第四話『ゆめ』
朝ごはんのいい匂いで、目が覚める。今日も味噌汁のようだ。腹がきゅうと鳴る。
私は布団から出て、くらりと襲う眩暈を堪える。治まってからその布団をたたんで、部屋の隅へ置いた。寝巻もその上に畳んで重ね、着替える。
着替えは、ヒヅキさんが貸してくれた浴衣だ。紫陽花柄で、紫と青の浴衣。浴衣くらいなら、着崩すことなくなんとか一人で着られるようになった。
「おはようございます」
「ん、おはよう。どう、体の調子は」
「問題ないです」
台所でヒヅキさんは味噌汁の味見をしながら、卵を焼いていた。今日はその下にハムが敷かれている。マヨネーズも見たけれど、こうして加工食が出てくるとヒヅキさんが妖であることを忘れかけてしまう。フライパンを握るヒヅキさんの右手の目玉と目が合って、すぐに思い出すけれど。
「あの、化け猫さんは?」
「まだ寝てる。あ、その、そこの皿取ってくれる?」
「そうなんですか……。はい、これですか?」
皿は二枚、卵も二つ。化け猫さんの分はないようだ。たぶん、あとで化け猫さん用に作るのだろう。
ヒヅキさんは器用にフライパンの上でくっついた白身を切り、皿に乗せる。それを私に手渡すと、次にまた違う皿を取り出して、漬物を盛り付けた。さらに魚の切り身を焼いたものも追加で出てきた。
私は目玉焼きを運ぶと、腰を下ろして待つ。しばらくと経たないうちに、ヒヅキさんはお盆に乗せて全部運んでくる。
「いただきます」
「ん」
ヒヅキさんは細い見た目にそぐわず、よく食べる。今だって、私の倍くらいはある茶碗で米を食べている。食べるのは好きなようだ。あっという間に無くなる。最初に言っていた、食べる楽しみ、ということだろう。
自分で食べるからだろうか、ヒヅキさんの作るごはんはおいしい。ただ、食べていると無性に胸の中心あたりがざわざわして、おいしいのに苦しくなるのだ。おいしいけれど、なぜだろう――
「昨日、あのひとに名前をあげたんだって?」
「あ……はい。すえひろがりの、ハチさんと」
「安直だねえ」
「はあ、すみません」
昨日、社の中へハチさんを運び入れると、ヒヅキさんは祭壇の上に座って出迎えてくれた。どうやら、心配して待っていてくれたらしかった。
ヒヅキさんは、意識のないハチさんを軽々と抱え、部屋へと運んだ。
――「今は気を失っているけれど、たぶん大丈夫。あなたが気負うことはないよ」
と、それだけを言って、ヒヅキさんはそのあとを深く尋ねなかった。私は居間で待ち、しばらくして戻ってきたヒヅキさんは何事もなかったようにしていた。そのまま一緒に夕食を摂り、ヒヅキさんはハチさんの分まで、けろっと食べつくしていた。
「ハチさんが自分で、ヒヅキさんに?」
「そう、あのひとがね、夢うつつのまま嬉しそうに教えてくれた」
よかった、これでしばらくは大丈夫だと、ヒヅキさんは味噌汁を啜った。
ヒヅキさんも、同じことを言っている。
「あの、ヒヅキさん。もうしばらくは、ってどういうことですか」
そう尋ねると、ヒヅキさんは口に丸めたハムを入れようとしていた手を止める。ぎょろ、と露わになっている目玉が一斉にこちらを見た。
ヒヅキさんの体の目玉は瞬きのタイミングはてんでばらばらだし、きょろきょろと揺れていることのほうが多い。だけど、本人の意識が向いた時に一瞬、顔の二つの目と額の目に合わせて、体の目玉も一斉に同じ方向を向く。
と、そのことに気づいても、いざ見られると緊張する。ヒヅキさんはそんな私の様子を知っているようで、すぐに体の目玉はあらぬ方を向くのだが。
「……名前はとても大切なものだって、言ったよね」
「はい」
「だから、人の子は名前を縛って、妖を縛ることがある。いわゆる術が、多くこれにあたる」
ヒヅキさんは箸を置いて、私の目をひたと見据える。
「前も言ったように、名前に関する縛りは人と妖の間でしか成立しない。神がかかわってくるとまた別だけれどね。そもそも術が、人の生み出したものであるから。それでね、あなたが昨日、あのひとに名前を与えた行為だけど」
「……」
「それは、式の契約。自分の配下として操ることのできる契約だ」
「え、あの、ちょ、ちょっと待ってください!」
なに、それ。私はそんなつもりは微塵もなかった。ハチさんを使役したいだなんて――思ってもいない。
「落ち着いて、それはわかってるよ。ほんとうに式の契約が完了していたらあのひとはもっと力強く存在している」
「でも、ほんとうに」
「うん、だからね、あなたのした契約は一方的で不完全なんだ。あのひとが消えてしまうことを一時的には防げるけれど、ずっとはもたない。あなたが名前を憶えているだけよりは、幾分ましだけど」
ヒヅキさんはゆっくり言葉を紡ぎ、わかりやすく言ってくれる。
「ほんとうは、俺も名前を聞き出してくれたらいいなって思ってたんだけど……まさか本人も憶えていないなんて」
「ヒヅキさんも、ハチさんが名前を忘れてること、知らなかったんですか?」
「あー、うん。まさかこの十数年で名前まで忘れちゃうとは思いも……」
「十数年?」
「……いや、それより、先に式の話をしよう」
余計なことを喋ったとばかりに口を抑える素振りを見せ、ヒヅキさんは話題を変えた。
私も、気になりはするけど、ヒヅキさんが隠そうとすることまで首を突っ込む気はなかった。
「大切なことだから、ちゃんと覚えていて。最初に言ったとおり、あなたの名前、ちゃんと隠しておくんだよ。式の契約は、あなたの名前を教えることで成立してしまう。その選択権はあなたにあって、あのひとにはないんだ」
最初に言われたとおり、己の身を守るために名前は隠すべきだ。そして、ハチさんを式にする気がないのなら、名前を教えるなと。名前はいっそう隠すべきである、と自覚する。
――だけれど。
「その、名前を教えたら、式の契約は成立するけれど、ハチさんは、しばらくじゃなくて、生きられますか」
アカガネさんに言われたからではない。私も、あの時、考えなしだったと思うのだ。
名前は大切なものだと聞いて。それよりも前に――ハチさんが、ほんとうに助かって嬉しかったかを、私はまだちゃんと聞いていない。
「生きられる、だろうね。少なくとも、あなたが死ぬまでは」
その答えに顔を上げる。何ら変わらないヒヅキさんが無表情のまま言う。「ただし」
「だけど、あなたは術師になれるまでの才はない。力のない術師が自らの式に殺されることだって少なくはない。もしもそうなれば、それは、あのひとが一番望まない結末だ」
「望まない結末……」
「うん、そう。だから、名前を教えないこととあのひとを忘れないでいることだけちゃんと守って」
そろそろあのひとを起こさないと、と言って、ヒヅキさんは食べ損ねたハムと残りの卵をぺろりと頬張り、咀嚼もそこそこに飲み下した。ハチさんを起こしに居間を出て、私はひとり残された。
皿に残った卵を一口大に分けて、ちからなく咀嚼する。どろりと半熟の黄身がこぼれ出した。皿の上に広がり、醤油と混ざり合う。
アカガネさんの言っていたことが、じくじくと耳の奥に蘇えり、膿んでいく。
――「でも君に会えたから、わずかばかりに命が伸びた。生きたくもないのに命が伸びた」
――「今もそうだ、君は永遠に彼を助ける方法など持ちはしないのに、不用意に名を上げた」
――「それがどれほどつらいことなのか、君は知らないのにな」
ハチさんは嬉しそうにしていたけれど、私は、余計なことをしたのだろうか。やはり私が出来ることなど、なかったのかもしれない。ヒヅキさんはきっと、人なら誰でも良かった。
ヒヅキさんが戻ってくる前に、朝食を食べ終えた。皿をヒヅキさんの分も一まとめにして、流し台に置く。ほんとうなら洗い物もしておくべきなんだと思うけれど、ヒヅキさんはあんまりものに触って欲しくなさそうだったから、やめておく。
居間を出て、祭壇の横を抜け、外へ出た。
*
寒い。
家の中にいる。暖房も付いている。布団にもくるまった。それなのに、寒い。
病院特有の消毒液のにおいが鼻の奥へ残っていて、息もし辛い。苦しい。おかあさん、と小さく呟いてみても、返事はない。当然だ、おかあさんは今、病院だ。
青白いおとうさんの顔。瞼の裏に濃く焼き付いている。よく眠っているようだ、なんていうけれど、おとうさんの顔はまるで生きているようには見えなかった。あれは、確かに、死人の顔だった。
そう。電話を受けたおかあさんが真っ青な顔をして、言ったのだ。
――「おとうさんが、事故で亡くなったって」
そのあと覚えているのは、病院の白と、おとうさんの顔の白と、そのおとうさんが着ていた白だ。
部屋の中が寒い。どうしてこうも寒いのか――心細いからか。
おかあさんは立ち尽くす私をこうして家へ帰した。これからいろいろすることがあるからと。
いわれるままに帰ってきたけれど、やはり、一緒にいけばよかった。一人でいるせいか、思い出したくないことまで思い出されてしまう。
おとうさんの白い顔。
寒い。
寒い。
寒くて、怖くて、初めて震えている。物好きな男が欲しいというのは、言ってもらえるのは光栄だということも分かる。こんなところ早く抜け出して、自分のことをいとしく思ってくれる相手に買われたいと願っていたのは誰でもない自分だった。そしてそれは訪れるはずのない奇跡で、欲しいと言い寄る男は穏やかで優しい男だった。ほんとうに、願ってもない奇跡のはず、だったのに。
でもだめだ。こわい。こわくて、こわくて、こわくてどうしようもない。あの男に買われてしまえば、すべてが色褪せる。なんの意味も、なくなってしまう。そんな焦燥が恐怖とせめぎあって、息ができなくなる。
抱えたぬくもりが、慰めるように身を捩る。その小さなぬくもりをぎゅうと抱きしめ、恐ろしさに耐える。
寒い。
寒い。
真っ白な空間にいた。
ぼそぼそと話し声があって、人の気配が空気を波立たせている。それと同じように、視線が私の周りに絡みついてくる。それにきゅうと首を握られたようで、息が詰まる。
話し声の後ろにずっとあった平坦な音がお経であることに気付くと、次いで木魚の音が大きくなった。話し声と混ざって反響して、ぐわんぐわんと鼓膜と視界を揺らした。私は立っていられなくなり、その場へ倒れこむ。
倒れこんだそこにあったのは、白い棺。知らないうちに着ていたものが白い着物になっていた。白い着物、左前――死装束だ。
棺に敷き詰められた白い花がずぼっと沈む。足の先から花に包まれていく。花の下には底などないかのようだった。あっという間に花の中へ落ちてしまい、視界は真っ白に戻る。
寒い。
寒い。
体は抱えたぬくもりすらも感じられなくなるくらい冷え切った。指先の感覚も、足が地に着いている感覚すらも怪しく、かろうじて意識があると自覚できるだけまだよかった。ここに留まってもいられない。
履いてきた草履は雪と泥と枯れ木によってぼろぼろになったから捨てた。そのせいで足は霜焼けなのか血なのか、真っ赤になってしまっている。持ってきたわずかばかりの銭も底を着いた。町を抜けて、しんしんと雪の積もる林の中を走るうちに着物は水分を吸って、重さを増し、体力と体温を容赦なく奪っていく。破けた裾が木の枝に引っ掛かり、破け、冷たい空気が肌を刺す。
けれども、それでも、止まることは許されない。止まれば終い、終いは即ち死。自分だけではなく、もう一つ分。走らなければと、躓きながらも足を出す。
寒い。
寒い。
「――ちゃん」
意識が浮上する。呼ばれている。とても優しい声音だ。なんとなく心地よくて、呼ばれるままに目を開いた。
そこには、穏やかに微笑むおばあちゃんがいた。おばあちゃんは冷えたお茶のポットを片手に持ち、ちゃぶ台の上には見慣れたお茶菓子が並んでいる。私の好きなものもちゃんとあって、そういえばおなかがすいたかも、と思い至る。むくりと体を起こした。
おばあちゃんが氷の入ったコップにお茶を注ぐ。こぽこぽという音に、風鈴の音。おばあちゃんの向こうの縁側は夏らしい緑に満ちている。
おばあちゃんがかけてくれたのだろうか、羽織を肩から落とす――
「……ッ」
肌に鳥肌が立つほどの、寒さを感じた。慌てて羽織りなおした私を、おばあちゃんが不思議そうに見る。今度は、羽織に袖を通しても、寒さは消えなかった。寒い。
寒い。おばあちゃんが首をかしげる。
寒い。はっきりとした光を受けるコップは汗をかいているのに。
寒い。おばあちゃんの目が金色に光る。
寒い。ざわ、と風が吹き込んだ。
寒い、寒い、寒い寒い寒い寒い――
「――……おい、起きろ。おい、おまえ」
がくん、と、衝撃が体に伝わった。その反動で目蓋が開いた。詰まっていた息が風船が破裂するように喉を抜けた。苦しさに涙が出て、げほげほと咳き込む。反動で閉じた目蓋をうっすら開けると、そこに、木漏れ日を受けてやわらかく光る白い髪が飛び込んできた。次いで、緑と青の目と目が合う。
「はち、さん」
「大丈夫か。ゆっくり息を吸え」
ハチさんが体を起こすように言ってくれ、体を起こすと咳き込みはいくらか楽になった。だが、頭が痛い。内側から頭が割れそうだ。治まった咳の代わりに吐き気が込み上げてくる。苦しい。苦しい。
「だいじょうぶか。こんなところで寝てると思ったら……」
「寝て、た」
首をわずかに回すと、石畳が見えた。階段だ。神社の前の、階段。私はこんなところへ倒れていたらしい。
神社を出て、それで、そのあとの記憶がない。気付いたらここで眠ってしまっていたようだ。日が高い。林の木は背が高いので、正確にはわからないが、正午はとうに過ぎているようだ。
いったいどれほど寝ていたのだろう。
「なんか、気付いたら」
「気付いたらあ?」
「それで、なんか、夢見ていたような気がします。あと……寒い、です」
夢の内容は、覚えていないけれど。それどころではない、吐き気の苦しさは留まるところを知らず、ひどくなる一方だ。口を開けば戻してしまいそうになるくらいだ。
それから、なんだかとても寒かった。夏だというのに寒気が背中を走ってやまない。見れば、袖の下の腕がひどく粟立っていた。
ハチさんは、顎に手を当て、神妙な顔をした。そうして「まずいな」と口の中で呟いた。
「社へ帰れ。それで、可能なら人の世へ帰った方がいい」
「え……」
「いいから行くぞ」
ハチさんは、無理をしてでも立てと強い語気で言う。口に手を当てて、なるべく頭を揺らさないようにして歩く。「おまえが先を歩け」と手で示されて、先に立たされたのはよかった。私は素直に従い、階段を上る。ハチさんは猫だからだろうか、足音がほとんどしないのだけど、来ていることはなんとなくわかる。