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第一話『猫を、拾った』

 猫を拾った。


 薄汚れてはいるが、混じりけのない白であったのだろう毛並みを持つ猫だ。夏だというのにその肢体は冷え切り、死んでいるのかと息を詰めた。恐る恐るその前足の隙に手を入れてみる。

 暖かい。よかった、生きている。わずかに呼吸を繰り返しているのを確認すると、どっと心臓の音が強く感じられた。

 猫の様子は目立った外傷がなく、見た目だけならそうひどくはない。ただ、とても痩せている。皮の下に肉を挟まず、すぐに骨が存在している。何も食べていないようだ。これで、よく、生きている。

 そっと立ち上がると、その猫を連れて、帰路を急いだ。

 ほんとうに帰路といえるかどうかは、怪しいのだが。

 夏休みに入ってすぐに来た祖母の家。いままでに訪れたのは数えるほどの、縁の薄い家。祖母は優しい人だから、私が唐突に家を訪ねても嫌な顔一つしないで迎えてくれた。滞在して数日が経った今も、あまりしゃべらない私に多くを語らないでいてくれる。


 それが、私には、辛いのだけれど。


 おかあさんが再婚する。そう聞かされたのは、たぶん、夏休みに入る直前だった。その話をされてすぐに、私は祖母の家に行くための電車へとびのったのだから、きっと間違いはない。衝動的だった。あまりにも驚いて、おかあさんの顔を見ていられなくなったところまでははっきりと覚えている。

 だって怖かった。新しい父ができるなんて、怖くて、怖くて――怖かった。

 腕の中でかすかに息をする猫が少しだけ身を捩った。冷たい体を温めるぬくもりを探しているようだった。私はその体を強く抱きしめた。

 自分が親に見捨てられたように、この猫が何かに見捨てられたように見えて。

 死んでしまったら、私も死んでしまうような気がして。

 だからその体を抱いて走った。


  *


 その翌日、部屋の隅に寝かせていたはずの猫はいなくなっていた。一緒に置いていたソーセージがきれいに皿の上からなくなっていたので、食べて出て行ったと考えらえる。元気になってくれたのならば、幸いだが。

 私は居間へ下りた。猫のことは少し残念に思えたけれど、昨日の私は妙に錯乱していた。猫が死んでも、私が死ぬことと繋がるわけではないのに。


「ごはん、できてるよ。食べる?」

「……たべる、ありがとう」

「はいはい」


 祖母は白いご飯に味噌汁、少しの漬物と卵焼きを出してくれた。私は朝食をあまり食べないので、どれも少しずつだ。

 もぐもぐと咀嚼する。優しい味が寝ぼけた脳を覚ましてくれる。このかがみ市の夏は暑くないわけではないけれど、朝は涼しい。東京にいたころと大違いだ。

 ご飯を食べ終わると、私は祖母の分と合わせて皿を洗う。洗って、昼まですることもなくぼんやりする。

 ここへ来てから、およそ食べて寝る以外の何もしていない。




 その夜。

 私は眠れずにいた。夜は好きではない。私に貸し与えられた二階の部屋は広く、そこに一人でいると余計なことまで考えてしまいそうだった。それでなくても、ここへ来てから、おかしな夢を見るのだ。

 その夢は、内容は覚えていなくても、目覚めがよくないのだ。心臓が締め付けられるように痛んで、でもその原因がわからない。できることなら味わいたくなくて、私は眠ることも――したくない。


 私はのそのそと布団から這い出た。すすと障子戸を開けると、廊下が月明かりに満ちていた。階段下に祖母の部屋があるため、私は静かにそろりそろりと降りる。

 厨に入り、コップに水を注ぐ。東京よりはずっと過ごしやすい夜だが、喉が乾いた。一杯飲み干し、もう一杯。そのときだった。

 蛇口の奥にある擦りガラス。その向こうがふいに明るくなった。

 厨の外はそれほど高くない塀で、その先は道路だ。夜遅くだが、最初は車のライトかと思った。しかし、それにしては明るすぎるし、ゆらゆらと揺らめいているのは奇妙に思えた。

 首を傾げていると、ピーという甲高い音が鼓膜を揺らした。そっと裏口の戸を開けてみる。半分だけ顔を覗かせるだけでは道路の様子はしっかりと見えないが、私は、息を呑んだ。


 火の玉が舞い。

 ふわりと浮く傘がいて。

 向かいの家の屋根を軽やかに走る二足歩行の狸がいた。


 塀の上に覗く頭は禿げていたり角が生えていたりしているのが見受けられる。あるいは、人の姿を大きくかけ離れた姿をしているものがいる。あれは――何?

 恐怖よりもわずかに好奇心が上回る。衝動に駆られて、ふらふらと塀に寄った。身長は塀より低いので、向こう側から気付かれることはないだろう。そっと塀の上を覗く。

 音楽を奏でるものがいる。楽しそうなお囃子だ。酒らしきものを呷っているものもいる。およそ人ではないそれらは、誰に言われるでもなく、人ならざるもの――妖の類だと直感した。

 息を潜め、その様子を食い入るように見ていると、やがてそれらは去っていった。音も光も遠ざかったのを確認すると、私は塀の隅に取り付けられた戸からそっと道路の様子を見た。

 そこにはすでに何もいない。なんだったのだろうと、私は目をこすり、道路へと出る。


 夢にしては、はっきりしていた。提灯や火の玉の熱が、未だに肌へ残っている。

 しかし、あんなものを見たのは初めてだ。なんだったの、という問いに答えは出ていない。絵に描いたかのような、あるいは何かの物語の中から出てきたかのような、幻想的なまでに百鬼夜行を体現した光景。こうして古びた電灯のみがちかちかと光るだけの道路を見れば、やはり何かの夢だったのだというほうが納得が行く。

 茫然自失といったふうに、私は道路の先を見続けた。すると、頭上から、


「君はあれが見えたのか?」


 との声が降って来た。

 ぞわっと寒気が走る。肌が粟立つというのは、こういうことを言うのだ。

 強張る体をどうにか動かして、声の主を振り返る。首が、関節が、ぎぎぎと鈍く音を立てる。


「おお、見事な赤い目だ」

「……ッ」


 吸い込まれそうな金の目が、見下ろしていた。

 塀の上にしゃがみ込み、左手で肘をついている。反対の手で持った提灯が顔を赤く濡らして、つくりのいい顔に影を濃く落としていた。赤い髪が僅かな風に揺れてその存在のあやふやさが際立つ。そのひとは、


「めずらしい、久しぶりにケンキの子に会えたね。どうだ、君。俺とすこし遊ばないか」


 と、人懐こい笑みを浮かべた。濃い影の落ちた笑顔は裏があるように見えるのに、嫌な感じはしない。提灯をゆらゆらと揺らす子どもっぽい仕草のせいだろうか。


「あそ、ぶ?」

「なあに、朝には返すさ。さっきの集団、気にはならないか?」


 さっきの集団。気にならない、といえば嘘になる。あれが夢で無いというのなら、その正体がどういうものなのか、それには確かに興味があるのだ。

 このひとが喋る時、牙が覗いていた。身に纏う雰囲気も人懐こさこそあるものの、どこか浮いているような、触ろうとすれば消えてしまいそうな曖昧さがある。着いていって、ほんとうに朝に返してもらえる保障はない。信じられる要素もなければ、信じるつもりもない。

 だけど。

 信じなるかどうかと、着いていくかどうかというのはまた別の話だ。


「――ぜひ」

「よしきた。俺はアカガネ、珍しい客人の君を丁重に案内しよう」



 アカガネさんに腕を引かれて辿りついたのは、提灯や灯篭が数多く並ぶ、古い町並みの場所だった。よくよく見れば人が住まなくなって久しい様子の空き屋ばかりだ。町はずれの小さな木戸を抜けた先にこんな場所があるとは、知らなかった。知らないも何も、おばあちゃんの家から商店街あたりまでしか行ったことがないので、当然だが。

 道の両端に夜店が立ち並び、妙に熱が篭っている。頬が火照る。食べ物を売っている店から何を扱っているのか検討もつかない店までいろいろあり、うっかりすると目移りしてしまう。なんとなくポケットに財布を探して、そういえば寝巻きのまま来てしまったと気付く。財布は無く、当然携帯も持ってきていない。

 そのことに気付くと、急に不安が押し寄せてきた。やっぱり帰ろうかと肩越しに振り返るも、異形のものたちで溢れかえっており、来た道がすでにどうだったか分からない。掻き分けて帰るのもそれはそれで心細く、怖い。


「何か食べる?」


 アカガネさんがふと目線をこちらに寄せた。吊り目だからだろうか、眼光が鋭く見えた。帰ろうと思ったのが見透かされた気がして肝が冷える。アカガネさんは気にした様子はなく、ふわりと笑ってみせる。笑えば、鋭い目付きは緩和されて、肩の力を抜くことが出来る。


「あの、いえ、財布持ってきてないので」

「俺が勝手に連れてきたんだから、好きなの食べていいよ。買ってあげる」

「いや、でも」


 それは悪い。さっき会ったばかりのひとに。

 そういう内容のことを伝えると、アカガネさんは「気にしなくていいのに」と眉尻を下げて笑った。かと思うと、最寄の店へ足を止め、丸い器を二つ、買ってきた。器の上には赤い蜜のかかった氷。かわいい形に切られた果物も乗っている。色とりどりの具が見る目に既に満足感を与える。私が知っているものよりもずいぶん大きいけれど、カキ氷だ。


「これ美味しいんだ」

「あの、これ」

「食べとくといいよ。後悔はしない味だから」

「……ありがとうございます」


 アカガネさんはスプーンでざくざくと掻き混ぜ、私もそれに習う。氷は柔らかく、スプーンに触れると、そこがじんわりと溶けてシロップと絡む。ありがとうございます、いただきますとアカガネさんに言ってから、一口。いちご味、に近いだろうか。スプーンいっぱいに乗せて頬張った氷は舌に触れた途端ほろほろと消え、心地好い冷たさの次にシロップの甘さが口いっぱいに広がった。今度は果物と一緒に口へ入れると、しゃくしゃくと独特の触感に感動を覚える。見た目は普通だったのに、初めて食べるもののように感じた。


「おいしいです」

「な」


 アカガネさんは優しい笑みで言う。自分のカキ氷から果物をいくつか私の器に落としてくれた。ちょうど食べたもので、美味しかったので、嬉しい。

 歩きながら食べるのは転びそうだったけれど、そこはアカガネさんがひとにぶつからないように庇ってくれたり、ゆっくり歩いてくれた。提灯の熱で氷が溶けてしまわぬようにと私が急いでカキ氷を食べていると、アカガネさんがふと立ち止まった。


「さて、着いた」


 どこへ、とは聞かずとも分かった。視界が開けたのだ。

 広場だ。中央で大きく火が焚かれ、その周りを多くの影が囲んでいる。さっき見た、あの異形のものたちだ。なにやら陽気な歌を歌いながら踊っている。笑い声ばかりだからだろう、恐怖はない。

 楽しそうに騒ぐそれらをじっと見ていると、頭に何か被せられた。


「それを羽織っていな。人の匂いはそれで隠せる」

「人の匂い……分かったら、まずいんですか」

「まずいね。ケンキの人の子は珍しいから、喰われてしまうかも」


 だからそれを目深に被っておきなさいとアカガネさんは私の頭をぽんと撫でた。渡された上着は、アカガネさんが今まで着ていたもので、羽織のようだがフードが付いている。私は袖を通し、言われたとおりフードを深く被った。

 アカガネさんは私を火から少し離れたところへ座らせ、「おいしいものいっぱいあるからね。てきとうに持ってきてあげる」と料理が乱雑に置かれたテーブルへと向かった。アカガネさんの羽織は、夏に着るには厚手だったけれど、着ていて暑くない。むしろ飛んでくる火の粉が顔に掛からなくていい。

 宴を堪能する妖たちの姿を眺めた。妖たちは時折店へ何かしらを買いに行っては、帰ってきてまた騒ぐというのを繰り返しているようだ。


 ――楽しそうだ。


 角のある大男が。

 一つ目の少女が。

 真っ白な大犬が。

 あるいは手足のある器物たちが。

 各々が酔って踊って食べて騒いで。

 小さな頃、両親に連れられて行った夏祭りを思い出す。その祭りはそう大きなものではなかったけれど、いろんな人が一様に祭りを楽しんでいて、両親もそれは例外ではなくて、それがとても嬉しかったのをよく覚えている。


「よお、ちまいの。一人か? 見ねえ顔だな」


 唐突に声を掛けられ、肩が跳ねた。それはちまいの、といわれるのは当然と思えるくらい大きい。毛深い腹がまず目に入った。フードの中が見えないよう少しだけ顔を上げる。

 酒瓶を三本も抱えた大狸だった。顔は赤く、目の焦点があまり合っていない。大分酔っているようだ。覗き込むように顔を近づけてくる。酒臭い。


「あん? そりゃアカガネの羽織か?」

「分かるんですか?」

「そんな鮮やかな赤を着るやつはアカガネとヒヅキくらいだからなあ。ヒヅキはこういう場に滅多に出てこねえし」

「はあ……」

「アカガネが他人に羽織を貸すたあ珍しいな。あんた、ひょっとして――」


 そこで狸はぐいと瓶を呷り、酒瓶がひとつ空く。後ろへ瓶を放り捨てたその手で私のフードを捲ろうと手を伸ばす。わずかに身を引き、それを避けようと、


「おい狸の爺さん。そりゃ俺の連れだ、手ェ出してくださんな」


 する前にアカガネさんが狸の手を捕らえた。烏賊焼きを咥え、瓶やら料理やらを器用に片腕で抱えている。


「おうおう、アカガネ。そんな怖い顔するなよ、おまえのもんを取るとあとが怖えかんな」

「酔っ払いに絡まれるほうがよほど怖いっての」

「はっはっは、一緒になって酔っちまえば怖くなくなるぜ!」


 狸は盛大に笑い、三つ目の酒瓶をそこらへ放り捨てた。二つ目、いつの間に吞み終わったのだろう。狸はアカガネの持った酒瓶を一つすっと抜き取り、それを持って立ち去った。


 酔っ払いとは思えない手癖だ。アカガネさんもあきれたようにため息を吐く。

「まったく油断も隙もない。……さあ、君、これでも飲みな」

「あの、でも、これお酒じゃあ」

「ただの水だ、米から作った」


 薄いガラス瓶に入った液体は透明で、暑さに乾いた喉がこくりと鳴る。すんと匂いを嗅いでみる。僅かに甘いような匂いがする。ただの水というアカガネさんの言葉は、およそ信じられるものではなかったけれど、それ以上に喉の渇きが上回った。私はその瓶を受け取ると、小さく傾けて、おそるおそる飲んだ。

 美味しい。微量の炭酸が入っているらしく、含んだその瞬間にしゅわっと口いっぱいに広がった。微炭酸が喉を焼く。瓶を持ったときには冷たく感じたが、氷で冷やされた口内はほんのり温められた。さらにもう一口、二口と。気付くと瓶は空だった。


「気にいったようで何より。ほら、食べるものもたくさん持ってきたから」

「あの、そんな、すみません」

「いいよ。せっかくきたんだ、楽しんでもらいたいからな」


 そう言って、アカガネさんは持ってきた大量の料理を私に勧めてきた。


 どのくらいの時間が経っただろう。差し出されるまま料理をつまみ、満腹になった頃。

 アカガネさんはいろんな料理を持ってきてくれたのだけど、それがどれも少しずつで、かなり多くのものを食べられた気がする。久しぶりに満足感を味わった。

 途中で狸以外の妖にも話しかけられて、そのたびにアカガネさんが追い払っていた。どうもアカガネさんが羽織を貸したり、連れがいることが彼らにとって珍しいことだったらしい。アカガネさんは私がそのひとたちと話をする前に大抵は追い払ったし、アカガネさんの隙をついて話しかけてくるひとはみんな愉快だったので、別に怖くはなかった。


「そういえば」

 アカガネさんがふと思い出したように声を出した。


「君の名前を、聞いていなかった」


 そういえばそうだ。アカガネさんは最初に名乗ったけど、聞かれなかったからかすっかり忘れていた。


「教えてくれるかい」

「あ、はい。私の名前は――」

「――おい、アカガネ」


 名乗ろうとした私は、凛とした声に遮られた。私がそっちを振り返り、その後ろでアカガネさんが盛大に舌打ちした。舌打ち。舌打ち?


「それ、人の子だろう。何をしている」

「何って、分かって訊くのか? 見てのとおりだ。見ろ、この見事な赤い目、見事なケンキだ!」


 声の主は十五、六歳ほどの少年だった。白い髪がよくよく目立つ。少年のすっと細められた目を向けられ、アカガネさんは高らかに言う。先程のような優しい笑みはなりを潜め、声が熱を孕んで大きくなり、興奮しているのがわかる。狂ったように笑い、私を引き寄せた。腕の中に閉じ込め、大切そうな手振りで首に指をかけた。

 困惑してアカガネさんと突如現れたその人を交互に見比べる。やはり飲まされた水は酒だったのだろうか。顔が熱くて、耳鳴りがして、頭がぼんやりして思考が追いつかない。

 二人は、何を言っている。


「邪魔ァすんなよ、化け猫よ」


 く、と指に力が入る。首が軽く絞められ、力が抜ける。膝からくずおれそうになって、アカガネさんに体重を預ける形となる。


「そうは行かねえな――っと」

「えっ、あ、うわ」


 目の前の少年の体がぐらりと揺れたかと思うと、アカガネさんの横っ面に右足がしなやかに蹴りを叩き込んだ。アカガネさんの重心が後ろへいき、私を捕まえていた腕が緩む。アカガネさんと一緒に倒れそうになったところをぐいと強く腕を引かれた。足がもつれ、転びそうになるのをそのひとが支え、走る。肩が外れそうになる勢いだった。


「いってえ、くそ、化け猫! おまえ――っ!」


 そんな、アカガネさんの叫びが聞こえた。だけれどそれが追ってくることはなくて、広場へと置き去りにされる。

 赤い光に満ちる中で、そのひとの白い髪はひどく浮き上がって見えた。ぼうっとした視界で、その白がきれいだと思う。そればかりに気を取られていたから、どこを走っているのかも分からなかった。転びそうになるたびに支えられ、上手に足を踏み出すことができた。

 やがて私の息があがり、疲れでその一歩すら踏み出せなくなると、そのひとは走る速度を緩めた。そうして着いたのは、広場とは打って変わって暗い場所だった。古びた灯篭が入り口に二つ並び、その先にあばら家があった。大仰な木の戸には提灯がぶら下がっている。ほの灯りが妖しさを醸し出している。

 白い髪のそのひとは、臆することなく戸を勢いよく開け放ち、中へずかずかと入っていく。もちろん私の手を掴んだままだ。


「あ、の」


 声を掛けるも、振り返りもしない。

 沓脱で草履を脱ぎ捨て、私にも靴を脱ぐように促す。幸い足に引っ掛けるだけのサンダルであったため、時間差もなく着いていけた。衝立の奥へ進むと、雪洞が一つ、点いていた。


「おい、ヒヅキ」


 白いひとが声を掛ける。雪洞の向こうに丸くなったひとがいることに、そこで気付いた。祭壇のようなものの上に丸くなり、羽織をかけて眠るひとがいた。

 白いひとはその、眠るひとを蹴飛ばした。蹴飛ばされたひとは眉間に皺を寄せ、唸る。浅い眠りだったのだろう、または蹴りが痛かったのか。のろのろ体を起こした。


「……痛いなあ、なに?」

「人の子だ。アカガネに喰われるところだった」

「へえ。――ああ、なるほど、見事な赤い目だ」


 いつの間にかフードは取れていたらしい。そのひとは布団の上に胡坐をかき、あくびをかみ殺し、眠たさを残す左目をこすりながら、そのほかの十数の目で私を見つめた。そう、十数。

 袖や肌蹴た胸元から見える肌に、いくつもの目があった。それがいっせいに私の方を向いていて、じっと見つめられる中、私はくらりと意識を失った。


  *


 ずきずきと脳の奥が痛む。吐き気がせり上がってくる。

 この感覚はなんだったか。私はよく知っているように思う。そうだ、半年前の、葬式会場だ。あそこで、私は――


 ふいに意識が浮上して、ああ目が覚めたのかと思った。瞼の裏まで届く薄明りが夜が終わったことを知らせた。体を起こす。

ずきっとこめかみが痛んだ。思わず目を強くつむる。ひどい頭痛だ。喉も強く乾いている。先に冷たい水を――


「ああ、起きたの」


 知らない声に、すっと目が冴える。

 よく見れば朝陽がちゃんと入るあの部屋じゃない。朝だということはわかるが、暗い。畳ではなく板の間で、布団も薄い。ここはどこだ。昨日の夜、何があったんだっけ。思考を巡らせるよりも早く、声の主がするりと視界に入ってきた。


「具合はどう、昨日アカガネの奴にひどく呑まされたみたいだから、二日酔いだと思うけど」


 着物を適当に纏い、壁際で胡坐をかく男。鴉の濡れ羽のような黒髪が印象的で、それ以上に――露出した肌にあるたくさんの目玉が、意識を覚醒へと誘う。


「俺の見た目が怖いのはわかるけど、まあ、それで意識がはっきりするなら手間がはぶけていいね。どう、昨日のことはわかる?」

「アカガネ……さん」


 その目玉がたくさんある男の人は、何かを切りながら問う。

 先の名前と思われる単語を、繰り返すように口に出してみると、その名はとても呼びなれた感じがした。

 そうだ。アカガネさん。昨日は彼に連れられて、妖たちの町へ来たのだ。そこでなんだかたくさんの水――二日酔いというのだから、酒だったのだろう――やら食べ物やらを食べさせられた気がする。そのあとは――どうなったんだっけ。


「アカガネは人の子が好物だからねえ。あなた、あのひとが助けてくれなかったら今頃食べられていたよ」

「あのひと」

「そう。白い毛並に左右色の違う目の化け猫にここまで連れてきてもらったでしょう」


 そうだっけ?

 ああ、いや、そうだったかもしれない。目の色までは覚えていないけれど。夜に浮いて見える白に手を引かれた気はする。確か、アカガネさんに名前を訊かれて、答えようとしたところでそのひとが来たのだ。記憶が少しずつ鮮明になってきた。そして走ってきて、どんどん暗いほうへ行って、結果この青年に会って、その目玉の多さに驚いて、そのほかにも理由はたくさんあるだろうけど、とにかく気を失ったのだ。


「それで、そのひとは」

「あなたをここへ放ってさっさと帰ったよ。まったく、あのひとは意地張りで困るね」

「それじゃあ、あの、あなたは」

「俺はヒヅキ」


 纏った着物の裾から覗く肌に無数の目玉があるその妖――ヒヅキはそう気だるげに答えた。ヒヅキ。昨日、聞いたような名だった。誰に聞いたんだったか。

 ざるの上に、ヒヅキさんが切り落とすものがぱらぱらと落ちて溜まっていく。


「ヒヅキさん。私は」

「いい、いい。あなたは名乗ったらだめだ。ケンキを持つ人の子よ」


 ヒヅキさんは片手を振って私の言葉を遮った。そうしてこの人もまたケンキという言葉を口にした。

 アカガネさんも繰り返し私のことをケンキだと言っていた。ケンキ、嫌忌、建機。思いつく漢字を当ててみるのだけど、どれも違うように思える。首をかしげる私を見て、ヒヅキさんは「説明してあげる」と、鋏を置く。

 ヒヅキさん曰く――




 ケンキとは『鬼』を『見』ると書いて『見鬼』。総じて赤い目を持った人の子のことを指す。

ここでいう『鬼』とは人ならざるもの全般で、文字通りの鬼には限らない。アカガネは鬼だけれど。

 見鬼の力は生まれつき持っていることもあれば、途中で目覚めることもある。見たところ、あなたはこれまでそういう体験はなかったのでしょう? こんなふうに妖の世に踏み入れしまうことはもちろん、妖を見ることも。あなたは血縁に見鬼の子がいて、そういう家系なのかもね。血縁にそういう子がいると、やっぱり見えやすい子は生まれやすいから。

 見鬼は、人の子が本来交わるはずのない妖を見る力。すなわち、(こちら)側に近い力を持った存在ということ。これはわかる? ……うん、理解が早くて助かる。

 ええと、まずね。妖は、人のように食べなくてもいいんだ、――満たされるだけの霊力が周囲に満ちていればの話だけれど。妖に人が必要とする栄養は要らなくて、特に昔はそこかしかに霊力が満ちていたから、ほんとうに食べる必要がなかった。でも人の子は好んで食べられた。なんでだと思う? ああ、わからなくてもいいよ。それを今から説明するから。

 答えは、生きる楽しみのため。おいしいものを食べたらうれしくなるよね、つまりはそういうこと。特に妖を見る人の子の肉は美味しいらしい。妖と関われるだけの霊力を持って、なおかつ妖みたいにからだを持たないわけではない。さらに、おいしいだけには留まらず、見鬼の子を食べれば自分自身、霊力が高まってより強大な力を手に入れることができる、とも言われているよ。だからみんな、一度は食べてみたいと思っている。

 ――それが、見鬼の子。




「じゃあ、ヒヅキさんも、食べたいと、思うんですか」

「いいや? 俺は人の子は食べないよ」


 ヒヅキさんはそこまでを、淡々と無表情で語った。まっすぐに目を見て話してくれるのだけど、ほかの露出した目のほとんどがこちらを向いていて、どの目を見ればいいのかわからなかった。居心地も悪かった。

食べないとの言葉。それが私を騙すための詭弁であることは、疑いようもないだろう。昨日のアカガネさんの人懐こい笑顔が私を油断させるためと知った今では額面通り受け取ることはできない。

疑いを抱えたまま黙る私を、ヒヅキさんは意にも返さない。おもむろに置いた鋏を再び拾い、ざるを持って、奥へ入って行った。この部屋との境につりさげられた玉暖簾がじゃらじゃらと音を立てる。動けずにいると、味噌のいい匂いが漂ってきた。


「体調悪いだろうし、とりあえず味噌汁だけ作ったから。食べられるようなら米もあるよ」


 ヒヅキさんは、お盆に二つ椀を乗せて出てきた。さっき切っていたのは乾燥葱だったらしい。白い湯気が立っているのが見えて、気持ち悪さの残る腹の上あたりがきゅうと鳴った。それに厚意は、無碍にするわけにもいくまい。


「……いただきます」

「うん。――まあ、素直なのはいいけれど。食べ物には気を使ったほうがいいよ」

「えっ」


 渡された味噌汁を一口すすり、その温かさに胃がほぐれるのを感じていると、ヒヅキさんが呆れ交じりにそう言った。まるで毒でも入っているかのような物言いに思わず椀を取りこぼしそうになる。


「いや、俺が出すものは別にいいけど、アカガネなんかに渡されたものは人の食べるものじゃないから。あなたはもう昨日さんざん食べたみたいだから遅いけど」


 ヒヅキさんは自分の分の味噌汁に息を吹きかけ冷ましながらちびちびと食べている。


「それ、あの、どういうことですか」

「知らない? 黄泉の食べ物を食べたら帰れないって話」

「黄泉……」

「黄泉ってわかる? 簡単に言えばあの世のことなんだけど。あの世とこの世はふつう交わらない、交わってはいけないから、それを知った生者は元の世界には返してあげられない。逃がしてもいけない。だから――黄泉の食べ物は食べることで、体を黄泉のものへつくりかえてしまう」


 今度こそほんとうに味噌汁の椀を落とした。剥き出しの足にじりっとした痛さが広がる。板の間と膝が大惨事だけれど、それよりも。

 それよりも。

 昨日アカガネさんにもらったそれらは、私の体を黄泉のものへと作り変えてしまったということか。頭痛こそあるが、問題なく体は動く。違和感はない。手をぐっと握り、広げる。痺れる感覚は寝起きだから、だ。


「あーあ、味噌汁こぼしちゃって。これは大丈夫だよ。ちゃんと、人の世の食材使ってるから」

「わた、わたし、もう帰れないのですか」

「ええ? ああ、いや、ごめんね。言い方が悪かった。ここは人の世ではないけど、黄泉でもない。だから、一晩暴飲暴食した程度じゃ人をやめられやしない」


 ただ、との言葉が続く。汚れた床を拭いて、具を椀に戻しながら。


「だからといって、ただの人でもいられない。あなたを、今は、返すわけにはいかない」


 そんな、とか細く声が漏れた。

 ヒヅキさんは軽く拭き取った後、氷を包んだ布を赤くなった私の足に乗せる。ひりひりとした痛みが緩和されていく。呆然とする私に、新しくよそった味噌汁を差し出した。


「そんな怯えなくていいよ。返せないって言っても、二日か三日か、まあそのくらい人の世の飯食べてれば体ももとに戻る」


 ヒヅキさんは抑揚なくそういってくれたのだけど、私が驚いたことはそこではなかった。

 帰れないと聞いて、怯えたのはただの一瞬。そのあと私の心の内を占めたのは――紛れもなく安堵だったのだ。帰れないことへ、帰らなくていいということへ、ほっとしてしまった。

 きっと今頃早起きの祖母は私がいないことに気づいて驚き、心配してあるいは怒って探しているだろう。祖母。碌に会話もしない、笑えもしない、こんな私でもやさしくしてくれた祖母。彼女に大きな心配、いや迷惑をかけているということは痛いほどよくわかっている。わかっていて、私は安堵したのだと思うと、それがなんだか空恐ろしいもののように思えてきた。

 いっそこのまま――ずっと帰れなくても、いいかもしれない。

 浮かんできたそんな考えを振り払おうと、私は首を振った。


「どうしたの、今度は急に首なんか振って」

「いえ、なんでも、ないです」

「そう。まあ、あなたを人の世に返せるようになるまではこの社にいたらいいから」


 ヒヅキさんは自分の椀の中に残った葱と味噌っかすを箸で口の中へ落とし切ると盆の上へ置いた。端へ寄せたままになっていた布団を畳み、ヒヅキさんはその上に腰を落とした。薄い布団はわずかに沈み、ヒヅキさんを支える。

 私は妙に早鐘を打つ心臓を必死に気取られまいとしながら、味噌汁に口をつけた。指も唇も震えて、うまく飲めなかった。味もわからない。結局完食するのに通常の倍は時間を要してしまったが、そのおかげか食べ終わる頃には少しは落ち着くことができた。


 食べ終わった椀と箸をヒヅキさんは「かして」と返事を待たずに取り上げ、洗いに行った。それくらいはやりますと進言したのだけど、「いい」と短く断られてしまった。

 流水の音がする。洗うものは二人分で、かつおかずがあったわけではないから、そう時間はかからなかった。


「ヒヅキさん」


 洗い物を終えたヒヅキさんは再び布団の上へ座る。私の呼びかけに、両目と鎖骨あたりの目玉がこちらを向いた。


「ここ、あの、なんでしょうか」


 考えうるに、ここはヒヅキさんの自宅ということになるのだろう。それにしては、昨日の夜ヒヅキさんが眠っていたのは祭壇のようなもので、入ってすぐのところに布団も敷かずに寝ていた。私は布団に寝かされていたから、布団がないというわけでもないのだろうが、ただの家と言ってしまうには謎が残った。


「ここはお社だよ。このかがみの地の、もっとも大切な場所」

「お社……そんなところに、わたし、いても」


 社というからには何か祀っているものがいるはずである。社というには随分とぼろぼろではあるけれど。まして、もっとも大切な場所と言ってしまうくらいだ。私のような部外者が転がり込んでしまうには、恐れ多いのでは、ないか。

 もしかしたら、その祀られているのはヒヅキさんなのではないか。それならば、こうして迎え入れてくれていることにも納得がいく。祭壇で寝ていたこともそうだ。だが、そんな予想は的外れだった。


「まあねえ。ここが一番安全だから。この奥に祀っている――眠っているひとは、あなたみたいな人の子を外に放り出すほうが許さないと思うよ」

「――なにが、、祀られているのですか」


 ヒヅキさんではないのなら、祀られているのは何で、ヒヅキさんはいったい何なのだろう。

 問うと、ヒヅキさんはたっぷり一呼吸置いた。まるで言い方を探るように。


「ここの主だ。このかがみの地の、主」

「ぬし」

「そう。ながい眠りについている」


 主がどうして眠っているのだろう。眠っていては主としての役目も果たせないだろうに。主というからには、みんなに必要とされているだろうに。


「守り神、というには少し違うんだけれど、それでもこの地を守っていることには変わらない。今はねむっているけれど、これがあのこの選んだ守り方でね」


 見透かしたように、ヒヅキさんは私が抱いた疑問への答えをくれる。ただ、その意味を正しく理解するには、私は何も知らなすぎる。特別、わかりたい、と強く願いもしない。

 居候させてもらうからには知っておくべきだと、知るべきかもしれないけれど。聞くつもりはない。だって、きいても、きっとわからない。

 私が口を噤み、重い沈黙が降りる――その前に。


「さ、ご飯も食べたし、あなたはどうする?」

「どう、する」


 と聞かれても、何もすることはない。端の破けた障子に差し込む光を見る限り、もう太陽はかなり高そうだ。社の中が暗いから、気づかなかった。


「何もないなら、あのひとのところを探しておいで。昨日の祭りでみんな今は寝てるだろうし、大丈夫」


 おいで、と手招きされる。ヒヅキさんは傍らの棚から筆と布を取り出した。布は真っ白いが、長方形に細い紐が付いた不思議な形をしている。

 言われるがまま、ヒヅキさんにわずかに近寄る。

 筆にヒヅキさんがふうっと息を吹きかけると、白い筆先がぼんやりと光った。緋色だ。インクは何も付いていなかったはずなのに。とろりと染み出すように白が緋色へ変わる。

 ヒヅキさんはその筆を軽やかに振り、布の上へ色を――文字を落とした。きれいな字だった。

 目。

 とただ一文字、大きく書かれている。


「後ろ向いて」


 ヒヅキさんに背を向ける。すると、ほぼ同時に視界が白くなった。


「これを着けてたら一応人の子であることは隠せるから、外したら駄目だよ」

「はあ……」


 視界が狭まって危ないような気がしたのだけど、そう思ったのもつかの間。布は薄く透けているようで、視界が遮られることはなかった。昨日のアカガネさんの羽織を思い出す。

 そうだ、アカガネさんの羽織。結局着てここへきてしまった。朝起きたら着ていなかったけど、どこへ行ったんだろう。その疑問も、口にするより早く、ヒヅキさんが答える。


「アカガネの羽織なら俺が返しておくよ。それより、アカガネみたいに向こうから話しかけてくる妖に返事したらだめだよ」

「そうなんですか……?」

「何にしても、言葉を交わすことは縁を繋ぐことになる。余計な縁は繋がないに限るよ、カンのいいやつならあなたが人の子であることに気付くかもしれないし」


 縁を繋ぐ? ことがどうしていけないのかわからなかったけれど、ひとまず頷く。見鬼を持った人であることが危険だとは、すでに知った。


「それから、外の林にも入っちゃだめ」

「はやし」

「暗かったし覚えてないかもしれないけれど、この社の周りは林なの」


 そうだったような。手を引いてくれた白の記憶しかなく、そのほかのことは曖昧だ。外へ出てみればわかることなので、思い出すことは早々に放棄した。


「下に降りるには出てすぐに階段があるから、それをまっすぐ降りていけばいい。今は昼間だから問題ないと思うけど、林はほんとうにはいったらだめだよ」


 いいね、と念押しするヒヅキさんに半ば押されるようにして頷く。するとヒヅキさんはうん、と一つ返事をして、薄い緋色の着物を投げて寄越した。避けるでも受け取るでもなくばさっと頭に被ってしまう。それを手繰り、「これは?」と問う。香でも焚き染められたような、いい匂いがした。


「それ、部屋着でしょう。上に着るなり着替えるなりしたらどうかな。部屋着で歩き回るのに抵抗ないなら、別にいいけど」

「あ……お借りします」


 そうだ。これは部屋着だった。布団から出てそのままアカガネさんの誘いに乗ったのだから。私はヒヅキさんが台所へ行っていてくれている間に居間を借り、着替えて社を出た。着物なんてほとんど来たことがなかったので,戸越しにヒヅキさんへ指示を仰ぐ羽目になったのも、致し方ないだろう。

 ヒヅキさん曰く、あのひと――化け猫さんは基本的に昨夜のような祭りには参加しない。猫で妖なのに、夜はちゃんと寝るひとなのだそうだ。猫が夜行性なのはともかく、妖の活動時間はやはり夜だと聞いた。すこし変わったひとだと思ったけれど、ともかく、もう、今日も起きている。

 起きているならば、適当に町の中をうろうろしているだろうとのことだ。つまりどこにいるかはヒヅキさんにもよくわかっていないらしかった。その割に、「何か危ない目に遭ったらすぐ行くから」などと言っており、私が危ない目に遭っているのがわかるなら化け猫さんがどこにいるかとかもわかりそうなのに、と思うけれど言わなかった。すでに貰った恩は大きい。

 掘り下げなかった理由は、もしかしたら、それだけではない、かもしれない。


 言われた通りに町の中をうろうろと彷徨う。町の中は昨夜のお祭り騒ぎなどまるで嘘のように静かだった。いや、静かというよりは、憔悴しきった雰囲気だ。酒の匂いがわずかに風に乗って鼻孔をくすぐる。広場の方からだ。

 昨日の今日でいささか怖いものもあったが、広場の方へ行ってみる。ヒヅキさんは、今はみんな寝てるから大丈夫だと言っていた。


「うわ……」


 広場は酒瓶やら食べ物の器やら、吐瀉物らしきものやらが散乱して、ひどい有様だった。どれほど盛り上がっていたかがわかる様相だ。それでも妖の一人もここで寝こけていないというのは、なんだかすごい。朝になれば太陽が昇るからだろうか。

 そういえば、起きたばかりのときのあの頭痛は特に感じなくなっていた。完全に消えたわけではないけれど、意識しなければ気にならない。


 広場を通り抜ける。ああ、たぶん、まっすぐ進めばアカガネさんに連れてこられた道だ。帰るわけではないので、私はすぐ脇道へそれた。


 古い建物が左右に建ち並ぶ、細い石畳の道。石畳とはいってもかなり剥げていて、足場の様子は劣悪である。転ばないように、ゆっくりと歩いた。

 左右の建物は今にも崩れそうなあばら家ばかりだ。昨夜もそう思ったけど、明るくなってみれば尚そう思う。釣り下がった提灯もずいぶんぼろぼろだ。当たり前だが、人間は私のほかにはいない。

 ふと視界に白が横ぎった。屋根の上を駆ける白だ。反射的に顔を上げると、白い着物をまとった少年が、屋根の上を走っていくのが、見えた。

 そのひとだと思った。昨夜、暗い中で浮き出でて見える白が脳裏に蘇る。


「待って!」


 呼び止める声に、そのひとは振り返らない。聞こえなかったのだろうか。大声なんて意図して出したのは何年ぶりだろう。思っているよりも声が出ていなかったのかもしれない。もう一度、声を張る――「待って!」

 そのひとは、足を止めた。肩越しに振り返る。

 着物よりも抜ける白の髪の上に着いた三角の耳がぴると揺れた。こちらを振り返るが、顔の下半分を布で覆っていて、表情は図り取れない。だが、左右色の違う大きな猫目に、唐突に昨夜この色を見たことを思い出す。


「オレに用か」


 すっと背筋の伸びた立ち姿に違わぬよく通る声だった。困った。立ち止まらせたその続きのを考えてなかった。


「あの、昨日、助けてくれたのは、あなたですよね!?」

「昨日……?」


 訝しげに声を低くし、すぐにああと頷いた。


「ああ、昨日のアカガネに取って喰われそうだった人の子か。その術は――ヒヅキのか」

「あ、分かるんですか」

「そりゃあな。おまえをあいつのとこに連れてったのはオレだぞ。それにそんな術を使うのはあいつだけだ」


 白いひと――化け猫さんはひらりと体の向きを変えた。昼間だからか。大きな瞳と目があった。色が違う。右が青で、左が緑で、白い髪と相まって、その姿だけが浮いて見えた。化け猫とはいうものの、日本種ではなく、異国の猫みたいだ。


「昨日は、ありがとうございました」

「礼には及ばん」

「その、よければお名前を」

「あのなあ、オレは妖だぞ。人の世で助けられたら名前を聞くのが普通か知らねえが、おいそれと名前教えるわけにいかねえよ」


 ため息とともに、化け猫さんは身を翻した。白い二股の尾の片方に括られた赤い紐。鈴だ。りん、と鈴が鳴る。


「それだけか? ならとっとと帰んな、人の子。ここはおまえがいていい場所じゃない」

「あっ」


 化け猫さんは、呼び止める間もなく行ってしまった。身軽な猫を追うのは私には難しく、まして化け猫さんは最初から屋根の上から降りてこなかった。立ち話に付き合う気は最初からなかったのだろうと思う。

 おとなしく、言われたとおりにヒヅキさんのいる社へ帰ることにする。



 

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