第八話『迎えに行く、会いにいく』
ざあざあと雨の音が増している。
電灯がちかちかと点滅し、部屋がいつもより少しばかり暗い。
ヒヅキさんは話し終えると、じっと私の方を見て、「信じた?」なんて言う。
信じるも何も。
話を聞いて、他人事な感じはしなかった。少しも。一片の違和感すら。
聞いた話には身に覚えすらあった。私はここへ来てからずっと変な夢を見ていた。目を覚ませば忘れてしまっていたけれど、この話を聞いてすべて思い出せた。夢の中にあった痛かったことも、つらかったことも――幸せだった、ことも。あれはかつて彼女が体験した経験であり、すべて本物だった。
あの日、ハチさんを拾って、あの猫が死んだら自分も死ぬのではないか、と思った感覚は間違っていなかったのだ。彼が死んだら、きっと、その重みに耐えかねて赤い糸が首を絞めていた。それほどの激情が、どうやら私の中に眠っている。
かの遊女の心は時間を超えてなお消えていない。
他人の心が私の中にあるのではなくて、私の心と、重なっている。鶏が先か卵が先か、のような状態だ。
母の再婚にこんなにも心が揺れたのは、彼女もきっと親に捨てられた、というトラウマがあるからだろう。私に限らず、最初の彼女と似たような運命を今までも辿ってきているだろうに、遊女はずいぶん強かったらしい。そのツケがまるまる私にきて、私はここへ来ることになった、のかもしれない。いや、ツケという言い方はまるで正しくないか。たぶん、今までの遊女は、自分も幸せのまま、あのひとを見つけようとしたのだ。
けれど、見つけられなかった。あのひとは知っていた。どこかで自分の愛おしい女が幸せに生きていることを。だから探すその目の前には絶対に現れなかったのだ。
なんて意地の悪い、約束なんだろうか。幸せになれと思っておきながら、そのまま帰ってくることも許さなかった。自分は大丈夫だなんて、ひどい自己満足だ。
ヒヅキさんは、「もうひとつ」と口を開いた。
「あのね。あのひとが夜を嫌う理由と、ここへ来なくなった理由なんだけれど」
はい、と短く返事をして、先を促す。
「夜は誘惑が多いから、あのひとはちゃんと夜に眠るんだ。その誘惑っていうのは――妖としての本能。あのひとは一度、人を呪い殺して、その存在を堕としてしまっている」
そうして荒ぶるものとなると、かつての血の味を忘れることができなくなる。人の血の味を求めてしまう。もう長くないと分かるほど、弱ってしまっていれば――なおのこと。
だから彼は夜眠る。起きていては、心が乱されて、何をするか分からないから。深く深く、意識を落とし込む。
「それでどうしても辛くて、無意識にも人をさがしてしまいそうになると、あの社へ来るんだ。あそこはいちばん穏やかな気で満ちているからね。それで――あのひとは、ほんとうにもう、長くない」
繰り返し言い含めるように、ヒヅキさんはそう言う。長くない。私が仮名を与えても、仮に契約を完了したとしても。その長くないは、今すぐであるはずがなかった。そんなふうには思えなかった。
だって、あのひとは。
数日前まで穏やかに笑っていたではないか。
妖の時間は人とは違う。長くないとはいっても、私にとっては十分長いものだと、勝手に思ってしまっていた。
「ながくない、ってどれくらい」
「そうだね、もって夜明け、だ」
もともと長くはなかったところに、私が来て、最期に私と一時を過ごせたことで、もう満足してしまったのだろう、とヒヅキさんは言う。そんな、そんなことってあるだろうか。たった三日一緒にいただけで満足だなんて、欲がないにもほどがある。
とっさに時計を見遣る。時刻は十一時。告げられた時間はあまりに短い。
「そんな――どうして、もっとはやく、教えてくれなかったんですか」
もっとはやく。そうしたら、会いに行ったのに。ちゃんと何もかもを分かった状態で、会いに行ったのに。
ヒヅキさんは「ごめんね」と、首を振る。
「あのひとが、どうにもかたくなだったんだ。あなたがちゃんと母親と向き合わないうちはだめだと。人の世に帰りたい場所がないまま今の自分と会うのはだめだと」
会えばきっと、オレはおまえを連れて行ってしまう。おまえの苦しむ姿を見たくないから、一思いに――なんて考えてしまう。それじゃあだめだ、と。いなくなるオレではなく、これからも一緒に生きる母親をどうか大事に、と。
だから今なのだ。私がもっと早くに母と話していれば――
「でも、だから俺は来たんだよ。あのひとがあなたに課した条件は満たされた。あとはあなたが、あのひとに会いたいと思ってくれかどうかだけだ」
と。
そんなことはとうに結論は出ている。
「会います。――会わせてください。あのひとに」
そうして、ヒヅキさんは、私をそのまま連れ出したのだ。
「先に言っておくけれど、あのひとは今、あなたに会っていた――会えていた頃と違ってとてもおそろしい姿をしている」
番傘を抱え。私を抱えて。ヒヅキさんは雨の中を急ぐ。変わらず表情は薄いのだが、それでも私が行くと言ったことへの安堵が滲んでいる。
「おそろしい?」
「うん。人を呪い、殺め、堕ちたときの姿。たぶん、あなたが近くにいるから、昔の記憶が掘り起こされて、つらい記憶が蝕んでいる」
人を呪い、殺め――堕ちたとき。
それはあのひとにとってどれほど辛いことだったのだろうか。ヒヅキさんが以前、あのひとに言った言葉。
――「あなたが、猫だからでしょう?」
あの時は意味が分からなかったけれど。あのひとは、きっと人が好きなんだ。好きで、すきで、でも愛してはもらえなかった。猫は、人とともに在る。人の体温なく生きるのは――きっと難しい。
「でも、それは、あのひとがさみしくて、そうなったんですよね。それなら――恐ろしい姿をしていても、だいじょうぶです」
「……うん、そうか」
ヒヅキさんはそれから先を、語ることは無かった。もう言うことはないと、そういうことなのだろう。
空き屋ばかりの通りを抜け、木戸を抜け、暗い裏道を走る。この間通ったときは騒ぐ気配があっただのが、今日は雨だからだろうか。提灯の明かりもなければ気配もない。ただ雨が地面を打つ音が響く。
石階段の前。灯篭はついているが、ゆらゆらと火が揺れている。風があるわけではない。雨は強いが、石灯籠もしっかりとしたつくりで、そう簡単に火が揺れるとも思えない。
だとすれば。
「ああ、また来たんだね、あの猫がそれほど大切かい」
数日前にも似たような状況に遭ったな、と、場違いにも思った。
ゆらりと、暗がりに燃え立つような鮮やかな赤。能面のように白々とした顔。アカガネさんだった。ヒヅキさんの話を考えると、あれはこの土地と一体化した彼の人の部分、ということになるのだろう。
ヒヅキさんは足を止めず、階段を上っていく。
「なあ、聞いているかい。おまえが行ったところで、助からない。こころだって、救われない。だってあれは曲がりなりにも遊女を愛した。愛したやつに自分の醜い姿なんて見せたくは無い。当然だろう、なあ、違うか」
「耳を傾けないで。あれはてきとう言うだけの口だけど、こころを折ることに関しては超えるやつがいない」
ヒヅキさんは囁くように言う。あのアカガネさんはこの土地と同化しているから、この土地の記憶を持っているのではないかと思う。だから、ああして知っているように言える。
……いや、それは関係ない。
話してはだめだと言われた。縁が出来て、あちら側へ引き込まれやすくなってしまうと。知らない振りをして見なかったことにすることが得策であると。
けれど、今はそれではいけないと、胸の奥がざわついた。ざわつくとは言っても、頭はおかしなくらい冷えている。だから、これは言うべきことなんだと思った。
「アカガネさん」
「――ちょっと、言葉を交わすのは」
「分かってます。大丈夫、少しだけ、です」
ヒヅキさんが驚いたように私の口を塞ごうとした。私はそれをやんわり外し、彼の眼をまっすぐに見た。このひとは話すとき、目を離さない。きっと誠実さが現れている。
ヒヅキさんはほんの一呼吸の間を置いて、「わかった」と足を止めた。
階段は半ば。アカガネさんがこちらへ一歩近づくごとに、灯篭の火は今にも消えそうに揺らぐ。アカガネさんは雨だというのに何もさしていないため濡れ鼠だ。金の目が炯々と光る。
部屋からそのまま出てきたため、私は靴を履いていない。だからヒヅキさんが抱えていてくれていたのだけど、私はそっと下ろしてもらった。
ひやりとした感触が伝わる。足の甲にも雨粒が落ち、または跳ねて、いくらとも経たないうちに私の足は濡れつくした。
「やあっと返事をしてくれた。こちらへ来る覚悟が出来たかい、それとも化け猫をくれる気になったかい。ああ、どちらでもいい。どちらでもいいから、話をしよう。たくさん。もてなせるようなものは何もないけれど。話がしたい。しよう、さあ、はやく、こちらへ――」
「アカガネさん。ごめんなさい、そちらへはいけないです」
堰を切ったように、あるいは熱に浮かされたように、捲くし立てるアカガネさんをなるべく強い声音で遮る。アカガネさんは上気した笑顔のままで、ぴしりと固まる。
「私、あのひとに、会わないといけない。あのひとが見られたくないって思うならそれを尊重したいけれど、それはあなたの言葉で、あのひとが言ったわけではないから。それに、この機会を逃したらきっと後悔する。私も、かの遊女も」
そう、そして。
伝えなければいけないことがある。
「だから、いかないと。ごめんなさい。最初にここへ連れてきてくれて、ありがとう。……これをあなたに言うのは、違うのかもしれないけれど」
アカガネさんは返事をしない。目を見開いたままだ。
ヒヅキさんに向き直る。
「行きましょう」
裸足のまま階段を上がろうとしたが、軽々抱えられ、ヒヅキさんはまた同じように階段を上がり始めた。先程よりも肩に触れる力が強いような気がする。
「あなたはもう迷うことは無いだろうから今は許したけれど、もうだめだからね。もう今夜を越えたらここへ足を踏み入れるのもだめ」
「そうなんですか」
「あれは土地そのものだって教えたでしょう? 人の身で縁を強くすればするほど誘われやすくなる。あなたが自分の足で歩くだけで、気付いたら取り込まれていた、なんてこともありえるかもしれない」
でも、化け猫さんが明日からはもういないというならば、私もきっとここへ用はなくなる。
夏休みが明けるのを待たずに、私はこの町を出るだろう。母さんが再婚する話はまだきちんと話し合ってはいないが、母さんは私がいちばん大切だと言ってくれた。私が嫌なら、再婚はしないと。
私にそんなわがままを言う度胸はない。母さんが私のために自分の幸せを手放すのは嫌だ。そういうのは、耐えらない。だけど、大事にしていると言ってくれた母さんを、信じられるくらいの余裕は生まれた。
たぶん、遊女の心のいちばん弱い部分に引きずられていたのもあった。おとうさんがいなくなって、動揺していたところに引きずられたのだから、仕方ない。
今までちゃんと話をしてこなかったこともよくはない。新しい人を、おとうさんと呼ぶのはまだできない。母さんが好きではなかったとしても、私にとってはおとうさんはあの人だけだ。でも、母さんが大切にしたい人を、私も大切にできたらいいと思う。それに、母さんは、父さんときちんと話し合った、と言っていた。母さんが号泣して私を抱きしめたまま眠ってしまったので、さっきは聞けなかったけれど、それも含めて、そういうことをちゃんと。帰ったら話したい。
「さあ、あのひとはこの社の最奥にいるよ。俺が守る主の眠る部屋。あなたが使っていた部屋から奥にはその部屋しかない。廊下の先に、まっすぐ」
「ヒヅキさんは」
「俺はいかない。俺はたぶん、邪魔だからね。大丈夫、あなたが危なくなるようなら、その前には駆けつけられるようにする」
早くお行き、と社の玄関に下ろされる。足がびしょびしょだが、気にするなと合図する。気が引けたが、それどころではないのだ。頷きで返す。
――と。
ヒヅキさんが私を後ろから抱きしめた。
「緋織。あなたはほんとうにおばあちゃんに似てる。言いたいこともうまく言えなくて、押し込めてはいっぱいいっぱいになる。そんなふうに考え過ぎなくていいんだよ。あなたはあなたの信じるように進めばいい」
「……はい、わかりました」
「ん、ひきとめてごめんね、いってらっしゃい」
信じる、といえるほどはっきり強く思えたわけではない。けれど、もう迷わないことだけは、決めた。
廊下はひやりとした空気に満ちていた。私の泊まっていた部屋を過ぎると、特に。左右が窓の渡り廊下のような造りで、雨で揺れる木の影が床に落ちている。雨の音。ざあざあと、それだけが鼓膜を揺らす。水分を多く含んだ空気は吸うと、まるで水を飲んだかのように錯覚してしまう。
進む。それほど長くはない廊下だ。その先に、襖が在った。なんてことはない、ただの襖。それをそっと開けると、比べ物にならない清廉な空気が廊下へ溢れ出た。夏とは思えないほどの、冷たさ。一歩中へ入ると、わずかに質量を持った空気が体に纏わりつく。
不思議と嫌な感じがしないのは、これがこの地の主の発するものだからだろう。
す、と体をすべて滑り込ませる。薄明るい雪洞に照らされた御簾の手前。真っ白な猫が蹲っていた。人の姿を保つ余力はないらしい。もとはただの猫。それが当然だろう。
「化け猫さん」
声を掛ける。ぴくんと耳が震え、とたんに瞼が開かれた。色違いのガラス玉のような目が飛び出さんばかりに剥かれ、跳ね起きる。そうして全身の毛を逆立てて、唸った。
――ふつうの猫と違うところは。
尾が二股で。
びりびりと妖気が迸っているくらい、だ。
「化け猫さん」
手を伸ばす。爪がその手を引っ掻き、傷口から濃い紫色の――呪詛、というのだろうか。それが溢れ出す。それに気を取られている間に指に噛みつかれて、そこもまた同じように呪詛を纏った血が零れ出す。
痛い。痛いけれど。
――ヒヅキさんは言わなかったけれど、見当のついていたことがある。私は妖というものについて全く詳しくないから、ぜんぜん的外れかもしれないが。
このひとは、人を恨んで呪って、そうして化け猫へ転じた。
最初がそうなのだ。きっと、こう在らなければどうしようもないのだ。こういうふうにしか、在れない。
人が好きで、いくらそう思ったところで、本能にはあらがえない。ヒヅキさんが言った妖の本能は、つまりそういうことだ。
「……ッばけねこさん」
呼ぶ。
呼んで、その小さな肢体を抱き上げた。
驚いたのか、首筋に噛みつき、爪は服を突き破って肌に刺さる。血が滲むのがわかる。ただでさえ、この呪詛が纏わりついた傷口は痛いのだ。
それでも離さず――むしろ、もっと強く、彼を抱きしめた。
ああ、だってこの感覚。知っている。一番最初に出会ったときも、彼はこうして噛み付いて、敵意をむき出しにしていた。怖いはずがない。知っているのだ、このひとが寂しくて怖くて、それで敵意を振りまくしかできないことを。
「化け猫さん。大丈夫です。、私、来ました。あなたに、ずっと待っててくれたあなたに、会いに来ました。間に合ったと言えるかはわかりません。これからあなたを幸せにする時間が残されているのか、そもそも私にそんなことができるのかわからないですけど――でも、私、来ました」
届くはずだ。このひとは、そんな本能に抗い続けて、気の遠くなるような時間を、待っていてくれた。そういう、強いこころのひとだから、届くと信じた。
深々と突き刺さり、なお深くと力の込められていた牙が少し浮いた気がした。爪も同様で、彼は少し体を離した。そうして傷口を、遠慮がちに舐めてくれる。呪詛による痛みは別段和らぐことはなかったが、それでも、言葉の届いた安堵に力が抜けた。
「化け猫さん、大丈夫です。痛くないですよ」
「……にゃあ」
痛くない、と繰り返して言うと、白い猫はほとんど吐息のような返事をする。どうやら人の姿だけではなく、人の言葉もなくすほどに弱っているらしい。
ざわざわと逆立った毛を撫でて戻す。毛もやわらかければ、力の抜けた肢体もふにゃふにゃしている。最初の夜を、思い出す。死んでいるのかと焦った、あの日。あの夜よりもずっとこの小さな猫は、温かさを失くしている。
否が応でも思い知らされる。
もう長くない。ほんとうに、夜明けを待つまでもなくわかってしまう。
どうすれば。
このひとが、なくしたもの。思い出せずにいるもの、かつての遊女が望んで、彼に託したもの。それはあの話を聞いた今では見当がついている。でも、このままではつれていけない。その前に、いなくなってしまう。
焦る。そんな暇はない。わかっている。ではどうする。どうするのだ。
「――あ」
ここ、は。
この町の主の眠る部屋。だからヒヅキさんはここへこのひとを入れた。主の妖力は人にも妖にも作用する、穏やかな力だと、彼は言っていた。
このひとが眠れない時にここへ来る理由。今ここにいる理由。つまりそういうことだ。ならば、この奥に寝ているだろう主に、お願いすることはかなわないだろうか。
「かがみの地の、ぬしさま」
御簾の奥に、声をかける。
「たすけてください。私はあなたのことをよく知りません。この地の者ではなく、どうみてもよそ者です。こんなふうに身勝手なお願いをすること自体間違っていると思います。ですが――」
水分を多く含む、冷たい空気が肺を満たす。
「たすけてください。このひとの最期に、まだ見せたいものがあります」
沈黙。
しんと静まり返る。やはり、だめだろうか。眠っているのだ、起こすことなどできないのは、考えてみれば当然だ。
ならば、時間に余裕はない。どうにかしていかなければ。電車はとっくに終電の時間は過ぎたし、バスもない。母に車を出してもらうわけにもいかず、一度戻ってヒヅキさんに相談しよう、と立ったとき。
「――」
すう、と息を吸い込むような音が空気を揺らして聞こえた。御簾を振り返る。
薄明るい雪洞。鮮やかな柄の御簾。その奥に、ゆらりと揺れる人影。
息を呑んだ。ぴるぴると動く大きな三角耳が見えた。
「――」
その人影は緩やかに動く。ずっと寝ていたからだろうか、立ち方を迷うような仕草が見えた。
「――」
御簾がゆっくり捲られる。あ、と声が漏れた。緋色の明かりに濡れて、きらめく白銀の髪。長い髪だ。白い肌が見える。化け猫さんと同じようで、全然違う。言葉もない。ただただ、美しい。
深い青の目と、視線が絡んだ。声にならない悲鳴が漏れた。怖い? 怖いのか。私は。わからなかった。ただ、おそろしい。美しい。これは畏怖だ。
「――」
その美しいひとは、手招きをした。吸い寄せられるようにして、私の足が動く。うまく動かず、ぎしぎしと音を立てているが。
少し爪の長い指が白い猫に触れる。じわ、と指先から水の溶けだすような光景が見えた。濡れてはいないから、本物の水ではない。かがみの地の主の、妖力。
清廉な水のにおいが強くなる。数秒だっただろう、それはすぐに化け猫さんの中へと浸透していた。化け猫さんの呼吸が穏やかになるのが、鼓動が少しだけだけれど強くなるのが、わかった。
化け猫さんと、御簾を少し捲っている『ぬしさま』を見比べる。
「――少し、力を分けた。その猫を見送るに相応しい場所へ、どうか連れて行って」
穏やかな声音でそれだけを言うと、そのひとは御簾の奥へ戻ってしまった。雪洞の明かりが揺らめき、再び横になったことがわかる。
「……ありがとうございました」
精一杯の気持ちを込めて、頭を下げる。そうして、穏やかになった小さな猫を抱きしめてその部屋をあとにした。
廊下は真っ暗で、外はまだ雨がざあざあ降っていた。台所を抜け、居間を抜け、祭壇の横を通って社を出る――と。
「……ッ」
まぶしさに目が眩んだ。橙色と赤色の光が外に満ちていた。
「さ、行くところがあるんでしょう? これに乗せてもらって」
目が慣れるよりも早く、ヒヅキさんが手を引いた。ほとんど投げるみたいにして、社の前に停まっていた体が何かに放り込まれる。
開きかけた目を、衝撃に備えて瞑るも、衝撃はなかった。落ちたところがふわりと受け止めてくれた、と考えるのが妥当だ。
畳。座布団、そして赤い縁の丸い窓が左右に二つ。小さな座敷のようなところに私は乗せられていた。
「ヒヅキさん、これは」
「朧車っていう妖。無口だけど気のいい奴だから、大丈夫。行先は?」
「行先、は――」
ヒヅキさんに向けて、それを口にする。ずっと正しいかはわからないでいたけれど、ヒヅキさんは「そっか、大丈夫。きっと合ってる」と言い、「いってらっしゃい」と手を振る。しゃん、と布が下り、ヒヅキさんの姿は見えなくなる。