閑話壱『或る出会い』
その日は見世の主人の機嫌がよかった。いつもより少しだけ朝餉が豪勢で、久方ぶりの米を食べた。この見世の主人は遊女の体調にはあまり気を遣わないので、食べ物は粗末だ。そのせいで当然見世に並ぶ遊女の体は骨と皮のようなもので、触り心地などいいわけがない。それなのに客は一定数入る。そしてその金は主人の懐に大方が入り、残った分も見目だけをよくするための着物や簪に使われている。
たまに機嫌がいい日は食事がよくなるものだが、正直なところ、そういう食事は好きではなかった。おいしいものを食べるのは、それだけなら別に良いけれど、それだけではないのだ。おいしいものを食べれば腹がすいていることを知らなければならなくなるし、自分が飢えていることに目を逸らせなくなる。なのに次に主人の機嫌のいい日がいつ来るかはわからず、もしかしたら機嫌を損ねてそのまま打ち捨てられることだって考えられる。そうであるのなら、おいしい食事はそうしたことを連想せざるを得ない。なら、ずっと質素な食事のままでいいのだ。たまにいい夢を見させようとなんてしなくていいと思う。
そのいつ来るかわからない楽しみを待って、これ以上人より下の存在に身を落とすなんてしたくはなかった。機嫌を取るために尻尾を振り、褒めてもらうために、おいしいものにありつくためにいうことを聞く。そんなふうになってしまえばこんなに苦しいこともないのだと知っていたけれど、それでもそうなることは選べずにいる。
ともあれ、今朝だ。機嫌がいい主人は見世の遊女に二刻ばかりの暇を与えた。買い物に行くのも自由、甘味を食べに行くのも自由といえるくらいには小遣いも持たされた。遊女たちは嬉々として外へ出ていった。護衛はわざわざつけていないが、足首に鈴がついている。ひとりひとりに特注で作られた鈴だ。逃げようとすればわかるようにか、ただの享楽かはわからないが、そんな鈴をつけた遊女はこのあたりでこの見世だけだ。この見世はどうにもほかに比べれば随分大きな部類に入るようで、また主人の気の短さで有名だ。その機嫌を損ねるようなことを避けたいと思うのが町の男たちの共通認識であるはずだった。だから鈴のついた遊女は欠けることなく見世へ帰ってくる。まあ、時折。ほんとうに時折、そういう日を狙って駆け落ちする遊女もいるが。どうなったかは知らない。相手の男も、遊女自身も。
ほんとうであれば、こうした機会もおよそ部屋の中で過ごす。外へ出て、何か見つけてしまったらと思うと怖いし、どうしてか死ぬのは怖かったから、多く望まないようにしていた。所詮は籠の鳥なのだ。夢なんて見るだけ、無駄だ。だからこの日も、部屋の中でぼんやりと過ごすつもりだったのだが――
なんとなく気が向いて、晴れ渡る空にひかれるようにして外へ出た。
足が満足に動かなくなって久しく、前に外へ出た日のことなど覚えていないくらいだ。思ったよりも日差しが強く、見世を出てすぐに頭がぐらりと揺れた。やはり出てこないほうがよかった。ねえさんがくれた杖に寄りかかり、引き返そうかと悩む。ほかの遊女はよくもこんな過しづらい外へ出るのだろうか。仲良くなった客とひそやかに逢瀬を重ねる気も知れないし、わざわざ自分で鳥籠に戻るような真似も、好きではない。やはり部屋の中でぼんやりしているほうが性に合っているのだろう。
帰ろう。出てきたところで、何もなかった。踵を返そうとして、視界の端に違和感を覚えた。生垣の下にある隙間。手入れが行き届いていないのか、雑草が道のほうまで葉を伸ばしてきている。その中に、違和感。
そこを覗いたのは、魔が差したというほかなかった。なぜか主人の機嫌がよかったように、なぜか晴天だったように、なぜか外へ出てみようと思ったように、そこに理由なんてなかった。それが今日でなければ、気付かなかったかもしれない。それを運命というにはなんでもないようなそれだったし、けれども偶然として片づけるのも不思議な違和が胸の奥をくすぐるような、そんな一瞬だった。
覗き込んだそこに、ぎらぎらと光る二つの何か。たっぷり数秒眺めて、それが目だと気付いた。青と緑の、左右色の違う目。葉の中は暗く、その目だけが浮いて見えた。あとになって思えば、体が見えなかったのはそれだけが原因でもないような気がするけれど、ともかくそれはじっとこちらを見ていた。犬か猫か、まさか人の子であることはないだろう。こんなところに埋まっていれば誰かしらに見つかって売り飛ばされるなりなんなりするだろう。このあたりの治安の悪さはほんとうにそんなことがまかりとおるのだ。
これまた、何を思ったのか、手を伸ばした。叢に手を差し込み、おそらく首だろうところを撫でようとした。びりっとした痛みが走る。噛まれた。痛みは慣れている。だから痛いことは別によかった。それよりも。
その痛みを怯えと、なんの違和感もなく捉えた。どうしてそう思ったのか、たぶん、身に覚えがあるからだろう。だからそれは口をついてでた。
「――おまえも、ひとりかい」
噛んだ歯は緩まなかったし、血が流れ出る感覚は強くなる一方だった。ただもう片方の手も差し入れて、その存在を生垣の下から引き揚げた。驚くほど小さな子猫だった。薄汚れて、ひどい怪我をしたようだった。ところどころ赤黒いかたまりがこびりついていた。抱えられたことに驚いたのか、一度力が緩んだものの、再び深く牙が刺さる。血が着物を汚していくのも気にせず、その猫を抱えて、自室へと連れ帰った。
遊女が猫を飼うのは珍しいことではない。見た目の優雅さを追求すれば体の冷えとは常に戦わなければならず、体温の高い猫はそういう点で相性がよかった。また、猫は『寝子』に通じ、ある種の共通点といえる。実際見世の中にも何人か猫を飼っている遊女がいて、そこにまたひとり、猫を飼う遊女が増えたところで、気にする者はいなかった。
その猫は、異国の猫だった。血や泥を洗い流すと、その身は真っ白だった。両眼は青と緑。初めて見る色に、最初こそ驚いたし、触らせもしないかわいげのなさも相まっていい印象はなかった。けれども数日も寝床を共にする頃には
抵抗なく食事をするようになった。触ると噛みつかれるのは変わらなかったが、部屋にもうひとつの気配があるということは思いの外悪いものではなかった。
その猫には、もうひとつ、他の猫とは違う点があった。
「おまえ、尾が二又なんだね」
猫は手の届かないところに丸くなって、目線だけをじろりと寄越した。最初に連れ帰ったときから気付いてはいたが、口に出したのはそのときが初めてだった。猫はどうも言葉を解しているようで、それを言ったとたんに良くも悪くもなかった機嫌が明らかに悪い方へと振り切れた。
ただまあ、そんなふうに機嫌が急降下することはたまにある。猫は気分屋だとも聞いたから、さして気にせずに続けた。
「――まあ、尾なんて二本あろうが、変わらないな」
ほんとうに尾の数なんて興味はなく、だからこそなんとなく口をついて出た言葉だった。
あとで、本人に聞いてみると、この言葉が彼の琴線に触れたと言っていた。その日を境に、彼とは打ち解けた。言葉こそわからなかったけれど、凍った心にぬくもりを与えたことは確かだった。