第九話『きみのしあわせを希う』
朧車は走り出す。
さっきの明かりはたぶん、この車自体に取り付けられた提灯だ。それらに括られた飾りの鈴の音が大きく車内に響き、がたんと揺れた。化け猫さんを放り出さないようにだけして、奥のほうへ座りなおした。
夜明けは近い。きっと着くころには朝日が見える時間かもしれない。
それでもいい。大丈夫、かがみの地の主だって力を貸してくれた。朝までもつのであれば、明るいほうがいい。
丸い窓の向こうに見える景色はいまだ真暗に沈んでいる。雨も、ざあざあと降りやまない。天井付近に吊るされた小さな提灯がゆらゆらしているが、最初ほどの衝撃はもうない。エンジン……ではなく、朧車の呼吸がたまに腹の底へ響いてくるくらいだ。
朧車は走る。
膝の上で眠る化け猫さんは、今のところ、呼吸も穏やかだ。体温も、少し取り戻している。その背を撫でながら、ふ、と息を吐く。
ほんとうに、ばかなひとだ。やさしくて、人が好きで、自分が全部後回し。化け猫さんは気づいていたはずだ。私がその待ち焦がれた遊女であることに。だというのに、私を人の世に返そとして、でも、もらった名前に喜んで。
怒っていいのだ。自分ばかりずっと幸せになって、自分がこんなになるまで放っておいて、と。
でもこのひとは、言わないだろう。何があっても、きっと。
空が白んできた。雨は上がったらしい。風に乗って、独特のにおいがする。
私も行ったことのない場所。きっとこれまでのわたしも、行ったことのない場所だ。――きっと、このひとと来るために、誰も行かなかった。約束はここで果たされるのだ。
朧車は緩やかに地上へ停車した。化け猫さんを抱えて、そっと降りる。柔らかいのか固いのか、よくわからない感触が足の裏に伝わった。朧車は外から見るとかなり恐ろしい出で立ちをしていたが、目が合うと、にこやかに笑ってくれた。会釈を返す。
朝日が昇りつつあり、東の空はもう青空がわかる。雨の後の晴天だからだろうか、空がとてもきれいだ。空気がきらきらと光って、水面も同じようで。
こんなにきれいな場所があったのか、と見惚れてしまった。
ざざーん、と波が打ち寄せる。ざざーん、ざざーん。波が引いて、寄せる音だ。潮の香りが鼻孔をくすぐる。
「――ねえ、見て。起きて、見て。貴方といつか見たいって約束した、海だよ」
とんとん、と背中を軽く叩く。薄く瞼が開き、色の違う両目が海を映した。ゆっくりと顔をあげ、瞼もきちんと開き、魅入る。
「……海」
感慨深そうに、彼はそうつぶやいた。人の言葉だった。ぼんやりとしていたはずの声音がはっきりと覚醒したのがわかる。
「オレは、この海の向こうから――きたんだ。訳も分からず、船に乗ってしまって、気付いたらこんなところに来てしまっていた。怖かった。向こうじゃ人にたくさん優しくしてもらったから、この国の、化け物扱いは、怖かった」
「――」
「そこで、おまえに会ったんだ。オレはもう人を呪うような妖になってしまっていたけど、それでも救われたんだよ」
うわごとのように、彼は言う。ずっと秘めていただろう想いを吐露する姿に胸が締め付けられた。ああ、ほんとうに、もっと。もっと早くに会いに来たかった。そう思うのは彼の想いに報いてやれないから、必死に押し殺した。
「そしてまた、オレはおまえに救われた。あそこで、あの日、消えてしまわなくてよかった。おまえと、海が見れた」
――海。かつて籠の鳥だった遊女が、彼の話を聞いて行きたがった場所。海はきっと、希望だったのだ。その先に何があるかわからないから、その先を信じられた。ここではないどこかならば何も怖いことはないのだと、信じた。
「あなたは、名前を忘れてしまったんだよね」
「……ああ。もう、思い出せない」
かぼそい声だ。私はただかなしそうに俯く白い猫を自分に向き合うように抱き直し、その眼を合わせた。
「すえひろがり、わたしの願い――あなたの名前は、八汐」
口にすれば驚くほど舌になじむそれは、かつてたくさん読んだ名前だからなんだろう。ヒヅキさんにこのひとの話を聞いたときにすとんと落ちてきた。
零れ出るほど見開いた目に、私が映る。すぐにその瞳は波打って、映った私も揺れる。するりと腕を抜け落ち、それを捕まえようとする前に、体が覆われた。それが化け猫さん――八汐の腕だと気付くのに、そう時間は要らなかった。
「ありがとう、それがオレの名だった。大事にしたかった名だった。ありがとう――ぜんぶ、思い出せた」
名前は存在を肯定する唯一――それで、すべては説明できる。
抱きしめる腕はさらに力を増し、苦しくて涙が出るくらいだった。心臓が痛くて、胸が痛くて、行き場のないこの痛みが涙となってあふれ出す。私の返す腕にも精一杯の力を込めて、その首元に顔を埋めた。
だいすきだった。一人でいることが当たり前だったところに、傍にいてくれた。ほんとうは、もっとずっと、傍にいたかったのだ。
「八汐、八汐。私はもうだいじょうぶ。あなたが心配するようなことはないよ。今度は、あなたがしあわせに成る番だ」
「しあわせというのなら、もう十分すぎるくらい報われた。ずっとひとりだったのを、他でもないおまえが看取ってくれる。これ以上の何を望めというんだ」
「……あなたならそういうと、思ってた」
「ほんとうに、もう報われた。あとはおまえがもうこちら側に煩わされないで、生きてくれたら、それがうれしい」
このひとは。
自分のような存在が人に関わることを、ほんとうによしとしない。
「八汐?」
ふと、猫みたいにあたたかい温度が周囲の温度に紛れていくような錯覚を覚える。肩の辺り。着物の裾。視線を下げていって――爪先。
溶けている。端から。朝焼けにかがやく光の中に。
その体は溶け始めていた。
「だから言っただろう? オレはどうしたってもうおまえと一緒に行くことは出来ない。この姿で、おまえを抱きしめるのだって、主様に力を貸してもらえなければ叶わなかった。真名を思い出しても、この結末は覆らないんだ」
望まないのではなく――望めない。
そう暗に言う八汐は眉尻を下げて、困ったように笑った。では、それなら、もう一度、ぬしさまに力を与えてもらえば。あるいは、私の名を明かせば、とあらゆる提案が駆け巡り、しかし、それは彼にはお見通しだった。
「誰にでも平等なはずの主様がオレに力を貸してくれたことだって本来はないようなことだし、今式の契約を結ぶには――やっぱり遅い」
そうしている間にも、彼の体は溶けて行く。焦りが募る。
「じゃあ、形だけでも、せめて、今の私の名前を、覚えて行って」
「気持ちだけでしあわせだよ。おまえにこちら側と縁を繋いでしまうのに、いなくなるオレは、おまえを守ってやれないから」
「でも、それじゃあ」
「だいじょうぶ。――ほら、最後だ。最後におまじないをしてあげる」
そういって、八汐は強く抱きしめて、私の額に唇を落とした。抱きしめられているはずなのに、感触はほとんどない。そこにいることがかろうじてまだ分かる。続けて、私の目蓋に一度ずつ、そっと押し付けられる。それがほんとうに優しくて、涙が溢れてくる。何も――何も、してあげられない。
「これは、餞別に貰っていくよ。おまえが帰る頃には――」
「あ、八汐、やしお、また――ッ!」
最期に八汐は、そっと唇を重ねて、とてもきれいに微笑んだ。
「――ああ、ありがとう。愛していた」
跡形もなく。
何も残すことなく。
最初からいなかったかのように。
八汐はそうして消えてしまった。