なら、人の世のものを食べて誤魔化すのは上策だからね。食べられるなら、たくさん食べな」
「あの、ヒヅキさん、なんでも作れますね……」
「ここにいると、食べたいものは自分でなんとかしないとだからね」
一つ、熱々のアップルパイをいただく。今度は果肉も含めて頬張る。じゅわと熱い角切りの林檎が口の中へあふれる。舌が熱さに驚き、次いでとけるような優しい甘さが幸福感を満たす。と平行して、吐き気は甘さに溶けてなくなっていくのが分かる。
「さて、あなたのことだけれど」
ヒヅキさんが二切れ目をぺろりと食べ終わったところで、話は本題へ入った。私が一切れ食べる間に二つだ。熱くなかったんだろうか、と場違いにも思ってしまう。
「まあ、早い話が、あなたをここへ留まらせるほうが危なくなったみたい。あなたと妖との縁が出来てしまったから。幸いあなたの中から幽世のものはある程度抜けたし、これならもう帰っても大丈夫だと思う」
「はあ……そうなんですか」
「あんまりわかってない?」
そりゃあそうだ。縁が出来ることの危険性なんて何にも聞かされていない。
ヒヅキさんは自分の皿に三切れ目のアップルパイを確保した。
「うーん、危険はいっぱいあるけどねえ」
「さっき、社を出てすぐに意識なくなったって言ってただろ。それは、こっちにおまえが馴染み始めて、土地そのものに誘われてるんだ」
「土地、そのもの」
土地に誘われる、と言われてもどういう状況なのかいまいち想像できない。
踏み入れた島が実は鯨の背でした――とか、そういうことだろうか。
「このかがみの土地は昔から禍つ土地なのに、ここのところはずっと力不足だからな。力のある人の子を取り込もうとするんだ。だからこそここはもう人が簡単には入れないようになっている。おまえもここへ来るとき、古びた木戸を通っただろ」
アカガネさんの背中しか覚えていない――ということはなく、確かに私は古びた木戸を通ってこちらへやってきた。暗くてよくわからなかったけれど、あれは木戸だった。人気の無い、灯りもない、そんな道の先。
「昔はもっと重なってたんだ、人の世と妖の世。だから簡単に行き来も出来た。だけど、ここの主がそれを切り離して――でも完全に分けてしまうのは無理だったから、あの木戸で繋げた。それからは、不安定なんだ。力を求めている。主の力は住まう妖たちにはいいが、土地には足りてない」
「十年くらい前まではあなたが遭った百鬼夜行もできないくらい、明確に分けられてたんだけどねえ」
「ええと、つまり、その、土地に誘われるって、どういうことですか」
話が逸れつつあった。
「まあ、一言でいえば、土地に喰われる――この土地に吸収されて養分になる、みたいなことかな」
土地と完全に一体化し、生まれ変わることも許されない。それなのに自我は残るから、永遠この地でどこへも行けずに囚われることとなる。その苦しみたるや、きっと誰の想像も絶するだろう――と。
ヒヅキさんは語る。
どこにも行けないというのは、どういうことだろう、とふと考える。
どこにも帰れないのと、どちらがつらいのか。私はどこにも帰る場所がない、ないならば、帰れなくても、さして変わらないのではないか。
「そういうふうに取り込まれえちゃったひとって、いたんですか?」
「いるよ。そこそこ、それなりの人数、十年もあればそれはそうもなるよ。外の林は、そういう人のこころが落ちて、沈んで、根を張っている。だから俺もあんまり入らないんだ、のまれちゃうから」
暗い闇の底のような階段の底の見えない黒を思い出す。もしかしたら、あれはそういうひとの苦しみがどろりと染み出していたのではないだろうか。このあたりには詳しいだろうヒヅキさんが私を向かわせたから、あの時間帯にいること自体は別段問題はないのだろうけど、あれは、触れてはいけないものだったのかもしれない。
そこで、私はあることを思い出す。林が土地に飲まれた人たちのこころがあるなら、あの時のあれは。
「ヒヅキさん、あの、私ハチさんを迎えに行ったとき、あの林でアカガネさんを見ました。ヒヅキさんが、話しかけられても返事するなって言ってたので、私、返事はしなかったんですけど」
「アカガネ?」
ヒヅキさんと化け猫さんは同じように目を見開き、顔を見合わせて、「それか」とどちらともなくつぶやき、ため息を吐いた。
「あなたが急速にここへ誘われ始めたことの意味が分かった。それは確かにそうだ、あなた、ここで最初に縁を持ったのはアカガネだったね」
ヒヅキさんは押入れのほうをちらと見遣り、再度ため息を吐く。その視線の先には、鮮やかな赤がはみでていた。見覚えがある。アカガネさんの羽織だ。私が借りた、羽織。返されずにあんな雑に仕舞われていたのか。
「やっぱり先に返しとくんだったかなあ。祭壇より内側にあいつのもの入れちゃだめだね、やっぱり」
「ヒヅキ、おまえそういう抜けてる癖どうにかしろよ、いまに取り返しつかなくなるぞ」
「まったくだ」
ヒヅキさんはおもむろに立ち上がり、その雑に突っ込まれた羽織を強引に引っ張り出す。しわの寄ったそれを軽く何度かはたくと、ヒヅキさんは居間の外へ放り出した。
話の流れから察するに、あの羽織を返さなかったことも関係しているらしい。
「そうはいってもねえ。そうして林のアカガネが言葉をしゃべるくらいだと、出歩いてるほうには会えないんだよね」
「おまえ、探し物は得意だろ」
「得意だよ。いろいろよく見えるからね。でも、アカガネは違う」
ヒヅキさんは、はあと三度ため息をつき、その理由が何から何までわからなくて、私は首を傾げた。
「アカガネはねえ」
祭壇と今との間の戸を、立てつけが悪いにもかかわらず、勢いよく扉を閉めた。ばあんという音が強く部屋の中へ響き、びりと肌が強張った。
「アカガネは、鬼だって言ったけど。ほんとうは鬼神と人との相の子なんだ」
「半分人、ってことですか?」
「昔はね。今は、もう鬼だよ、ああやって出歩いているほうは。人のほうは早々に――この地に食べられてしまった」
ヒヅキさん曰く。
アカガネさんは、鬼神と人の男との間に生まれた子なんだそうだ。父親は人の子だから、アカガネさんが満足に成長する前に亡くなってしまった。あったことがないはずはないし、鬼の子は人よりも成長ももの覚えも早い。けれど、彼は父の顔を覚えていないという。今となっては、彼がなくした人の部分にそういうものがあったのかもしれないが、鬼となったほうには何も残っていない。
母も、人々に忘れられ、その力を失い、消えた。
鬼神といっても、どちらかといえば妖に近しい存在だった母親は、人々に覚えていられて、信仰を受けることで力を保っていたのだ。
一人残されたアカガネさんは自分もそうなることを――ひどく恐れている。
「人の部分をこの地へ与えてしまうことで、アカガネは完全に鬼となった。かがみの地から出ることは叶わなくなったけれど、かがみの地にとってなくてはならない存在になったから、あの子が消えるのはかがみの地の死の時。あの子はそれが信じられないから、名前は隠さないし、自己主張も激しいんだけど」
「だから、あの林にいたんですね」
「そう。あなたが返事をしなくてよかった。人の子なら、返事をしただけであの林に引き込まれただろうから。俺が羽織を返してないせいで縁が弱まらなかった、っていうのもあるけれど……それは、ごめんね」
「あ、いいえ……」
ヒヅキさんが頭を下げるのにつられて私も頭を下げる。
どうも、納得がいった。アカガネさんは力を求める土地に半身を上げてしまったから、喰らえる存在を探しているのではないだろうか。だからきっと私も、連れてきたのではないだろうか。
「そろそろ帰って、人の世に触れたほうが早い。だから、今夜にでも、送り届けるよ」
「はい……」
帰るのは少しばかり憂鬱ではあるが。
ふたりは私を案じてくれているのだ。無碍にするわけにはいかず――まして、ずっと世話になるわけにもいかない。
帰るのは今夜、日付が変わるか否かのときだという。あの木戸があちら側と繋がるのが夜中の数時間だけなのだそうだ。向こう側も同じく夜中だけど、それは仕方ない。
夜中を待つまで、私は社の中にいるよう言われた。あの、アカガネさんだけれどアカガネさんではないあれは土地そのものと言って差し支えはなく、一人でいるのは危ない。だけど主の眠るこの社の中は土地の干渉を受けないという。
夜まで、暇だ。荷物らしい荷物などない。来たときの寝巻きくらいだ。
居間でぽけっとしていると、ハチさんが来た。外へ出ていたらしい。口元を覆う布を外し、袂へ仕舞う。
「暇そうだな」
「暇です。やること何にもないです……どうせなら宿題でも、持ってくればよかった」
「しゅくだい?」
「あ、学校の、夏休みの……」
いや、何を言っているのだ。私、宿題は/なんて全部実家においてきてしまったじゃないか。ろくな荷物も持たずに飛び出してきたのを、忘れたのか。
「どうした?」
「いえ、宿題は、そもそも祖母のうちに持ってきてもいませんでした。家に」
ハチさんは首を傾げる。
「やらないと困るものか」
「……学校に、提出しなくちゃいけないですし」
「学校」
ふむ、と頷くと、ハチさんは私の正面の席に座った。机の上の、茶菓子に手を伸ばす。
「いい傾向だ」
「いい?」
「そりゃそうだろう、帰ったあとのことをちゃんと考えている」
せんべいをばりばりと咀嚼する。
帰ったあとの心配――といえば、そうか。そうだ。少し安堵する。一応、私は、帰る気でいられているらしい。あれほど帰れないことに安心していたのに。
母と顔を合わせられるかは、わからない。母と退治するときの自分の姿が、想像つかない。
考えてみればそうだ。夏休みが終われば学校がある。母が学費を出して、行かせて貰っている学校だ。夏休みだけだ。このひと月ほどが、好きに出来る唯一だった。
きっと、帰れば私は母の再婚に反対できない。母がそうするというのなら従うほかはないのだ。私は反対した後の重圧に耐えられまい。
「ま、深く考えんな。この三日くらい忘れるくらいひとの世界のことを考えな」
「それ、ハチさんのことも忘れちゃうじゃないですか。そしたら、ハチさん、消えちゃうんでしょ」
「オレはもうだいぶ生きたしな」
とはいうけど、ハチさんは今精神が落ち着いているのだろうと思う。名前が存在を確定するなら、忘れていたときはたぶん、すごい不安定だったはずだ。私がこのひとのことを忘れることがあれば、きっとこんなふうにはいえなくなる。
「……忘れません」
「ありがたいけどな」
ふは、と笑みを零す。最初はこんな優しい笑い方はしなかった。反面、穏やかなこの姿こそ、彼の本来の姿なのだろうとも思う。本来の自分で在れることはきっといいことなのだろうけれど、私がそうさせてしまったと思うと、少しだけ怖くなる。私が影響を与えてしまってよかったのだろうか、と。いや、ハチさんがいなくなることよりもずっとよいのは、確かだから、気にしても仕方ないのだ。そういう考えを脳の端に追いやり、蓋をした。
湯のみに視線を落とし、お茶に映る私を見た。私は、どこへ行けばいいのだろう。ハチさんのことを忘れずにいられるだろうか。母とまだ、一緒に暮らせるだろうか。結局私は何をすれば――と、思っていると、私の背後に移動し、腰を下ろした。ハチさんの体重が、背中合わせに伝わってくる。あたたかい。
「ハチさん?」
「だいじょうぶだ」
あとはずっと、ただ無言がそこに在った。不思議と居心地のいい、あたたかな無言。背中に感じるぬくもりに、少し安堵した。
その夜。
「オレはここへ残る」と、留守番を申し出たハチさんに見送られて、私は社を後にした。ほんとうならここには社守であるヒヅキさんを補佐するひとがいるらしいのだけど、私がいるため、ここ数日はずっと席を外していたらしい。だからハチさんが代わりに留守番をするのだ。
昨日とは打って変わって、道を彩る灯篭が明るく、林の方はほとんど見えない。この灯篭は、ヒヅキさんが毎晩つけているのだそうだ。朝になるとひとりでに消えるが、夜はつけて、林の魂に惑わされないようにするためらしい。
昨日はアカガネさんが出てきたために、日暮れがすこしばかり早まっていたのだという。実際の時間ではなくて、あの林の周辺だけが。
「さて、俺の袖掴んでてね。はぐれると面倒だし」
「あ、はい」
ヒヅキさんの袈裟の袖を小さく掴む。「じゃあ行こう」と、ヒヅキさんが歩き出し、提灯を持っているのとは反対側の脇に抱えた錫杖がしゃらんと鳴った。
ヒヅキさんに借りた羽織には袖を通さず、頭に被っているため、落としそうだ。これも人の子の匂いを隠すためのものらしく、いい匂いのする香が焚き染められている。最初に貸してくれた着物と同じ匂いがする。あれも魔除けの香だったのだろう。
妖であるヒヅキさんがどうしてそういうものを扱っているのかは、疑問ではある。
「ヒヅキさん、その錫杖はなんですか」
「これは俺の武器みたいなものかな。たたいたりすると少し強いよ」
「たたくんですか」
「冗談」
冗談だった。このひとはほんとうに、冗談と本気の見分けがつかない。
「俺がそこにいないと認識させる――まあ、一種の結界を張るための媒体かな」
「結界」
「そう。俺は道具なしに結界張るのはにがてだから」
そうしてヒヅキさんはしゃらんと音を鳴らした。
遠くで祭りの喧騒が聞こえる。
今日は広場の方を通らず、暗くて人通りのない裏道を通っている。うっすらと空が広場の篝火を映して明るく、その所為か目の前が暗く感じる。ヒヅキさんは迷いなく進んでいくけれど。
「こっちは広場の方と違って不安定だからねえ。俺とか、よっぽど妖力強いひとじゃないと迷うんだ。あなたも俺と離れたら一瞬で迷子になるよ」
「離れないようにします……。ヒヅキさんは妖力強いんですか?」
「俺? 俺はぜんぜん。すごい弱いわけでもないけどね。俺は、ほら、百目だから。いろいろよく見えるんだよ」
「なるほど」
一つ角を曲がる。
「それと、あんまり喋らない方がいいよ。この錫杖の音がちゃんと響かないと、意味がない」
と言われ、私は口を閉じた。遠い笑い声と涼やかな錫杖の音に彩られた沈黙が降りる。
角をもう一つ曲がる。緩やかな坂を下り、二、三段の段差を降りた。暫く行くとまた少し坂は上を向いた。入り組んだ道だ。確かに、一人であれば一瞬で帰る道も行く道も分からなくなるだろう。
空を見たり、続く道を見たりするだけで意識がぐらついてヒヅキさんの袖を掴んでいる感覚も見失いそうになる。視界も揺れて、吐き気を覚えてしまう。それは困る。だから、ヒヅキさんの足だけをじっと見つめることにした。
しゃらん、と錫杖の鳴る音がする。ざり、と土を踏む音がする。
そうして進む。
やがて、件の木戸へ辿りつく。
ヒヅキさんが、ぎいと押し開ける。生温い風が、頬を撫でた。
先にヒヅキさんが潜り、私が通り、木戸は閉じられた。しん、と静まり返る。この辺りは誰も住んでいないのだ。文字通り、夜の静けさがそこにあった。
空き屋街を抜け、人の気配がする町へ帰ってきた。人の気配というのは、意外と分かるものなんだな、と思う。アカガネさんや、ハチさんとはぜんぜん違う。みんな眠っている時間だというのに、その寝息すらも感じられるような気さえする。
足が少し、重くなる。あと、二キロほどだ。歩けばすぐ着いてしまう。一歩出す足が重くなるのは、必然だった。ヒヅキさんとの歩幅にズレが生じる。それに気付いたヒヅキさんが、一度足を止めた。
「だいじょうぶ」
と、ハチさんが言ったのと似たトーンで、言う。
「だいじょうぶ。あなたはちゃんと愛されているよ、だから、安心してお帰り」
「……はい」
ヒヅキさんが私に歩幅を合わせて、ゆっくりと歩き出した。
ヒヅキさんも、ハチさんも。
どうして分かったように大丈夫だなんていうのだろう。
祖母の家が近づく。祖母の家だけ、電気がついていた。深夜もいいところだ、この時間に祖母が起きているなんて――
ヒヅキさんが躊躇なく、インターフォンを押す。それはもう、ほんとうに一切の躊躇なく、私が覚悟を決めるとかそんな時間さえも与えることなく。
ばたばたと足音が近づいてくる。たぶん、居間にいたのだろう。思わずヒヅキさんの後ろへ隠れる。
勢いよく戸が開けられる。ヒヅキさんの背中から覗き込んで、泣き腫らした目が、まず見えた。次いで、濃い隈。その目が、大きく見開かれる。
「緋織……!」
「お、かあ、さん」
盾にしたヒヅキさんがいつの間にか横へずれ、私は覚えのある匂いに包まれた。化粧の残り香が混じったそれは、紛れもなく母のものだった。母はただ泣いていた。泣いて、私を軋むほど抱きしめた。
なんで母がここにいるのか、私はわからず、ただ呆然と、「おかあさん」と呟いた。母は実家が好きではなかったのだ。家を出てから一度も帰ったことがないと、結婚したときでさえ、帰りはしなかったと言っていた。それなのに。
祖母が遅れて出てくる。母が私を抱きしめているのを見て、祖母も安堵したかのように眉尻を下げた。ぼろぼろと涙を零し、顔を覆った――
視界の外にいたはずの、ヒヅキさんがふらりと祖母の傍へ行った。零れる涙をその指で掬い、いや、その涙はヒヅキさんの指をすり抜ける。それを見て、ヒヅキさんはわずかに目を細めて、
「あなたの孫は、ちゃんと帰ってきた。ごめんね、三日も借りて」
と、囁くような声で、実際祖母にだけ聞かせるように囁いたのだ。当然祖母には聞こえていない。祖母は隣にいるヒヅキさんにはぜんぜん気付かない。顔を俯かせ、髪に表情を隠したヒヅキさんは祖母の旋毛に唇を落とす。そうして、ふわりと離れ、私に「あなたの体がもとに戻るまで何度かまた来るね」とひそやかに告げ、帰っていった。
私はそれらをただぼーっと眺めていた。だって、それよりも疑問があった。
「おかあさん、なんでここに」