第十話『夏の終わり』
じりじりと肌を焼く日差しはまだ続く。無機質な建物に囲まれた街は、ひと月ばかりを過ごしたあの町に比べてずいぶんと夏に柔らかさがない。
学校を出て、家へ向かう道中だけで汗が背中を伝うのが分かる。暑い。
家は少しくらい涼しいといいんだけど、と考えながら電車へ乗った。
電車の中はどうせ人が多くて涼しくは無いのだ。予想通り、汗だくのひとばかりで、冷房などほとんど意味を為していない。
揺られて。
気付くと、下りる駅だ。こうも暑いと考えるのも面倒だ。
小さなアパートの一室に帰ってくる。前に比べて学校と一駅分近くなったのはいいけれど、やっぱりまだなれない。引っ越して、まだ数日だ。それも当然かもしれない。
「おかえり、緋織」
「うん、ただいま、とうさん」
今日は帰りが早かったらしい父が、夕食の仕度をしている。家事が苦手な母に代わって、この新しい父はよくしている。得意だし、好きなんだそうだ。
部屋に入り、制服をきれいに干す。夏休みの課題は終わらなくて、再提出だ。これからまた続きをしなくてはいけない。母が帰ってくる前には一区切りつけて、一緒に夕食を摂りたいところである。
――不思議だ。
ひと月前にはもっと落ち着かなかった。すべてが怖くて、つらくて、どこにも自分の居場所などないような気さえしていたのに。
今ではそんなことはない。それが不思議だ。
夏休みの間にあったことが、思い出せない。
おばあちゃんちに行って、それは覚えているのだが。行った先で、私の考え方を変える何かがあったのだろうけれど、ただ、ふつうにおばあちゃんと生活したことしか覚えていないのだ。おばあちゃんも何も言っていなかったし、そこに母さんが迎えに来て、すこし三人で話をして、それで――帰ってきた。何もなかった。なかったはずなのだ。なのに。
何かあったような気がするのは、一体なぜだろうか。思い出そうとしてもうまくいかないのだ。
帰ってきて数日が経つ頃には新しいとうさんを受け入れる準備が出来ていて、そうと経たないうちに再婚は済まされた。私に気を使ってか、籍を入れるだけだったけれど、伴ってした引越しの準備に追われて、私はその空白の記憶を思い出そうとすることは少なってきた。
ただ、母とは少し話をした。父さんはほんとうは事故ではなくて、病死であったこと。ずっと抱えていた病気で、いつ寿命を向かえるか分からないような状況だったという。私にそのことを教えずにいたのは、私にあまり長くつらい思いをさせたくなかったからで、母の再婚相手は父さんの親友だという。連れてくるまで知らなかったけれど、確かに父さんの友人として見たことがあった。
新しいとうさんは、私に不自由させないために、母と一緒になることを決意したという。とうさんはもともと子どもを作れない体であり、結婚するつもりはなかったようだけれど、ほんとうは娘が欲しかったらしい。私のこともよくよくかわいがってくれている。
母とも前よりずっと話をするようになれた。
そうして、私の生活は穏やかに流れていく。
*
日が落ち、火が灯る。気温はすっかり落ち込み、夏の終わりらしさを感じる。とはいえ、夏であるならとりあえず酒を吞み、十五夜でもとりあえず酒を吞み、雪が降ろうが桜が咲こうがとりあえず酒を吞むようなやつらしかここにはいないので、今日もいつもどおりお祭り騒ぎである。
変わらない喧騒の中、珍しい姿があった。緋色を差し色にした派手な袈裟に、金色の錫状を持った上背のない男。曝け出された部分の肌には無数の目玉がぎょろぎょろと周囲を見回している。
普段は林の奥の社に篭って滅多に出てこないその妖に、いくらか好奇の視線が集まる。百目の青年――緋月は自分に向けられる視線なぞ気にも留めず、人を探して歩いている。
目的の赤は広場の入り口傍で酒を呷りつつ、何かの丼物を食べていた。隣には大量の空の器があり、日が落ちて間もないというのにもうそんなに食べたのか、と呆れる。
アカガネと呼ぶと、その鋭い金目に自分が映る。アカガネは食べていたものを一旦止め、きょとんとした顔を向けてきた。
「よお、ヒヅキ。おまえが出てくるなんて珍しいな」
「あなたに用があったからね、アカガネ。返すものがある」
緋月は小脇に抱えていた赤い布をぽいっとアカガネに放り投げた。かけられたアカガネがそれを広げると、それは自分の羽織であった。ひとつきほど前にこの妖の町へ誘った見鬼の子の気配を隠すために貸した、羽織だった。
「ああ、これ、おまえのところにあったんだ」
「うん。返すの遅くなって悪いね」
アカガネはふうん、と唸りながら、羽織に袖を通した。今日は今日で別の羽織を着ていたので、その上から。たぶん、持っているのが面倒だったからというのが主な理由だろう。
アカガネが人の子を誘うのは緋織が最初ではなく、今までも何度もあった。アカガネは自分の羽織を貸して、その気配を隠す。たまたま緋月が見つけて隠すこともあったのだが、その場合は大抵こうしてあとでアカガネに返していた。
「アカガネ、よく食べるね」
「まあなあ。こないだどっかの誰かの所為で食事し損ねたからな」
「そう」
アカガネは再び食べる手を動かし始めた。どうも珍しい見鬼の子で腹を満たしたかったのに食べられなかったから、別のもので腹を満たしているのだろう。今までもそうであった。普段の子どもは霊力の欠片ほどしかなく、今回は珍しく見鬼を持っていて、かつ、妖との永い永い約束の糸の繋がりがあったから、心が盛り上がってしまったのだろう。期待した分空腹感が強いのだろう。
緋月は人であった頃、強い見鬼を持っていた。その頃は今よりも身近に妖がいたために、命の危機もかなりあった。だが、それ以上に、彼はこころに寄り添うのが得意だった。妖は妖なりに思うことがあり、その行動に理由があることを知っていたから、妖を畏れることも嫌うこともなかった。
彼の親友が妖として生きる道を選んだ時、その傍に生きることを選んだこと。
その親友との繋がりを護るために、先代の百目からこの目をもらったこと。
それらを後悔したことはない。
妖が人を襲うのも、緋月はほとんど止めることはない。二つの世界が分かたれた今、その機会はごくごく少ないものだし、仕方ないものなのだ。そういう存在で、そういう関係であるのだ。
アカガネが人を襲うのも、当然理由がある。彼は消えたくないと思っている。消えたくないから、人の部分を土地に食わせ、さらに人を食べて力を蓄えていたいと思っている。それは、誰しも持ちえる生存本能で、それを否定していい理由こそない。
――ただ。
「アカガネ」
「ん?」
「あなたは消えないよ。この土地の終わりのその日まで、あなたの魂はこの地とともにある。……だから、そんなふうに人を襲ったりしないで、いいんだよ」
「――」
「まあ、今回はあなたが緋織をここに連れてきてくれたから、八汐と緋織は出会えたから、そういうのは良かったと、思うけどね」
じゃあね、と言って緋月は踵を返した。手近な夜店で飯を買い、酒も買って、社へと帰っていった。残されたアカガネはその背を眺めて、ため息を吐いた。
「そんなことは、わかっちゃいるがね」
それでも、どうしてもならないこともあるのだ。
それは衝動。
それは恐怖。
それは本能。
抗えたならば、今の自分はこんな有様ではない。人を襲う、襲って食べる、食べた後に残るのはひどい吐き気と自己嫌悪と底のない寂しさだけだ。鬼神とはいえ、人を愛した母はこんなことを望むわけもないだろう。父もとても優しい優しい人の子だった。そんなふたりの子どもの自分が人を食べずにいられない。そんな自分が嫌なのも事実だった。
とはいえ、そんな葛藤はとうに乗り越えた。仕方のないものだと受け入れることに出来ている。
たまたま見つけた、見鬼の上にこちら側と強いつながりを持つあの子を見たときには、心が躍った。だってそんな強い力、今のかがみの地では何十年にひとり、出会えるかわからない。だから嬉しくて、連れてきてしまったのだけど。
――まあ、でも確かに、たまには。
「こういうのも、いいかもしれない」
――永いときを超えて、ようやく出会えた二人というのは、なんだかとてもこそばゆかった。
喧騒がその勢いを増す。少しだけ冷たくなった風が、提灯の間を抜けていく。
【了】