第二話『ここにきた理由は』
「あれ、もう帰ってきたの」
「はい、化け猫さんに、さっさと帰れと言われてしまって」
「そう。あのひとらしいね」
社へ帰ると、ヒヅキさんは袈裟を着ていた。緋色を差し色にした、およそ僧侶には見えない派手さがあったけれど、よく似合っていた。
「ヒヅキさん、なんで袈裟着てるんですか?」
「お客人がいるから、ちゃんとしようと思って」
「そうなんですか」
よっこらせと腰を上げる。首と手首につけた数珠がじゃらと鳴った。
ちゃんとする、という口ぶりからして普段はもっとだらけてるとみてよいのだろうか。そしてちゃんとした結果が袈裟。袈裟ってお坊さんが着る服だろう。それを、たぶん、推測だけど、祓われたりする側の妖が着ているのは、なんだか違和感だ。それとも私が勝手にそういう印象を持っているだけで、実際には祓う祓われるなんてこともないのかな。
棚の上から一つ袋を取り、台所から急須と湯のみを持ってきた。外から入ってきたときに見て思ったが、ぼろぼろな建物のわりに、室内にそんな面影はない。家具はきちんときれいにされていて、食器も同様だった。
とくとくと鮮やかな緑茶が注がれる。中身は何の変哲もないお茶請けの菓子だった。市販ではないようで、大きさの不揃いな醤油せんべいが皿の上にがらがらと落とされる。
「あの、ヒヅキさん」
「なあに」
醤油せんべいを薦められ、ひとつ取って齧る。香ばしい醤油の匂いが鼻を通り、ばりばりと砕かれる歯応えが美味しい。湯のみも目の前に置かれ、至れり尽くせりだった。
「さっき……化け猫さんに名前を聞いたときに、妖が教えられるわけないって言われたんですけど、ヒヅキさんやアカガネさんは名前を隠したりは、しないんですか」
せんべいをヒヅキさんはばりばりと咀嚼し、答えてくれる。
「ああ、まあね。妖と関わる以上名前は命と同等以上に大切なものだと思っていてくれればいいよ」
「命と同等」
「うん。――確たる体を持たない妖にとって、むしろ名前と命は等式で結ばれるかもしれない」
名前を知ることは、どうにもそれを縛ることも同時に出来るらしい。縛るということは、命を握ること。私が最初にアカガネさんにされたそれもそうだし、化け猫さんが教えてくれないこともそうだ。でも、そうならばなおさら、ヒヅキさんやアカガネさんが名前を隠さない理由が分からなかった。
「俺は例外中の例外なんだけどね。アカガネもまあ、例外だから、あんまり気にしないほうがいい」
大事なのはその根本的な理由の方だ、とヒヅキさんは二枚目のせんべいにてを出しながら続ける。
「名前を縛る契約は基本的に、人と妖の間でしか為されない。術を使うのは人だけだ。人と妖が関わるときに名前は最上級に大切なものになる」
「名前って、そんなに重要なんですか」
「それが存在を肯定する唯一だから」
ヒヅキさんの声は妙にはっきりと響く。口元はそう動かず、ぼそぼそと喋っているようなのに、不思議だ。
「人はだれにでも見えるし、存在ははっきりしている。体があるからね。だけど、人と関わる時の妖は、その関わる人以外には見ることすら叶わないかもしれないくらい、存在が不確定になるんだ。その、存在していると示す名前を除いては」
確かにそこにいるけれど、本来交わらない世界が交わると、その存在があやふやになる、というのはおかしな話だ。関わらなければ、そんな恐怖におびえることもなくなるだろうに。
「だから名前を知らしめる、っていうのはなかなか危険な行いなんだ。たとえば綱渡りの最中に、自分で火をつけるようなものでね」
「それは……」
確かに、あまり賢いとは言い難い。ヒヅキさんは妖間での名前の重要性については触れなかったが、それも同様だろう。自分の名前だけが広まっているような事態は、つまり知らないうちに名前を人間に漏らされる可能性が高くなるということだ。人間と妖にどれほど接点があるのかは知らないけど、私みたいなことだってあるだろう。自分の命を自分で縮めるようなことをするなんて、私には考えられない。
しかし、そうなると、例外だといったアカガネさんやヒヅキさんがなぜ例外なのか、気になってきてしまう。
「アカガネはその不利益が利益になっちゃうっていう例外。あれは名前を知らしめて、忘れられないように、消えてしまわないようにするのに一生懸命だ」
「ええと、じゃあ、ヒヅキさんは?」
「俺はねえ」
と、そこで、社の戸ががたんと大きな音を立てた。立て付けが悪いのだ。ヒヅキさんが「ちょうど噂をすれば」と呟く。この社は入ってすぐに雪洞と祭壇があり、その奥にこの居間のようなものがある。祭壇の裏の、戸ががらりと引かれた。
「ヒヅキ、ここでちょっと寝かせてくれ」
「いいけど、いいところに来たね」
「はあ? ……っておまえ、なんでここに」
「帰れと言われたので……化け猫さんこそ、どうして」
社を訪れたのは化け猫さんだった。口元を覆っていた布を剥ぎ取り、袂へ押し込んだ化け猫さんは青白い顔をしていた。先程は逆光で分からなかったのだけど、もしかしたらさっきもそうだったのかもしれない。
「ここはおまえのいる場所じゃねえって……ああ、いい、やっぱり先に寝かせてくれ」
「奥の、いつもの座敷に布団が敷きっぱなしになってる」
「おう」
化け猫さんは、ふらふらとした足取りで台所の奥へと消えていった。
やはり具合が悪そうだ。化け猫さんの行った先をじっと見る私に、ヒヅキさんは、
「だいじょうぶ。最近ちょっと調子悪いだけだから」
とだけ言った。
「ここは他より安全だから、ここで寝てるんだよ。いつもは夜ちゃんと寝てるんだけど、あの様子じゃあ昨日は寝れなかったみたいだね」
「寝れないんですか」
「夜は誘惑が多くてね」
さて、あなたもお昼までゆっくりしたら、とヒヅキさんはごろりと寝転んだ。それ以上を語る気のなさそうなヒヅキさんを尻目に、その場に足を抱えて丸くなった。考えたくないことばかりで、おなかが苦しかった。きゅうきゅうと締め付けられるような痛みに、涙がでそうになる。
だめだ。ここで泣いては、ヒヅキさんに見られてしまう。私はぎゅうと堪えるために目をつむり、やがて訪れる睡魔に身を任せた。
化け猫さんが起きてきたのは、日がすっかり沈んだ頃合だった。
私が起きたのはその少し前で、部屋の中がわずかに入る夕日の色に染まっているのを見て、ずいぶん寝過ごしたことを悟った。お昼には起きるつもりだったのに、私はばかか。いくらなんでも寝すぎだろう。
血の気のなかった頬は僅かに赤みが戻ってはいたけれど、それでも具合は悪そうだった。ヒヅキさんは化け猫さんに白湯をやり、お粥を煮た。私もヒヅキさんも、化け猫さんに合わせてお粥なんだそうだ。洗い物が少なくて済むと。
別段食欲があるわけではなかったから、文句はない。
「お粥くらい食べときなよ、腹膨らませるのは大事だ」
「わぁってる」
お粥は塩が僅かに振られ、ほんのりとした甘さを際立たせていた。米と塩だけのはずなのに、れんげが進む。かぶときゅうり、あとなすの漬物を合わせて食べればなお美味しく、珍しく三杯も食べてしまった。隣の化け猫さんも気づけば完食しており、お茶をすすっている。
「それだけ食べられれば大丈夫かな、どう、調子は」
「寝る前よりはいい」
「そう。今夜もここで眠るんでしょう」
「泊まらん。そこの人の子がいるんだろう」
「そりゃ、この子の中から黄泉のものが抜けきるまでは返せないからね」
化け猫さんは椀をヒヅキさんに押し付けると、「世話になった」とだけ言い、入り口へ向かった。足取りが覚束ない。あれではここを出た途端に社の前の階段で転げ落ちてしまいそうだ。
「あの」
呼びかける。化け猫さんがぴたと動きを止めた。ぴんと耳が立った。
「あの、私なら大丈夫ですから」
「いや、何を勘違いしてるのか知らねえけど」
「私の居場所がここじゃないっていうなら、私が出ていきますから。そんなふらふらなまま、どこかに行こうとしないでください」
化け猫さんは、来た時に比べて顔色も良くなったとはいえ、それでも万全には程遠そうだった。今にして思えば、今朝の足取りもそう良くなかったように思う。夏とはいえ――夏だからなおのこと心配になる。
化け猫さんは、ここが私の居場所ではないといった。そうだと思う。でも化け猫さんはここに居場所があるはずだった。それを、私がいるせいで、私が奪ってしまうなんて、以ての外だ。耐えられようもなかった。
「おい、ヒヅキ、なんとか言え」
「うーん、この子見かけによらず頑固そうだしなあ。この子を返すのはまだできないし、かといって外に放り出せばどうなるかわかったものじゃないし。あなたがここに泊まっていくのが一番いいんじゃないかなあ、と、俺は思うけれど」
「おい、ヒヅキ」
「大丈夫だって。あなたはそういうことしないし、俺もさせない」
「いや、でも」
そうは言うけど、と納得いかない顔をする化け猫さんに、ヒヅキさんは「あなたが助けて、あなたが連れてきた子だよ」と返す。すると化け猫さんはぐうの音も出ないようで、押し黙ってしまった。それでもまだ不安の色は顔に浮かんだままで、ヒヅキさんは「だいじょうぶって言ってるでしょう」と繰り返し、半ば強引に化け猫さんの宿泊を決めた。ヒヅキさんの中で、化け猫さんが泊まっていくのはすでに決まったことらしく、化け猫さんも半分以上は諦めたようで、答えは返ってこないだろう異論をぶつぶつとこぼすにとどまった。
「ああ、あなたもここに泊まっていってくれないと困るからね。部屋を用意してくるから、待ってて」
「あ、はい、私も手伝います」
「いいよ、座ってて」
仮にも泊めてもらう身で何から何まで、というのは気が引けたけれど、ヒヅキさんはさっさと行ってしまった。仕方なしに、私は浮かしかけた腰を下ろす。
沈黙が降りる。広くはない部屋の中、化け猫さんも私も何も喋らない。呼吸の音だけが響き、それさえも控えなければならないような、重たい静けさ。私はちらとも化け猫さんのほうを見ることができなかった。
しばらくその沈黙が続き、妙な息苦しさを感じるようになった頃。
「おまえ、なんでアカガネなんてやつについてきたんだ」
と、化け猫さんが唐突に問うた。あまりに唐突に沈黙が破られたので、私は最初、それを声と認識することができなかった。改めて、何と言われたのか思い出してみている間に、もう一度、「なんでここに来たんだ」と繰り返した。
「なんで、と言われても。一緒に来ないかと言われて」
「おまえ、一緒に行かないかと言われたら誰とでもついていくのか」
「そんなことは……ないけれど」
なぜと問われたらわからないとしか言えない。あの時、私はアカガネさんの誘いが妙に魅力的なものに聞こえたのだ。
道路を我が物顔で闊歩する、行列。舞う火の玉。一人でにくるくると回る唐傘。軽やかに走る、二足歩行の狸。
わかるはずがなかった。わからなかった。だって、普段の私ならわけのわからないものには関わらない。触らない。見て見ぬふりをして、事なきを得るのだ。だからわからない。あの時、あんな異形なものをみて、怖さよりも好奇心が勝ってしまった理由。アカガネさんの誘いに、ほとんど迷わずに乗ってしまった理由なんて。
――いや、違うか。ほんとうはちゃんとわかっている。
「……私、おかあさんが再婚するんです」
「さいこん」
「半年前に、おとうさんが亡くなって。もともとあんまり会話のある家庭じゃなかったけど、それでも、とうさんが事故で亡くなった時はちゃんとおかあさんも泣いてたのに」
泣いていたのに、その半年後――法が、再婚を許可する時期になってすぐのことだった。確かに父と母はあまり仲が良くなかったと思う。けれど、、私のことは大切にしてくれていた。家族の形はちゃんとしていた。お父さんがいて、お母さんがいて、私がいて。私の学校の行事にはなるべく二人そろって来られるようにしてくれる、そんな家族。そう、家族だった。
――母と父は、それでも、そうであったとしても、どうしようもなく不仲だった。父と母が二人きりで話しているところなどほとんど見かけたことはない。一緒に食卓を囲んでも、一緒に出掛けても、二人の間に漂う不仲の気配は、色濃く存在していた。
こどもは、そういう気配に敏感なのだ。気づいてしまえば、戻ることもできなくなってしまっていた。
私の顔は、父に似ている。幼い頃に父方の祖父に繰り返し言われたことだ。おまえはおとうさんの小さい頃によく似ているね、と。
「もしかしたら、おかあさんは、おとうさんによく似たこの顔がいやかもしれないって、別に言われたわけでもないのに思っちゃって。気が付いたら、おばあちゃんのうちに逃げるようにして来ちゃっていました」
父方の祖父母の家は遠く、行くには資金が足りなかった。それに、父に似ている私を知っている人ところへは行きたくなかった。そうして来た祖母の家も、申し訳なさと気まずさが重く澱のように私の周りに満ちていて、息苦しくなった。
「化け猫さん。私、ばかみたいだって、考えすぎだって思うかもしれないけれど、家の中に私の居場所がないみたいに思って。逃げた先でも居場所がないみたいに思えて。アカガネさんの誘いだって、危ない目にあうかもしれないことは気づいていたのに。でも私、もういなくてもいいかなって勝手に思っちゃって――」
逃げた先で、助けられて、またここはおまえの居場所ではないといわれて、なのに結局ヒヅキさんに甘えてしまっている。
化け猫さんは、身動き一つなく沈黙を貫いた。体調悪いひとに、こんな話は無神経だったと私が思い至るのはいささか遅く、声も掛けられなくて沈黙は長引いた。
「……人の世に居場所がないからと言って、妖の世に逃げ道を探すのは間違っている」
先に沈黙を破ったのは、またしても化け猫さんのそんな言葉だった。否定されて当然なのに、頭を殴られたかのような衝撃があった。音が遠くなるのを感じて、目頭が熱くなって、またおなかがしくしく締め付けられて、しんぞうのあたりがきゅうきゅうと痛んだ。
「だが、おまえはオレを助けてくれただろ。おまえがいなければ今、オレはここにいない」
何もかも遠くなって、音さえも遠くなりかけた世界をさらに耳も塞いでしまおうとしたとき、それでもはっきりと、化け猫さんの声が耳朶を叩いた。
「……え?」
「おまえ、おととい白い猫を助けただろう。拾って、傷の手当てをして、ソーセージをくれた」
確かに猫を拾いはしたが、このひとはいったい何を――白い猫? 今目の前にいるのも白い毛並の化け猫だ。化け猫。化ける――猫。
まさか。
「おまえの助けた猫、尾が二本あっただろう。覚えてないのか?」
あったかもしれない。見た目のひどさに目を取られて、その時は気づかなかったけれど、尾が二本。そうか、あれは、普通の猫ではなかったのか。
そう考えれば、納得は行く。一晩で癒えるはずもない状態だったのに、翌日にはいなかった理由。見ず知らずのはずの私を、アカガネさんから助けてくれた――理由。
「もう一度いうぞ、おまえがいなければオレはあのまま朽ちていた」
二度目の言葉も、飲み込むには時間がかかるものだった。