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時の彼方へ(金の看板)

作者: 松本裕二

  〜時の彼方へ〜 《金の看板》

  作:松本 裕二


 《ツルルルルルー、ツルルルルルー、ツルルルルルー、ツルルルルー、》

(くそ、こんな遅くにどこに行ってるんだ・・)

 妻は、男の帰宅が遅いのをよいことに、夜時折どこかに出かけているらしい、

 彼は乱暴に携帯を閉じると駅を背に歩き始めた、

(まったくなんて日だ、終電にさえ乗り遅れるなんて、)

 25年ローンで購入した郊外の自宅迄は電車で一時間半、とてもタクシーを使える距離ではなかった、

(とりあえずビジネスホテルに泊まろう・・)

 運良く? 駅前のシングルが一つだけ空いていた。

 上着を脱ぎ捨て、暑苦しいネクタイをベットに放り投げると、近くにある居酒屋に向かった。昼食を採る時間もなく、午前12時を過ぎた胃は空っぽになっている。


「えっと、とりあえず生の大と、それとこのスペシャル海鮮丼をください、」

「はい、かしこまりました、ビールは先にお持ちしますね、」

「うん、お願いします、」

 アルバイトらしい、店員は若い笑顔で微笑んでいる、

(可愛い子だな、友里とよりは少し年下かな・・まっ、可愛さでは娘の方が上だが・・)

 一人娘の友里は29歳になっていた、幼い頃は煩わしいくらいにまとわりついていてきたものだが、今ではろくに会話さえない、


「お待たせしました、生の大と、スペシャル海鮮丼でございます、」

「ああ、ありがとう、」

「伊勢海老のお味噌汁は後からお持ちしましょうか? 冷めるといけないので、」

「ああ、そうしてください、」

(気の効いた子だな・・娘の友里とは大違いだ・・)


 豪華な海鮮丼で2杯目を飲み干した頃である、

「お客様、やめてください、」

 先程の彼女の泣きそうな声が聞こえてきた、

 声がする座敷の方に目をやると、金髪で品のない男二人が、彼女にちょっかいをだしている、

「だからさ、一緒に飲もうって言ってるんだよ、酌してくれよ、」

 キツネ目の男が、彼女の右手をつかんでいる、

「そんな、ここはそんなサービスはしていません、他の店に行ってください、」

「つーかさ、俺達近くのホテルに泊まってるんだけどさ、部屋で一緒に飲まないかい、」

 もう一人の太った男が油の浮かんだ顔で、彼女の胸に手を伸ばそうとしている、

「やめてください、やめてー」

 店長は店の奥でただその様子を眺めているだけである、


「いいかげんにしないか、それ以上は犯罪行為だぞ、」

 男はしかたなく立ち上がると、座敷の二人に詰め寄った、

「はぁー、なんだおっさん、なにいちゃつけてんだよ、死にてえのか、」

 キツネ目の男が凄んでいる、低い鼻と曲がった口元に下品さが漂っている、

「死にたくはないね、お前達みたいな馬鹿相手にね、」

「馬鹿だと、上等じゃねえか、それは俺達に対する地雷言葉だぜ、今日がおっさんの命日になりそうだな、」

 太った油男が立ちあがった、でかい。

「やす、やっちゃえよ、」

 キツネがけしかけている、

 油男は指を鳴らしながら、座敷から降りてきた、

 男は少し広いスペースまで下がった、

「逃げるのかっ、てめえー」

 油男の右ストレートが顔面に飛んできた、ボクシングをかじっていたのかパンチがさまになっている、

 男はそれをすかざず左上段で受けると、空いたみぞおちに渾身の右中段突きを叩き込んだ、

 一瞬、油男の身体が宙に浮くや、もんどりをうって後ろに倒れた、ピクリとも動かない、

(しまった、本気で入れてしまった・・)

「やすっ、やすっ、」

 キツネが油男を揺すっている、

「おいっ、まだやるか、私は今日は少々機嫌が悪い、手加減はしないぞ、」

「いえ・・いいっす・・・」

 キツネは微かに震えている、根は極めて臆病な男らしい、

 しばらくすると油男が意識をとりもどした、ようやく立上がったものの足がふらついている、

(良かった・・30年前の私の突きなら、死んでいたかもしれない・・)

「いいか、お前達、二度とこの店に来るんじゃないぞ、こんどはただではすまないからな、」

 二人は子猫のように震えながら店を出て行った、こういう手合いは強い者には極端に弱くなる。

「あのー、ありがとうございました、お礼と言ってはなんですが、今日のお代はけっこうですから、」

 髪の薄い店長が、おずおずと声をかけてきた、

「いえ、お代は払います、」

「お客様、ありがとうございました、あの二人最近時々来るようになって困っていたんです、お客さん強いんですね、」

「ははっ、大学時代空手をやっていてね、これでも主将だったんだ、」

「凄いっ、素敵です。あっ、そろそろ伊勢海老のお味噌汁お持ちしますね、」

「ああ、お願いします、」

 いらぬと言うのに、店長はサービスですと、次々と酒をだしてくる、すっかり男は酔ってしまっていた。帰り際には明日の朝食にとサンドイッチまで、持たせてくれていた。可愛い彼女に見送られながら男は千鳥足でホテルに向かっている、

 人気のない路地裏にさしかかった時である、

「おっさん、ご機嫌だな、」

「うん、お前は・・」

 酔った目線の先にキツネ男の姿があった、

「なんだ、まだやるのか?」

「やらねえよ、おっさん強いからな、一言謝ろうと思ってさ、」

 キツネ男が頭を下げている、

「まぁ、反省しているならいいさ、頭を上げろよ・・」

 言い終わらぬうちに後頭部にいきなり激痛が走った、振り返ると、もうろうとした意識の先に油男が鉄パイプを持って立っていた、

「お、おまえら・・」

 そのまま、意識が消えていった。


「淳起きろよ、淳っ、」

 誰かが激しく布団を揺すっている、

「起きろってば、講義遅れるぞ、単位やばいんだからな、起きろってば、」

(うん・・誰だ・・頭が痛い・・)

「起きろーっ、」

 今度は耳元で叫んでいる、さすがに目が開いた、頭がさらに痛い、

「君は・・君は誰だね?・・・」

「修だよ、おさむっ、お前のお友達の修さんだ・・お前な、コンパで飲みすぎなんだよ、昨日俺がかついで連れて帰ったの覚えてるか、」

「コンパ・・」

(そうだ、昨日・・昨日、あいつ等に不意打ちされて意識をなくしたんだ・・彼が私を助けてくれたのか・・)

「君が私を助けてくれたのか、いや、本当にありがとう、お世話になりました。いきなり後頭部を殴られてね、意識を無くしたみたいだ、」

「何言ってんだ、お前酔って、店の階段から落ちたんだよ、死んだかと思ったぜ、」

「いや、そんな筈はないんだが・・しかし君、もう少し目上の者に対しては敬語と言うものを使いたまえ、」

「何が目上だよ、俺達は22だ、誕生日で言えば俺がお前のお兄様だ、」

「22・・22歳ってことかね、いいねその年に戻れるものならね、戻りたいものだね、遠い昔だね・・」

「あー、もう馬鹿ちん、早く支度しろよ、朝めしだけは食わないとおばちゃんに怒られるからな、」

「いや、これ以上世話になるわけにはいかない、その君のおばちゃんにご挨拶して私は会社に行くよ、」

 後頭部をさすりながら立ちあがった、

「あー、うるさいっ、あっ、お前まんまじゃん、服きたまんまだ、そのままで行けるぜ、」

「えっ、」

(あれ、これはなんだ、誰の服だ・・細いジーパン、ブルーのTシャツ、あれっ? そう言えばお腹がない・・妻にいつも注意されている腹が無くなっている、触ってみると脂肪のかけらもなく、替わりに固く四つに割れた腹筋がある。)

「なに、腹触ってるんだよ、さぁいくぞ、」

「ここは君の部屋かね?」

 四畳半の狭い部屋に机が一つ、ずいぶん旧型のラジカセが乗っている、他には白いファンシーケースが一つ、他はTVも何もない。

「この時代に、君はずいぶん質素な生活をしているんだね、苦学生かね?」

「苦学生? なんじゃそれ、ここはお前の部屋だよ、もういつまでもジョークこいてんじゃないよ、」

「あれっ、君、私髪がずいぶん長くなっているんだが・・」

 ファンシーケースに掛かっている鏡をのぞきこんだ、

「あれっ、シワが消えている、」

 肌がピンと張り、艶やかである、白髪が一本もない髪は耳を隠すほどに長い、そして、そこには若い青年のさわやかな顔が映っている。

「君、私若がえっているぞ、ひょっとしてここはあの世なのか、そうか・・そうなんだ、私はあのまま死んだんだ・・」

「ええーい、淳、いい加減にしろ、飯行くぞ、飯っ、」

 強引に手を引っ張られると、部屋の外に連れ出された、ギシギシとなる木の廊下を渡り、木の階段を下りて行く、

『南先輩、加藤先輩、おはようございまーす、』

 1階の食堂らしいそこには、7名程の若い男達が朝食を採っている、一斉に挨拶をしてきた、

「南先輩・・なんで私の名前を彼等は知っているんだ?」

「淳ちゃん、修ちゃん、ようやく起きたね、朝食だけはしっかり食べるんだよ、これはうちの掟だからね、」

「あっ、おばちゃん、おはよう、今日は何?」

「今日はね、鮭の塩焼きと、豚汁じゃよ、それと私が漬けた茄子と胡瓜の糠づけだよ、」

「おー、美味そう、」


「さっ、淳、食おうぜ、」

「ああ、あの・・貴女は時さんではありませんか?」

「ははっ、なんだい淳ちゃん、私は時さんだよ、この福良荘の名物おばちゃんさ、」

「お久しぶりです、お変わりないですね、大学時代は本当にお世話になりました。えっ、でも私が卒業する頃、お時さんは確か70歳・・あれから30年ですから、今は100歳ですか・・」

「何失礼なこと言ってんだよ、淳、お時さんは今年まだ70になったばかりだよ、この前皆んなでお祝いしたばかりじゃないか、」

「ああ・・そう・・・」

(そうだ・・ここは確かに福良荘だ、この食堂、よく故障する古びたTV、食堂の片隅にある黒電話、背の高い首の廻らない扇風機・・なによりお時さんの笑顔とこの男臭い香り・・・)

「おーい、淳っ、自分の分は自分で持ってけよ、牛乳は俺が持っていってやるからさ、」

「ああ・・」


「君、美味いね、この豚汁は最高だよ、いや手作りの料理なんて久しぶりだよ、」

「ああ、おばちゃんの豚汁は最高さ、肉が少々少ないけどな、お前もいつか結婚すりゃ手作りの朝食を作ってもらえるさ、」

「いや、それは無理だね、うちの妻ではね・・」

「はぁー、どこの妻だよ・・」

(うん・・この男は・・・)

 豚汁を嬉しそうにご飯にかけている男の横顔に記憶が蘇ってきた、

「あっ、君は、君は修か?」

「はー、なんだよ淳、いや南君、まだジョークこいてんのかよ、」

「そうだ、修だ、いや加藤だ・・ずいぶん若変えったな、頭に毛もあるし、」

「ふざけんなよ、俺の髪はまだふさふさしてるよ、」

「いや、30年後の君はつるっぱげになっているんだ、」

「つるぱっげ・・嫌なこと言うなよ、確かに親父が禿げてるからな、気にはしてるけど、俺は違うぞ簡単に禿げてたまるか、」

「気合だけでは駄目だね、禿げない努力をしないと、どうでもいいがここはどこで今日は何年だね? 東京の文政区、昭和○○年、7月20日さ、馬鹿かお前は・・・」

「東京・・文政区・・し、昭和・・昭和○○年・・30年前じゃないか、」

「知るか、」

(と言うことは・・・私は30年前の東京、東都大学時代に戻ったと言うのか、タイムスリップと言うやつか・・まさか・・・)


(懐かしい、何年ぶりだろう、ここは間違いなく、私の母校 東都大学だ、本当にタイムスリップしたのか・・)

「加藤君、いや修、昨日私は黒い鞄を持っていなかったかね?」

「鞄? お前って財布さえ持たないじゃないか、」

「紺のスーツを着ていたはずなんだが・・」

「ああ、就活用に買ったよな、ファンシーケースに入っているんじゃないか?」

「そうか・・」

「問題は鞄だな、携帯とノートPCが入っているんだよ、」

「携帯?、ノートPC? なんだよそれ、」

「電話だよ、君、それとパソコンさ、それがないと仕事に困るんだよ、」

「電話が鞄に入る訳ないだろう、パソコン? なんじゃあそれ、 お前さ、本当おかしいぜ、やっぱ昨日階段から落ちた時、頭打っておかしくなったんだ、講義が終わったら病院に行った方がいいぜ、」

「ああ、いや・・」

『南先輩、おはようございますっ、おっす、おっす、おーすーっっ、』

 屈強な若者の一団が頭を下げている、

「ああ、おっす・・」

「修・・彼等は誰かな?」

「お前の空手部の後輩達じゃないか、忘れたのかよ、退部してまだ三カ月だろう、まっ、しかしお前は全国大学選手権で準優勝して主将を引退したんだもんな、頑張ったよな、」

「ああ、まぁ・・遠い昔の話しだよ、」

「まっ、今は就活だよな、つまんないよな、サラリーマンなんてさ、」

(そうだ・・結局加藤は父親のコネで証券会社に入ったが、過労死で亡くなった・・)

「ああ、そうさ修、君はサラリーマンは辞めた方がいい、特に証券会社は辞めたまえよ、絶対に、」

「はぁー、なんだよそれ、証券会社なんて俺の一番苦手な世界じゃないか、でもさ結局はサラリーマンになるしかないんだよな、なんの才能もないしな、」

「そんなことはない、とにかく証券会社は止めたまえ、君には向かない、」

「変だぜ、お前・・」

「あー、しかし修、若いっていいね、体が軽いよ、しかもここはいいよね、時がゆっくりと流れている、」

「なんだよ、お前、まるで中年の親父みたいだな、」

「うん、まあね・・」


 国際経済組織法の講義が始まった。加藤は隣で寝ている。

(桜井講師だ・・)

 40代後半で、まだ一介の講師にすぎないこの人は、20年後には外務大臣となり、大いにその手腕を発揮するのである、今はまだ、よれよれの背広を身につけ、鼻水をすすりながら滑舌の悪い講義をしている、たまに袖で鼻水を拭いている。


「いやー、修、桜井講師の講義は楽しかったよ、勉強になったよ、」

「そうか・・後でノートコピーさせてくれよな、しかし腹減ったな、」

「ああ、そうだね、」

 お時さんの美味しい朝食でで三杯もおかわりしたのに、もう腹が鳴っている、

「一食に行くか、」

「一食?」

「第一食堂さ、お前のお気に入りじゃないか、」

「ああ、うむ・・」


「さて、何にするかな、」

 自動券売機を二人は眺めている、

「今日はかつ丼と肉うどんだな、」

「淳は何にする?」

「じゃ、私もそれで・・幾らだね?」

「300円だよ、」

「300円かね・・随分と安いね、」

 ポケットを探ると、シワシワの500円札がでてきた、

(おー、懐かしいな、500円札だ、これは使いたくないな、)

「なんだよ、札は使えないぜ、いいや俺が立て替えといてやるよ、」

 加藤はポンポンと硬貨を入れると慣れた手つきでボタンを押している、


「修、このかつ丼の肉はハムかね?」

「ハム? 薄いだけさ、学食だからな、」

「しかし、美味いね、」

「まぁな、」

「このうどんの肉も小さいが、出汁がしっかりしててなかなかのものだよ、私は接待で高級料理ばかり食べてきたが、こういう粗末な物も悪くないね、」

「はー、そうですか、ところでお前、今日バイトの日だろう、」

「バイト?」

「部を辞めてから、火曜と金曜はデニーのバイト日だろう、」

「デニー? ああ、あのスーパーならとうに倒産したよ、」

「倒産? 馬鹿言うなよ、大型スーパーのデニーが潰れるわけないだろう、」

「いや・・ああ、まぁいいか・・何時からだったかね?」

「五時だろう、」

「ああ、うむ・・」


「南課長どういうことですか、なんの為の計画書なんですか、提出してもらってからまだ2週間もたたないと言うのに、さらに200万ショートすると言うんですか、これでは販売計画にもなにもならない、あなたの4課だけですよ、こんなに毎回数字が狂うのは、管理能力を疑われてもしかたないですね、」

「すみません・・」

「分かっているとは思いますが、今月は本決算です、通常月とは違うんです、どうしても数字をやらないといけないんです、分かってますよね、」

「はい・・重々承知はしています・・」

「ではやってください、もう一度二人の係長と数字を詰め直してください、もうこれ以上、他の課に売上の上乗せはできませんよ、」

「はい・・」

 幹部会議は重い空気に包まれている、黒崎営業部長を中心に4人の営業課長達は暗い表情で楕円形のテーブルを囲んでいる、その中でも4課の南の表情はさらに沈痛であった。


「・・・と、言う訳で修正計画は蹴られたよ、なんとしてもやれと言うんだ、」

 二人の係長は疲れきった表情でうつむいている、

「すみません、課長、詰めに詰めた結果の200万マイナスなんです、これ以上はどうしょうもありません・・」

 1係長の山木が、係の計画書を睨みながらうなだれている、

「課長、山木さんとも話したんですが、二人でこの200万を作ろうと思うんです、」

「作る・・どういうことだ、」

 2係長の上田が青ざめた顔で話している、

「はい・・二人で100万づつ、買おうと思うんです・・」

「買う? 何を買うんだ、」

「商品です、山木さんと私の販売店に頼んで商品を100万づつ仕入れて貰って、それを買おうと思うんです・・販売店にとってはリベートや、表賞の数字になるのでメリットがあります、」

「それは不正行為だ、なにより、なんで君達が100万もの自腹を切らなくてはならないんだ、山木君、君は子供が生まれたばかりじゃないか、今から金がかかるんだぞ、上田君だって来年結婚するんだろう、お金が必要な時だよ、駄目だ、絶対に許さんぞ、」

「しかし、課長、もう手がありません、1課や2課、3課も決算の為にそれぞれの店で商品を少しづつ買ってるんです、課長は昨年転勤でこの支社に来られたばかりでご存知ないでしょうが、この支社ではそうして数字を作ってきたんです。少し前までは公に半強制的な社販までしていたんです・・」

 山木が開き直ったように話している、

「馬鹿な、そんなことをしてどうなると言うんだ、いいかとにかく200万を少しでも詰める努力だけをしてくれ、くれぐれも課員に変なことをさせてはいけないよ、君達もだ、全ての責任は私がとるから・・分かったね、これは命令だ、」

 二人の係長は泣きそうな顔で下を向いている、時計は午後10時を廻っていた。

 二人が帰った後も男は一人デスクに残っていた、

(疲れたな・・何が一流企業だ、社員にくそみたいな負担をさせて、馬鹿な上司達の為に神経をすり減らし・・派閥争いに明け暮れるだけの、世界・・これが私の人生か・・名門 東都大学を卒業し、天下の美生堂に入社できたものの、毎日数字と言うノルマに追われ、販売店に頭を下げ、部下に気を使い、あげくのはてには5歳も年下の上司にこきつかわれている・・家に帰っても妻は不在か、寝ているし、一人娘の友里は口もきいてくれない・・なんなんだ・・どこで私の人生は間違ったんだ・・戻れるものなら過去に戻ってやり直したい・・やり直したい、やり直したい、やり直したい・・)


(ここら辺だったかな・・)

 デニーの裏口に廻ると、警備室があった、

「あのー、すみません、バイトのものなんですが従業員入口はこちらですか?・・」

「おー、なんだい南君、いつものギャグかね、この前貸してくれた経済原論、面白くてね、もう少し借りててもいいかな?」

「経済原論?・・あ・・どうぞ、どうぞ・・あっ、岩佐さん・・岩佐さんですよね・・お久しぶりです、30年ぶり・・」

「ははっ、火曜日以来だからね、お久しぶりだね、」

 白髪の警備員は陽気に笑っている。家庭の事情で高校を中退した彼は勉強が好きで、大学生の南から時折大学の講義内容を聞くのを楽しみにしている、

「南君、タイムカードを押すの忘れるなよ、またフロアー長から叱られるからね、」

「あ、はい・・」

 従業員入口を入るとすぐにそれはあった、アルバイトの列に南 淳のカードがある。

 "ガッチャ、"と打刻する、ずいぶん旧型のタイムカードである。

 少しづつ記憶が蘇ってきた、

(ここだ・・)

 ロッカーに南と書いてある、

 デニーの赤い制服に着替えると店内に向かう、

(確か、食品3課だったよな・・この辺か・・)

 彼の担当は食品3課のインスタント食品コーナーである、インスタントラーメンを中心に様々なインスタント食品が並んでいる。各商品の補充やPOP付け、特売のエンド作りが主な仕事である。

(この時代はまだカップ麺は少ないんだよな、ほとんどが袋麺だ、)

 彼は30年前のスーパーにタイムスリップしていた、レジを観るとPOSシステムはまだなく、レジでは値段を直接打ちこみ、お金を数えては客にお釣りを渡している、

(大変だな・・よく間違えないもんだ、)


「南くーん、ちょっと手伝ってくれ、」

(えっ、誰だろう・・)

「タイムセールの準備を手伝って欲しいんだ、今日は卵だからね、とりあえず300パックをエンドに積んで欲しいんだ、」

「あっ、はい・・」

『フロアー長っ、池田フロアー長、店長がお呼びでーす、』

「あ、はーい、じゃ南君頼むよ、」

「は、はい・・」

(思いだした、池田さんだ、ずいぶん若いな、そうか当時彼は確か31歳・・今の私より21歳も若いんだよな・・)

「お兄ちゃん、タイムセールは何時から?」

 太ったおばちゃんが、声をかけてきた、

「あっ、はい・・えーと・・そう四時からです、確か・・」

「そう・・なんかあんた頼りないわね、」

「すみません、新米なもので・・」


(ふうー、スーパーの仕事は大変なんだな、少しづつ仕事の記憶が戻ってきたものの、てんてこ舞いだった。しかし疲れのかけらもないな、若いとはいいものだな・・)

 九時の閉店後、帰ろうとした時である、

「淳ちゃん、お疲れ様、これから少しつきあってくれない?」

「えっ、水上さん・・水上さんですよね?」

「なに言ってんのよ・・いつもの酒楽亭で待ってて、」

「ああ・・はい・・・」

 水上 早苗は、食品3課の主任である、当時29歳。南には忘れようのない女性であった、

(水上主任・・生きている・・・)


 彼女はニ階の個室がお気に入りであった。この時代には珍しく4年生大学を卒業し、デニーの商品部に配属されたのであるが、現場を強く希望した彼女は、デニーM支店、食品3課の主任を勤めている。

「私ね、デニーの今のやりかたでは将来駄目になると思うの、創業時からの薄利多売の方針では、いつか息詰まるわ、これからの消費者は価格よりも価値を求めてくる時代になると思うの、商品部でもずいぶん提案したんだけどね、相変わらず、どこよりも安くだもんね、時代遅れの頭の固いおっさん達ばかりよ、」

 ピンク色に染まった頬には成熟した女の色気が漂っている、

「あのさ、池田フロアー長のことどう思う?」

「えっ、どうって・・」

 南は二杯目の生を飲み干そうとしていた、

「あれ、淳ちゃん、ずいぶん飲めるようになったわね、ふーん、いいことよ、私の奢りだからね、どんどん飲みなさい、君は不真面目のようで真面目だからね、今一イラツクのよね、たまには狂いなさいよ、」

「はぁ・・」

 池田さんがどうかしたんですか?」

「不倫してるの、」

「へー、そうかね・・まぁよくあることだね、」

「私が不倫相手なの、」

「な、な、なんでだね・・」

「本部の合同会議に二人で行ったのがきっかけだったわ、宿泊先のホテルの部屋で飲もうっていわれて、気がついたら大人の関係になっていたの、」

「今も付き合っているのかね?」

「ええ・・それがね、最近彼が結婚したいって言いだしてさ・・」

「奥さんと別れてかね?」

「そう・・」

「君はどうなんだい、結婚する意志はあるのかね?」

「分からない・・、でもありかなっても思うのよ・・」

「不倫がいいとか、悪いとかは言わない、人間にはどうしょうもない感情があるからね、特に恋愛には・・しかし、誰かを不幸にしてなりたつ愛なんか私は認めないね、君が決めることだから口出しする気はないが、将来幸せになれるとはとても思えないな、」

「うん・・そうよね、なんか分からないの・・さっ、飲みましょう、私明日は公休なの、南君はどうせ毎日が日曜日の大学生だから大丈夫でしょう、」

「えっ、まぁ・・」

 水上の不倫の果てには、心中と言う悲劇的な結末が待っているのである、

(なんとか二人を別れさせて、水上さんを助けなくては・・)


(淳のやつ、あのコンパ以来ほんと変だよな、なんか中年の親父になったって感じだ・・)

「おさむちゃん、あたしゃ帰るからね、あと頼むね、」

「あっ、富さん、お疲れ様でした、」

 加藤 修は、このうどん店、“くら”で週三日のバイトを始めて二年になる、福良荘の近くにある店で国道沿いにある為、学生だけでなく、一般のお客さんも多い、富さんはいたって呑気で、うどんの出汁づくり以外はコミカルなほどにいい加減なオーナーである。彼はレジの清算をすると、年代ものの黒い金庫にお金を入れ、まかない?を作り始めた。

(今日は何にするかな、肉うどんにまる天入れて、えび天もいれて、昆布もいれて、きつねも入れて、もち卵もいれて、ネギは滅茶一杯のせて、とにかく全部のせうどんだ、あと稲荷とおにぎり食って・・夏場はおきゃくが少ないよな、冷やしうどんとかすればいいんだけど、おばちゃんはなぜか頑固にメニューを変えないんだよな、まぁ、いいけど・・)


「淳のやつ、まだ帰ってないみたいだな、」

「加藤先輩、南先輩今日はバイトですよね、最近なんか変なんですよね、夜は11時には寝てるし、朝なんか早く起きて散歩してるみたいですよ、」

 経済学部一回生の田中がお茶をいれてくれている、

「散歩か・・」

 福良荘の食堂では加藤の持ち帰った、おにぎりや稲荷を寮生達が頬張っている、売れ残った分はもったいないので、全て持ち帰って皆んなで食べるように富さんに頼まれている、

「昨日なんていきなり部屋に来て、「君、これからはITの時代になる、その分野をしっかり勉強しておきたまえ、」なんて言うんですよ、」

 工学部二回生の井上は好物の稲荷とおにぎりを交互に頬張っている、変わった男で稲荷の皮を外しては別々に食べている、

「ITってなんだよ?」

「はい、加藤先輩、情報技術のことです、」

「ああ、あれかコンピュータか、」

「はい、うちの大学でも研究が始まっているみたいですが、とにかくコンピュータの操作は難解なんですよ、一般の人にはとても使えるような品物ではないんですが、南先輩いわく、30年後には小学生でも使っていると言うんですよね、」

「ふーん、淳のやつどうせSFの本でも読んだんじゃないか、」

「あっ、それと30年後には殆んどの人が携帯とかを持っていると言ってましたよ、手のひらに乗るくらいの小さな電話なんですって、」

 文学部二回生の木下が缶ビールを片手に話に加わってきた、おにぎりのたくあんをつまみにしている、

「ふーん、淳のやつそんなこと言ってたのか、携帯電話か・・あれば便利だろうな、」

「そんなことないですよ、加藤先輩、どこにいても連絡が取れるってなんか窮屈じゃないです、うちの親はうるさいですからね、しょちゅう電話されたらかなわないですよ、なんか猫の首に鈴って感じで・・」

「少し例えが違う気がするが、まっ、そりゃそうだな、自由がなくなるよな、それに手のひらに乗る電話なんて、ありえないよな、糸電話じゃあるまいし・・」


「おはよう・・」

「ああ、おはよう・・」

「今日も仕事かい・・」

「ええ、容態の悪い患者さんがいてね、気になるのよ、貴男お食事は冷凍室に作りおきしてあるからチンして食べてね、それじゃ、行ってきます、」

 妻は忙しそうに慌てて出て行った。

「ああ・・」

 朝刊に目を落としたまま、彼女の顔を見ようともしなかった、

 自分でコーヒーを入れると、トーストを焼く、疲れが泥のように溜まっている。

「あっ、おはよう・・」

「・・ああ、おはよう、」

 珍しく娘と会話?をした、置物を見る様な目で”チラッと”一瞬こちらを見たかと思うと、冷蔵庫から牛乳を取りだし、逃げるように二階に消えて行った。後ろ姿が若い頃の妻にそっくりである、

 受験に何度も失敗し、ようやく医学部に入った娘は、今は研修医として厳しい医療現場を歩き始めたばかりであった。

 一人寂しくトーストにバターを塗り始めた時、携帯が震え始めた。

 着信に岡 友美と表示されている、

(岡君?・・)

「はい、もしもし岡君かい、」

「南課長ですか・・」

「うん・・私だよ・・」

「岡です、岡 友美です・・」

「ああ、岡君、どうしたんだね?」

「課長・・実はご相談がありまして・・せっかくのお休みのところすみません・・」

「いや・・いいよ、なんかあったのかい、」

「はい・・・」

(彼女の声に尋常でない様子を感じた・・)

 岡 友美は4課の美容社員である、まだ19だが仕事熱心で、販売店や顧客の評判がすこぶるいい、いずれは美容社員のリーダー的存在になる人材である。


「課長すみません、せっかくのお休みなのに・・」

「いや、かまわないよ、どうせ暇だしね、それよりどうした顔色が悪いぞ、」

「実は・・私・・私・・妊娠しているんです・・・」

「えっ、妊娠・・・」

 口に運ぼうとしたコーヒーカップが宙で一瞬静止した、彼女は下を向いたまま、まだ手もつけていないコーヒーカップを凝視している。

 日曜のカフェはそろそろ人が増え始めていた、

「相手は彼氏かい?」

 少し声をひそめて聞いた、

 彼女は静かに首を振ると、白い頬に涙がつたい始めた。

「いや・・さしつかえがあるなら答えなくていいんだよ・・で、どうするんだい・・産むのかい?・・」

 今度は激しく首を振っている、そして大粒の涙が幾筋も頬を流れ始めた、

 廻りの客達がチラチラとその様子を眺めている、

「黒崎・・黒崎部長の子なんです・・」

 彼女は喉からふりしぼるよう声で、ようやく口を動かしている、

「えっ、黒崎・・黒崎部長の?・・・」

 それは二カ月前の慰安旅行の事だという。二次会も終わった頃、美容主任の山木の誘いで、黒崎部長の部屋で飲み始めたという。黒崎が苦手な岡は早く自分の部屋に戻りたかったものの、美容主任の山木のてまえ席を立てずに我慢していたと言う。そして、黒崎が作った水割りを飲んだ直後急に強い睡魔に襲われ、そのまま意識をなくしてしまったという。

「気づいたら、部屋には私一人になっていて、で・・部長が上に乗っていて・・それで、それで私、激しく抵抗したんですが・・」

 余程辛い思いをしたらしい彼女の肩は激しく震え始めた、

「先月、生理が来なかったんです、それで昨日病院に行ったら妊娠していると言われて・・」

「いいよ、岡君、もういいよ・・辛い思いをしたね、分かった、この件は私に任せなさい、これ以上君が傷つかないように考えるからね・・」

(なんてことだ、黒崎の奴・・もし娘の百合が同じ目にあったとしたら、私は奴を殺すかもしれない・・)


「・・と言う訳で淳、月曜の六時空けておいてくれよ、」

「うーん、コンパなんてこの年だしね、私は遠慮しておくよ、」

「なにがこの年だよ、そりゃ22なんて10代からみればおじさんかも知れないけど、お前コンパ大好きじゃないか、なっ、頼むよ、もう返事しちゃたんだからさ、なんか凄げえ美人揃いらしいぜ、頼むこのとおりだ、」

 修が男にしては少さな白い手を合わせて拝んでいる、

「うーん、じゃ顔だすだけだよ、修には借りがあるからね、」

「よっしゃ、そうこなくちゃ、」


 コンパは行きつけの焼鳥屋、”大衆亭”の二階で行われた、客の殆んどが東都大学の学生で、大盛りで安いメニューが人気である。

「それじゃ、只今から清美荘と福良荘のコンパを始めたいと思います、皆さんグラスをお持ちください、」

 幹事の修は、張り切っている。乾杯の後、自己紹介と続き、宴は始まった。

「月並みですけど南さんの趣味はなんですか?」

 前の席に座っている文学部の二回生、秋山 唯が大きな瞳で尋ねてきた、

「趣味、・・そうだね、神社や城巡りがすきだね、」

「へー、渋いですね、」

「君は何が好きなんだい?」

「私・・私は漫画が好きなんです、将来は漫画家になりたいんですけど、両親は反対で、小説家ならいざしらず、漫画家なんて絶対駄目だって言うんですよ、卒業したら早く結婚して欲しいらしくて、女の子が漫画家って変ですか?」

「そんなことはないさ、漫画はね、この国を代表する立派な文化になる、頑張りたまえよ、人生は一度だけだからね、」

「はい、ふふっ、なんか南さんて面白いわ、なんか未来から来たおじさんみたい、」

「はは、そうかね・・」(当たっている、女性と言うのは鋭いものだ・・)

「おっ、ここは盛り上がっているな、」

 修が酌をしにきた、5対5のコンパは今ひとつ盛り上がっていない、福良荘の木下、田中、井上の下級生メンバーは女性軍と話しが弾まず、女性達も自分達だけで固まって飲んでいる。

「淳、頼むよ、木下達、顔も芋だが話も芋でさ、座がしらけちゃってるんだよ、いつものギャグで盛り上げてくれよ、」

 修が耳元でささやいている、

「いや、修、できれば私はそろそろ帰りたいんだがね・・」

「何、言ってんだよ淳、まだ北村さんも来てないしさ、これからだぜ、頼むよ、また酔っぱらってもいいからさ、一発頼むよ、」

「うーむ・・」

 仕方なく、ビールを飲み干している、

「あー、女性の皆さん、例えば30年後、この国の姿はどうなっていると思うかね?」

 南の親父のような真面目くさった質問に一斉に笑いが巻き起こった、

「南さんはどうなっていると思いますか?」

 経済学部三回生の下川 歩美が手を挙げて質問している、

「ああ、そうだね、30年後のこの国は経済大国になっている。生活の中にはIT技術が浸透し、個と個が繋がる時代になっているんだ。ただそれは真のコミュニケとは違う一面もあってね、色々と問題も生じている。あと、小学生までが携帯と言う手のひら程の電話を持っていてね、スマホと言うコンピュータと電話が一体となったツールも急速に普及しているんだ。コンピュータはもはや一部の人達が使うものではなく、パソコンと言って、個人が保有するコンピュータがあたりまえの様に普及している、そうそう、ネットが急速に広まってね、仕事上でも、生活においてもなくてはならないものになっているんだ。時代は女性を中心に動きだし、女性達は本来の能力を発揮し、あらゆる分野で活躍している、ただ反面少子高齢化が進んでいる、夫婦別姓と言う討議もなされ始めているんだ。家族と言う最小単位の関係は気薄となり、食事さえ一緒に採らない、いやむしろ家族全員で夕食を採るシーンはむしろ珍しい時代になるんだよ。」

「ずいぶん寂しい話ね、」

「あっ、北村さん、」

「ごめんなさい、加藤さん、解剖の実習が長引いて遅れました、」

 南の会話をさえぎるように北村 瞳が現れた、白のTシャツに赤いジーンズ、綺麗な目鼻立ちに知性の高さと意志の強さが溢れている。

「福良荘の皆さん、遅れてすみません、医学部三回生の北村 瞳です、宜しくお願いします、」

『宜しくお願いしまーす、』

 男性軍の目が一斉に彼女に注がれている、

「私、ここに座っていいかしら、」

 彼女は南の右隣の席を指差している、

「ああ・・どうぞ・・・」

 南の右隣に腰をおろした、

「あ、それじゃ、北村さんが見えられたのでもう一度乾杯といきましょう、」

 加藤はいそいそとグラスを彼女に手渡しビールを注いでいる、

「それでは皆さん、再度、清美荘と福良荘の親睦を祝して乾杯―っ、」

『乾杯っー、』

「ああ、お腹空いた、ホルモン美味しそうね、さっきまでこんな感じの臓器を解剖していたのよ、」

「もう嫌だ―、北村先輩、やめてくださいよ、」

 秋山 唯が口をとがらせている、

「あー、南さん、何をそんなに北村先輩のこと見てるんですか、」

「あっ、いや・・・」

(瞳だ・・妻の瞳だ・・・そうか私と妻はこのコンパで知り合ったのか・・と言うことは彼女とさえ結婚しなければ30年後にあんな冷たい仮面家族の暮らしをしなくて済むんだ、よし、ここはとにかく嫌われることだ、徹底して・・嫌われてやるぞ・・)

「北村さんは医学部なんですね、将来は女医さんなんて凄いですね、」

「たいしたことないですよ、なんか人の役に立てる仕事かなって思っているだけで、」

「南さんはどんな仕事に就きたいんですか?」

「いやー、別に決まってないな、できるだけ楽で稼げる仕事を探すつもりですよ、」

「ふーん、それもありよね、」

「えっ・・」

(妻なら絶対に反論してくるはずだか・・)

「彼氏とかいるんですか?」

「いないわ、いたらコンパなんて来ないもの、まっ、欲しくもないけどね、勉強忙しいし、」

「そうかね・・」

「南さんは彼女いるんですか?」

「うーん、まぁいるようないないような、29歳の社会人の女性とね、そこそこ付き合っているって言うか、遊びというか、」

「どこで知り合ったの?」

「うん、バイト先の上司なんだよ、」

「へー、大人の女性と付き合っているんだ、」

「まぁ、遊びさ、相手もね、」

(よしよし、いい展開になってきたぞ、女性が一番嫌うタイプの男の会話だ、これで妻は私を嫌いになるに違いない・・)


 季節は少しづつ涼しくなっていた、

「淳、俺達もそろそろ就活の追い込みをかけなくちゃな、廻りは殆ど内定決まってるぜ、」

「うん・・まぁ何とかなるさ、」

「お前のんきだな・・いい加減バイトも辞めたほうがいいぞ、」

「修、お前はどこの会社を狙っているんだい?」

「どこってことはないさ、とにかく大企業で、待遇がいいことかな、あと仕事が楽で美人が多くて、・・まぁ皆んなそんなもんだろう?」

「そんなおめでたい会社なんてないぜ、大きけりゃいいってもんでもないし、君は企業の事が何も分かっていないな、もはや終身雇用と言う習慣は遠い昔のものになる、サラリーマンの世界はもはや安定した世界ではなくなっている、いや・・最も安定していない状況になっているんだ、どんな大企業に勤めていてもね。年功序列も遠い世界のものさ、能力主義の中、年下の上司に頭を下げるのも当たり前のことになっているんだ、」

「へっ、お前見てきたみたいなこと言うな、」

「ま、まぁ想像さ・・」

「ところで北村さん達どうしてるかな? あれから二か月か、なんかしらけたコンパだったよな、俺さ、北村さんがすっかり

 好きになってさ・・でも無理だよな・・淳、お前はどうなんだい?」

「なにが?」

「北村さんさ、話しが弾んでいたじゃないか、」

「俺は嫌だね、嫌な女のタイプだな、」

 鱗のような雲がゆっくりと動いていた、


「黒崎部長、お話しがあります、」

「うん、なにかね?」

「社内ではちょっと・・」

「大事な話かね?」

「極めて重要な話です、」

「君、まさか何かミスでもしたんじゃないだろうね、困るよそんな相談は、」

「いえ、私ではなく部長に関係することです、」

「私に・・」


 たまに部下達と行く、カラオケの一室にいる。

「はは、南君、おじさん二人で来るところではないね、私は歌は苦手でね、」

「誰にも聞かせられない重要な話ですから、あえてここを選びました、」

「なんだね話って、私は疲れているんだ、結論から言いたまえ、」

「岡君の事です、」

「岡・・君の課の岡 友美のことかね?」

「ええ・・良く下の名前まで知っていますね、」

 一瞬、黒崎の顔が狼狽した、

「彼女は妊娠しています、」

「えっ、妊娠・・」

「部長、覚えがありますよね、」

「な、何を言うんだ君は、私は何もしていないぞ、」

「部長、顔色が変わりましたね、言い逃れはできませんよ、岡君から全てを聞きました、」

「何を言っているんだね、証拠があるのかね、」

「ありますよ、主任の山木さんが全てを話してくれました、貴男から岡君を部屋に連れてくるように頼まれたことも、岡君に睡眠薬入りのウィスキーを飲ませたことも、貴男は山木主任を係長試験に推薦することを条件にそれを指示したそうですね、」

「い、いや違うんだ・・あれは自由恋愛だよ、私は岡君に好意を寄せていてね、私は昨年離婚したからね、恋愛するのは自由だ、とやかく言われる筋はない・・」

「貴男がやったことは准強姦です、立派な犯罪です、」

「な、なにを言いだすんだね君は、」

「全てを警察に話しましょうか、天下の美生堂の営業部長の悪行となればマスコミも大いに騒ぐだろうな、」

「違うんだよ南課長、岡君の方から誘ってきたんだよ、私に好意があるみたいでね、そうだ・・結婚しよう、責任をとって結婚すれば問題ないよね・・」

「ふざけるなっ、黒崎っ、岡君はお前をゴキブリのように嫌っている、そんなことが承諾できる訳ないだろう、」

「ど、どうすればいいんだね・・」

「まずは会社を辞めてもらう、そして退職金の全てを岡君に慰謝料として献上しろ、それが嫌なら警察だ、お前は犯罪者として残りの人生を蔑まれながら生きていくことになるぞ、」

「考えさせてくれ・・」

「だめだ、即答しろ、」

「分かったよ、とにかくこのことは内密に頼むよ・・」

(これで嫌な黒崎はいなくなる、部長の席が私に廻ってくるチャンスとなれば一石二鳥だ・・)


 翌日、黒崎部長は辞表を提出し、誰一人見送れることなく逃げるように美生堂を去っていったのである。


「山木主任、筋書どおりに行きましたね、」

 岡 友美は山木主任と二人、豪華なレストランでワインを傾けている。

「ちょろかったでしょう、嫌な黒崎を始末できたし、お金も手に入ったし、貴女の名演技と、南課長のお人の良さのお陰だわね、」

「そうですよね、睡眠薬入りの水割りは主任が素早く黒崎のグラスと入れ替えて、知らずにそれを飲んだ黒崎は朝まで眠りこけてましたものね、」

「そしてベットの隣ですすり泣く貴女の声で、黒崎はお目覚めをし、一人勘違いをした・・」

「はははっ、男って本当馬鹿ですよね、主任、お金何に使います?」

「とりあえずセルメスのバック買って、海外旅行にでも行こうかな、友美は何に使うの?」

「私は洋服です、じゃんじゃんブランド物買って、キラキラに着飾って、街をしゃなりしゃなり歩くの、いい男探しですよ、」

「いいわね、私も男見つけなくちゃね、もう30だし、」

「社内にいないんですか?」

「美生堂の男って育ちは良さそうだけど、野性味にかけるのよね、なんかね、南課長がもう少し若ければ考えてもいいけど、」

「課長、結婚してますよ?」

「関係ないわよ、取っちゃえばいいんだから、」

「略奪婚ですか、すごーい、」

 二人は分厚いステーキを頬張りながら盛上がっている、肉の油で唇がドロドロに光っていた。


「南君、就活そろそろ追い込みにかからないとヤバイぞ、」

 就職課の上杉は相談窓口でニコニコと微笑みながら話している、

「上杉さん、お幾つになられました?」

「なんだい、藪から棒に・・32だよ、」

「そんなに若かったんですね、」

「君より10歳も上だぞ、変なやつだな、」

「そうですよね、はは・・」

 就職課を訪れる学生は随分まばらになってきている、就活の時期は終わりにさしかかっていた。

「あのな南君、個人的にお勧めの会社があってね、これなんだが、」

 上杉は白い会社案内のパンフレットをカウンターにさしだしている、

「美生堂と言う会社だ、中堅の化粧品メーカーだけどね、とても将来性のある企業なんだ、ほらシルクファンデーションって言うCM見たことがあるだろう、」

「はい、空野 さゆりがモデルをしてるCMですよね、透明なファンデ・・とかなんとか・・」

「うん、その会社だ、とにかく商品開発力があってね、今はまだ中堅の化粧品メーカーだけど将来必ず躍進すると僕は見ているんだ、うちの学生はとにかく大手志望だけどね、こうした中堅企業で頑張ってみるのもいいと思うんだよ、アポとっておくから、とにかくまずは会社訪問に行ってきて欲しいんだ、」

「はい・・」

 上杉は以前は学生課の職員で、空手部時代は随分と世話になった、足りない部費の工面をしてくれたり、部員が街でチンピラに絡まれ怪我をさせてしまった時も体を張って部員と部を守ってくれた。恩のある彼の申し出を断る理由は見つからなかった。

(ははっ、いよいよ美生堂とご対面か・・この頃はまだ中堅メーカーだったんだよな、ほんの20年そこらで大躍進し、業界NO.1の地位を不動のものとした、業界の奇跡として今も語りつがれているんだよな・・まっ、形ばかりの会社訪問をしたらすぐに帰ろう、入社したら地獄の未来が待っているだけだ・・)


「南さん、」

 懸命に商品補充をしている背中に、若い女性の声が呼びかけている。両手に商品を抱えたまま振り向くと、北村 瞳が首を傾げて立っていた。白いワンピース、清楚な姿がいやに似合っている。

「北村さん・・」

「ふふっ、コンパ以来ですね、」

 笑うと、エクボが少女のように愛らしい、

(妻にもこんな笑顔の時期があったんだ・・)

「まだバイトしているんですか? 就職は決まったんですか?」

「いや・・まだなんだ、うん、でも来週会社訪問に行くつもりだから・・」

「そうですか、」

「君の方はどうなんだい、勉強大変だろう、」

「まあ、順調じゃないけど頑張ってますよ、」

「そう・・・」

 楽しそうにインスタント売場を眺めている、

「カップ麺って売れてます?」

「いや、袋麺に比べると値段が高いからね、いまいちだな、」

「将来は売場の殆どがカップ麺になると思いますよ、カップ麺は確かに袋タイプより高いけど、必ず売れるようになるわ、」

「なぜだい?」

「時代の流れですよ、女性がもっと社会で活躍するようになるし、忙しい毎日の中で人々は時間にさらに価値をみいだすようになるわ、カップ麺はお湯を注ぐだけで、3分で食べられるし、食器を汚す必要もない、少々高くても時間の節約を考えるとニーズは高まると思うの、」

「ふーん・・」

(やはり鋭い女性だ、彼女の予言通りになる・・水上さんも同じような事を言っていたな・・)

「あのー、なんで連絡くれなかったの?」

「連絡?」

「コンパの後、南さんからのお誘いを待っていたのに、二か月待ってもこないから、私が来たの、」

「はぁー・・」

「今度の日曜日、遊園地に行きましょう、はい、これチケット、10時に南門の前で待ってるわ、じゃねー、」

 青いチケットを手渡すと、白い手を振りながら走って行った。

 彼は走り去る後ろ姿を茫然と眺めている、健康的に弾む肢体が、何故か眩しく見えた。。


 晴天の日曜日、空が蒼い。

(なんで遊園地なんだよ・・なんで俺は断らなかったんだよ・・なんで妻と?デートなんだよ、まずい展開じゃないか・・・よし、今度こそとことん嫌われてやるぞ、食事の時に屁でもこいてやるか・・・)

 南門の前は早、行列ができている。若いお父さん、お母さん達に手を引かれた3〜5歳前後の可愛い盛りの子供達がはしゃぎ廻っている。

(可愛いな、娘の友里もあのくらいの頃は煩わしいくらいにまとわりついてきたものだった、遊園地や動物園にもよく行ったな、抱っこした時のミルク色の匂いと、マシュマロの様な小さな手の感触、首にしがみついてくる仕草、それは宝物以外の何物でもなかった、)

「南さん、なにをぼーっとしてるの、」

「あっ、北村さん・・」


『お待たせしましたー、開園しまーす、』

 揃いの赤いポロシャツ姿の元気な若いスタッフ達が大きな扉を開いている、遊園地のキャラクター達が盛んに手招きをしている。

「さっ、行きましょう、南さん、」

「ああ・・うん・・」

「ああーいいなぁーこの感じ、非現実的でワクワクするわ、」

 北村は子供のようにはしゃいでいる、

「ねっ、ジェットコースターに乗りましょう、」

「えっ、ジェット・・コースター、」

「なに、南さん怖いの?」

「な、なに言ってるんだい、あんなもの・・」

「じゃ、乗りましょう、」


 必死にしがみついていた、頭の上に地面が現れ、足の下に空が現れた、隣では北村 瞳が訳のわからない言葉で叫んでいた。


「楽しかったねー、」

「うん・・そうだね・・」

 まだ目が回っている。

 その後、いくつか乗り物のハシゴをし、気がつけば昼過ぎになっている。

「北村さん、何か食べようか、バイト代入ったばかりだからなんでも奢るよ、」

「うん、あのね、私お弁当作ってきたの、一緒に食べましょう、」

「ああ、そう・・」

 大きなテント屋根の休憩所では大勢の家族達がお弁当を広げている、たまたま二人用の小さなテーブルが空いていた。

「どうかな、お口に合ったらいいんだけど、朝早く起きて作ったのよ、」

 彼女は次々とカラフルなタッパを開いている。大きなおにぎり、鳥のから揚げ、卵焼き、肉じゃが、ポテトサラダ、アスパラの肉巻き、海老フライ、どれも南の大好物である。

(妻は、瞳はこんなに料理ができだんだ・・)

「どう、美味しい?」

「うん、美味いよ、どれも私の大好物だよ、」

「本当、良かった。あのね南さん、年上の彼女がいるって言ってたでしょう、」

「えっ、彼女?」

「コンパの時言ってたじゃない、29歳の上司、」

「あ、あれね・・」

「嘘でしょう、」

「な、なんで・・」

「女ってね感が鋭いの、男の人の嘘はすぐに分かるのよ、」

「・・・・」

「南さんってさ、嘘言うとき耳に手をやる癖があるの知ってる?、」

(えっ、そうなんだ、知らなかった・・ひとまず話しを変えよう・・)

「あのね北村さん、例えば自分の未来が分かっているとしたらどうするかね、例えば30年後とか、」

「具体的には?」

「あー、例えば北村さんが家庭を持っててだね、ご主人や、子供と会話もないような冷たい家庭でね、そんな時過去に戻ってやり直したいとか思わないかね?」

「思わないわ、」

「どうして?」

「やり直せる人生なんてつまらないもの、例えやり直すことが出来ても、形は違ったとしても結果は同じになるような気がするわ、今は上手くいってなくても、先は上手くいくかもしれないし、それでも上手くいかないとしたら、原因は自分自身にあると思うの、それを気づかせる為になにか大きな力が教えてくれてるんだと思うわ、私は上手くいく人生より、悔いのない人生を送りたいわ、」

「悔いのない人生かね・・」

「家族ってさ、いてくれるだけでいいと思うの、無理して話さなくてもいい関係こそが本当のコミュニケーションじゃないかしら、他人だと

 そうはいかないでしょ、」

「うーん・・、じゃさ、希望の会社に入れたんだけど、実際は派閥争いと足の引っ張りあい、ノルマ主義の世界で嫌になったとしたら?」

「私、お勤めしたことがないから分からないけど、何か他にやりたいことがあるとか、どうしても自分に合わないと思った時はすぐに辞めるわ、会社なんて幾つもあるし、自分が本当にやりたいことをするのが人生だと思うから、でもそうでないとしたら戦うわ、派閥とかノルマとかと戦って勝ってやる、そして私自身でその会社を変えるの、」

「いやー、そんな簡単にはいかないんだよ・・」

「そうでしょうね、でも自分で選択して入った会社なら、泣き事いうより私なら戦うわ、人生って結局選択の連続じゃない、そしてその選択は自分でしてるんだから結局責任は自分にあると思うの、何かのせいにするのは違うと思わない、」

「うーん・・まぁそうなんだが・・」


「淳、早いな、」

「そうかね、もう7時だよ、私は6時には起きるからね、」

 加藤 修はボサボサの頭を掻きながら、食堂に降りてきた、

「今日は例の会社訪問か、おまえスーツ似合うよな、なんか着慣れてるって感じだな、」

「まあ、もう30年毎日着てるからね、」

「えっ、30年がどうしたって?」

「い、いや加藤君、就活の方はどうかね?」

 加藤は山盛ご飯に味噌汁をかけながら、ため息をついている、

「全然駄目だ、このままじゃ就職浪人だよ、」

「そうか、焦らずに頑張ることだよ、あー、とにかく証券会社はやめたまえよ、」

「おまえ何でそれにこだわるんだよ、それより今日行く会社どこだっけ?」

「美生堂と言う化粧品メーカーだよ、」

「美生堂? なんだまだ小さな会社だろ、」

「とりあえず、上杉さんの紹介だからね、足だけは運んでおかないとね、」

「ふーん、できるだけ大手に入った方がいいぜ、安心だからな、」

「まぁね、入る気はないからね、」


 上杉が書いてくれた地図を片手に川のほとりを歩いて行く、

(このあたりだったんだがな、もう30年も前だから記憶が薄いな、うん・・あれか、)

 白い3階建ての小さなビルが見えてきた、

(あれだ、30年前の美生堂の本社だ・・こんなはずれにあったのか、今や大手町に移転し摩天楼のようなビルになっているのに・・)

 駐車場には白い営業車が僅か5台停まっている、作業着姿の老人が盛んにそれらを長いホースで洗車している。

「あのー、すみません、東都大学の南と申します、会社訪問に来たのですがどちらから入れば良いでしょうか?」

「おお、聞いてるよ、私が案内しますよ、ちょっと待っててくださいね、」

 老人は長いホースに足を捕られながら急いで片づけている、

(掃除の小父さんかな・・)

「今緊急の会議中でね、総務部長の代わりに私が案内しましょう、」

「はい・・」


 一通り社内を案内してくれた後、老人は1階のトイレの傍にある小さな部屋に通してくれた、

(掃除の小父さんの休憩室かな、とりあえず会社訪問はしたし、そろそろ帰ろう・・)

「うちは総合化粧品メーカーでね、今はまだ小さいけどやがては業界NO.1になるつもりだよ、」

 掃除の小父さんは薄い番茶を勧めながら、ニコニコと微笑んでいる、

「君はなんの為に就職するのかね?」

「えっ・・それは生活の為と、社会人として立派に生きるためです・・」

「働くと言う事はね、何かに貢献すると言うことだ、役にたつと言うことだよ、仕事に貴賤はない、何かに、誰かに貢献し、役にたつことが仕事の醍醐味だよ。私はね、"美と言う幸せ"を世の中に配りたいんだ、全ての人に"美と言う幸せ"を提供したいんだよ、」

「はぁ・・」

(なに言ってんだか・・この爺さんは・・)

「君は化粧品には興味があるかね?」

「ええ・・まぁ興味と言うか・・少しは知っています・・」

「シルクファンデーションは知っているかね、」

「はい、もちろんです、爆発的に売れましたね、」

「いや、まだ発売したばかりだからね、でも手ごたえはあるんだよ、次はね、これまで業界になかった全く新しいタイプの口紅の発売を企画しているんだ、なかなかアイデアが出なくてね、今もその開発会議をしている最中なんだが、君なんかアイデアがないかね?」

「えっ、あー、あの、口紅って色々なカラーがありますよね、消費者としては色々なカラーを楽しみたいと思っているのではないでしょうか、特にTPOによって自在のカラーを楽しめたらって、ただ口紅は安くはありませんから、何本も購入するのは難しいと思うんです、そこでレギュラータイプの半分の大きさの口紅を作って価格を半分にすれば、お客様はより多くの口紅を楽しめると思うんですが・・」

「半分の口紅か、ハーフリップかね・・」

「はい・・」

「それだっ、」

 老人は大きく手を叩くと部屋を飛び出して行った、

 3つ上の姉が、母親と口紅の話しをしていたのを、たまたま思い出しただけである。

 ドンドンドンッ、ものすごい勢いで老人が帰ってきた、

「君、南君、お手柄だ、ハーフリップの開発に皆んな乗り気だよ、いいアイデアをありがとう、ハーフリップはレギュラーの半分の容量で価格は3分の1にしようと思うんだ、そうすればお客様はレギュラー1本分の価格で3本のカラーを楽しめる、いいだろう、」

「あっ、いえ・・採算は取れるんですか?」

「取れんだろう、いいんだ、まずはお客様に喜んでいただくことだ、君、我社に来たまえ、」

「えっ、まだ入社試験も受けてませんし・・」

「かまわん、東都大学の学生にいまさら筆記試験でもないだろう、面接は今終わった、なんか知らんが君が気にいった。直感だよ、私は直感を大切にするんでね、」

「おーい、河合君、内定通知書を今すぐに作ってくれ、すぐにだよ、」

 老人はせわしくドアを開くと、事務員に声を飛ばしている、

(この人は・・・)

「社長、内定通知書ならもう出来ていますよ、」

「おお、早いね、さすが河合君だ、」

「今年は新入社員を20名は取ると社長が豪語されていましたので早めに作成しておきました、後は内定者の名前を書いていただいて、社長の印鑑をおしていただくだけですわ、」

 河合と呼ばれる若い女性事務員は賞状の様な上質の紙片を微笑みながら老人に手渡している、ちらっと南に目をやった瞳に妙な色気がある。

「うん、ありがとう、」

(社長・・って・・このみすぼらしい老人がか?・・)

 何もない社長室?ではCMモデルのポスターだけが華やいでいる、

 老人はミカン箱のような小さな机で懸命に筆を動かしている、小さな机から大きな社長印を取り出すと、"どーん"と押した。

「ははっ、みすぼらしい部屋だろ、これでも一応社長室なんだ、社長はね一番みすぼらしくていいんだ、その分社員には少しでも良い物を与えることが出来るからね、さっ、これ、」


 まだ暑さが残る狭い部屋で一切れの紙を見つめている。

(内定か・・)

(変えなければ、瞳と結婚せず、美生堂にさえ入らなければ私の人生は大きく変えられるんだ、なんとしても変えなければ、今こそやり直すチャンスだ、どんな手を使っても・・)


 いつもの酒楽亭の2階で、水上 早苗と飲んでいる。

 最近よくお誘いがかかる。

「淳ちゃん、就活はどうなの?」

「ああ、一社だけ内定を貰えたんだがね、行く気はないよ、」

「どこの会社?」

「美生堂、」

「あー、知ってる、シルクファンデーション私使ってるの、薄付で素肌感覚なんだけど、カバー力があって化粧崩れしないのよ、」

「でも、小さな会社だよ、」

「ううん、美生堂は必ず大きくなるわ、私の直感だけど、」

(凄いななんで分かるんだ・・)

「いや、とにかく気が進まいんだ、」

「そう・・そうだ淳ちゃん、デニーに入らない? デニーなら東都大学卒でも不服はないでしょう、本部の人事担当が私の大学の先輩なの、私から話しをしておくわ、」

「えっ、そうかね・・」

(悪くない話だ、大手スーパーのデニーに入れば歴史は変わるぞ、・・いや・・デニーは確か倒産するんだった、でも雑貨部門だけは外資に吸収され、今も生き残っている、美生堂に入るよりはいいか・・)

「今度、履歴書と職務経歴書を持ってきて、」

「うん・・、その後、池田さんとはどうなっているのかね?」

「相変わらずよ、なんか彼って神経が細いのよね、ため息ばかりついて、奥さんにも私との件がばれているみたいなの、北の方に旅しようとか、なんか面倒臭くなってきたわ、」

(池田は奥さんとの離婚騒動に疲れきり、水上さんに旅先の旅館で大量の睡眠薬を飲ませると、無理心中を図るんだ・・)

(そうだ・・・)

「水上さん、池田なんて止めたまえ、必ず君が不幸になる、僕と付き合ってくれ、結婚を前提に、付き合って欲しいだ、」

「えっ、何っ、急に、淳ちゃん酔ってるでしょう?でも本気にするよ、」

「いや、酔ってない、私は君がずっと好きだったんだ、」

「私も淳ちゃんが好きよ、でも七つも年上よ、いいの?」

「うん、いいよ、全然問題ないさ、」

(これでいい・・水上さんと結婚、デニーに入社、これで私の人生は大きく変わるぞ、一石二鳥だこれでいい、新たな人生のスタートだ、いつの間にか、瞳と付き合いだしていたが、これを機に別れよう・・)


 キャンパスのベンチに佇んでいる。すっかり冷たくなった風が頬を撫でていく。

 水上の口効きのお陰で、無事デニーから内定を貰うことができた。

(何もかもが上手く言ってるな、二度目の人生こそが私の本当の人生なんだ・・)

「南さん、お久しぶりです、」

「えっ・・」

「以前コンパでお会いした文学部の秋山です、」

「ああ、あの秋山さん、漫画が好きな、」

「ふふ、覚えてくれていたんですね、ところで南さん、北村さん先週から休学しているの知ってますよね、」

「えっ、休学・・」

「あれっ、北村さんと付き合っているのに知らないんですか、」

「うん・・まぁ・・」

「なんか体調を崩したらしくてしばらく休学することになったんです、九州の実家に帰るって、」

「そう・・」

(どおりで連絡がなかったはずだ、体調って・・まさか私のせいか・・いやまだ水上さんとの結婚の件は話してはいないし・・九州か、遠いな、まっ、いいかこれで面倒な別れ話しをしなくてすむよ、良かった・・)


 年が明け春、キャンパスの桜並木は満開を誇っている。

「淳、いよいよ明日は卒業式だな、」

「ああ、」

「これから俺達は社会と言う荒波に漕ぎ出すんだよな、」

「うん、修、いいか体調を壊すようなことがあったらすぐに辞めるんだぞ、会社なんか幾らでもあるんだからね、命が一番大切だよ、」

「ははっ、お前最後まで俺が証券会社に入るの反対なんだな、」

「うむ、今も反対だ、」

 結局、加藤は父親の親友のコネで証券会社に入社することになった、彼の未来が分かっていてもこれ以上彼にはどうすることも出来なかった。


 デニーに入社して早3年が過ぎていた。30年後までの市場変化を知っている彼は次々と経営戦略を提案し、ことごとくそれは大成功を収めていく。そして今、若くして本部経営戦略室 経営戦略課長の椅子にいる。経営戦略室は社長の直轄組織で、社員の人事権を始め、デニーにおける多くの権限を持たされている。

「南課長、君が考えた業態店は凄い反響じゃないか、お陰で上からお褒めの連続でね、室長としても鼻が高いよ、」

「いえ、全ては埼野室長のお陰ですよ、業態店はとにかく高くても良質の物を提供する店舗です、薄利多売の時代はもう終わりますからね、」

「そうか、君は先を読む力があるからね、冗談抜きに将来は重役の椅子が待っていそうだね、」

(ふっ、私が狙っているのは社長の椅子さ・・)

「とんでもありません、あっ、室長、商品部の人事を少し触りたいんですが、バイヤーさんたちの、」

「うん、なんか問題でもあるのかね?」

「ええ、交渉力が弱いと言うか、取引先に対して少し弱腰すぎるんです、いかに安く良質の物を仕入れてくるか、その為には取引先に対しての強い商談力が必要なんですが、なかなか出来てないんですよね、今回の業態店の仕入れ交渉も全ては私一人が紛争したような状況で、商品部の仕事まで請け負っていては他の仕事に影響してしまうんです、」

「分かった、人事リストを作成してくれ、社長に話して発令していただこう、」

「はい、宜しくお願いします。」

「それと君の提案の件、社長に許可をいただいた、来週の全国地区本部合同会議で発表してくれたまえ、」

「はい、ありがとうございます、」


 帝王ホテルの鳳凰の間には、全国40の地区本部から、本部長始め、総店長、店長、商品部のバイヤー達面々が揃っている、半期に一度の全国地区本部合同会議が始まっていた。

 社長、執行役員の訓示の後、南が指名された。

「えー、皆さん遠いところお疲れ様です、経営戦略室の南でございます。本日は重大な決定事項につきご説明させていただきますので、聞き逃しのない様お願い致します。

 今後市場は大きく変化してまいります、薬店はドラッグストアと言う業態が増え、薬だけでなく、日用品、さらには食料品、将来は生鮮3品まで幅広い商材を展開すると聞いています、またCVSはご承知の通りの躍進で、店舗数が限りなく広がっています、いづれも我々の強力なライバルとなるのは必死です。

 薄利多売時代は終わりました。今後デニーはさらに業態化を進め、高級感のある店舗、高単価、良質の商材を展開し、差別化を図ってまいります。

 今後業績の悪い店舗はどんどん閉鎖し、新たな店舗を出店してまいります。当然それに伴って地区本部の存在が必要がないと判断した地区は本部の直轄管理とします。今までは各店の販売状況を地区本部が管理してまいりましたが、来期からは本部が毎日直接一元管理してまいります、ITシステムの導入によりその体制は早出来上がっています。今後はリアルタイムで本部が業績を毎日チエックします。これを基に業績の悪い、地区本部、総店長、各店長、地区商品部のバイヤーさん達の人事もリアルタイムで行います、毎日辞令がでると思ってください。

 冗談抜きに、昨日まで総店長であった方が、次の日には店員として売場に立っていると言うこともありえます。これは本当にジョークではありません。今後はとにかく利益率を優先します、たまに各店を訪店すると、今だに売上のみで話しをする店長さんがいらっしゃいますが、今後こう言う方にはすぐに降りていただきます。全ては利益で話しをしてください。

 地区商品部のバイヤー各位に申し上ます。いかに良質の物を安く仕入れてくるかが商品部の仕事です、仕入先と戦ってください、友達関係のようなバイヤーさんがいますが言語同断です、デニーの名を使えば少々能力が無くても有利な商談ができる筈です。今後、本部商品部では全国展開の企画品だけを供給し、後は地区本部の商品部に仕入権限を委ねます。商品部の仕入能力が地区本部、各店の業績に大きな影響を与えますから心して商談を進めてください、」

(なんと言う心地よさだ、これだけの身分の大集団が私の言葉に釘付けになっている、夜の懇親会では揃って酌に来るんだろうな、何もかもが順調だ、いや、もっともっと高見の人生を目指すんだ・・)


「今朝からお熱があってね、風邪薬を飲ませて寝かせたんだけど、夜になっても下がらないのよ、」

「まぁ、単なる風邪だろうけど、明日になっても熱が引かないようなら病院に連れて行った方がいいな、」

「お食事は?」

「うん、懇親会で食べてきたけど、お茶漬けだけいただこうかな、」

「はい、じゃ先にお風呂入ってきて、」

「うん、」

 水上 早苗は南 早苗となって3年、良妻賢母の妻である、高級マンションの部屋は常にピカピカに清掃され、食事も手間がかけられており、品数も多い。特に母親から受け継いだ糠漬けは絶品で、これで流し込む茶漬けが実に美味い。娘の友里は可愛い盛りを迎え、幸せな家庭の時間が流れていた。

 滅多に頼みごとをしない妻が妊娠中に一つだけ彼にお願いをしてきた。

「あなた、もし生まれてくる子が女の子だったら、名前は私につけさせて欲しいの、いい?」

「あっ、うん・・いいよ、」

 そして女の子が生まれ、彼女がつけた名前は《友里》であった。

(単なる偶然さ・・前生? の娘の名前と一緒だなんて・・)


 南の徹底した改革により、デニーの業績は登調子であった。

(どうだ、これでデニーは倒産なんかしないぞ、私が私の力で歴史を変えてやるんだ、)

 各地区本部は常に緊張に震えていた、本部長以下、自分の身を守ることだけに必死になっていた、その圧力は水が下流に流れるように現場に注がれ、各店内は常にピリピリしている。

「いいか、各フロアー長は時間帯ごとの利益目標を確実に達成させるんだ、利益幅の大きい商品を全員で推奨するんだ、安物買いの顧客は相手にするな、優良客に接客を集中させろ、顧客が店を選ぶんじゃない、店が客を選ぶんだ、」

 いつしか各店の店長、そしてスタッフ達は数字の奴隷となっていった。


「木野係長、東店の業績がよくないな、本部のお膝もとの店舗がこれでは困る、店長は確か変わったばかりだったな、誰かね?」

「はい、池田店長です、」

「池田? 昔東店でフロアー長をしていた池田か?」

「はい、そうです良くご存じですね?」

「あっ、いや・・」

「三か月前にようやく店長に昇格して古巣の東店に配属となっています、」

「そうか・・ちょっと店舗視察に行ってくる、」

「課長、私もお供しましょうか?」

「いや、一人で行ってくるよ、」

 12歳年上の部下は揉手のような笑顔を作っている、


 店の駐車場にはゴミが散乱していた。

(なんだこれは・・)

 同様に入口も掃除されている形跡が全くない、うんこ座りをした若者達がたむろし、タバコの吸い殻を足で踏みつぶしながらツバを吐いている。

 店内は閑散としている、レジでは店員が私語に夢中になっている、お婆さんが商品の場所を聞いても、面倒気に手で指し示すだけである、突然バックヤードから出てきたワゴンがお客様と接触した、

「あっ、ごめんなさい、」

 お客様が謝っている、店員は舌打ちをすると、ふてぶてしい態度で通り過ぎて行った。

(な、なんなんだこの店は・・・)


 バックヤードに入ると、作業している店員に声をかけた、

「店長はいますか?」

「え、店長?2階の事務所じゃないかね、あんた誰だい?」

「君はアルバイトかね?」

「失敬な、正社員だ、フロアー長だ、」

「そうかね、本部経営戦略室の南だ、覚えておいてくれたまえ、社内報くらい読まないのかね、」

「南?・・・ま、まさか本部の南課長ですか失礼しました、2階に・・ご案内しましょうか、」

「けっこうだ、自分で行く、」


 ドアの内側から猥雑な話声が聞こえてきた、

「失礼する、」

 ノックもせずに中に入ると、池田が若い女性事務員の肩を猥雑な雑談とともに揉んでいる、時折後ろから抱きつくような仕草をしている、

「何をやっている、」

 二人は驚いて振り返った、女性事務員は外されたブラウスのボタンを素早くとめている、

「何をやっている、池田店長、いや池田っ、」

「あっ、いえ、南課長っ、今丁度休憩時間でして・・」

「こんな大切な時間帯に休憩か、ここはお触りバーじゃないぞ馬鹿か君は、もう話しをする気にもなれん、なんだこの店はっ、あなたに店長の資格はない、追って処分を言い渡すから覚悟しておけっ、」

「いやっ、待ってください、南課長、ようやく店長になれたんです、昔のよしみです、助けてください、」

「うるさいっ、すぐに駐車場と入口の掃除をしろっ、それからレジの私語をすぐに止めさせたまえ、ワゴンでお客様にぶつかっておいて謝罪もせず、舌打ちした男の店員がいる、探しだして厳重注意したまえ、しばらく店頭に出すな、倉庫整理でもさせたまえ、」

(あんな男と早苗は付き合っていたのか、過去の話しとはいえ、妻があんな男に抱かれていたかと思うと、憎しみと憎悪で、胸が張り裂けそうだ、徹底して思い知らせてやる、)

 荒々しくアクセルを踏むと、店の入口で急停車した。

「こらっ、小僧供っ、糞がしたかったら家でしろっ、タバコの吸い殻を綺麗に掃除しておけっ、いいなっ、」

 鬼のような形相で怒鳴られた若者達は唖然と南を見つめている。

(いかん、このままでは奴らを叩きのめしてしまいそうだ・・)

 逃げるようにアクセルを踏み込んでいた。


「南課長、さすがにこの辞令は厳しくはないかね、」

「いえ、室長、軽いくらいです、池田は解雇に値します、」

「そうかね・・」

 池田店長に発令される辞令には《デニー東日本倉庫、物流部、物流係》とある、そこに肩書はなかった。


「南課長、奥様からお電話です、3番です、」

「あっ、はい・・」

「私だ、どうした?」

『貴男、友里が検査入院することになったの、今病院なんだけど、』

「えっ、検査入院?いつからだい?」

「今日から・・」

「今日から・・医者はなんて言ってるんだ?」

「リンパが腫れててね、熱が下がらないの、頭がずっと痛いみたいなの・・」

「分かった、なるべく早く病院に向かう、心配しなくていいよ、」


 3日後、娘の検査結果を固唾を飲んで二人は聞いている、

「先生、検査結果はどうなんですか娘は大丈夫ですか、」

 言いにくそうな医師の表情に、彼は嫌な予感がした、

「ご主人、奥さん、娘さんは小児癌です・・」

「癌っ、」

 妻は叫ぶと、顔を押さえ倒れそうになった、

 妻を抱きかかえながら、南自身真っ青になっている、

「癌って・・先生・・娘の命はどうなるんですか・・僕の娘の命は・・」

「すぐにと言うことはありません、ただ・・もって18歳くらいが娘さんの寿命になると考えられます・・」

「18、18って・・先生・・人生の一番いい時期じゃないですか、なんとかしてください、なんとかしてください、僕の臓器でもなんでも使って下さい、金はいくらかかっても構いません、なんとかしてください、娘は私達の宝なんです、命なんです、」

「現代の医学ではなんとも厳しい状況です、とにかく娘さんが少しでも命を繋げられるように全力を果たします、」

 妻はただ号泣していた、


 仕事に全く身が入らなかった、ぶつけようのない悲しみの感情に支配されていた、

 そんな時、事件は起こった。


「南課長っ、大変だっ、南店で集団食中毒が発生した、惣菜を買って食べたお客様が次々と病院に運ばれているらしい、特に弁当を食べた小学生達が重症だそうだ、」

「食中毒?・・なんで・・とにかく急いで状況を見てきます、」

「うん、頼む・・」


 店は閉じられていた。保健所らしい職員だけでなく、警察までが詰めかけている。

「あの、すみません、デニー本部の者です、」

「関係者ですね、今査察中ですので中に入れる訳には行きません、」

「うちの・・うちの惣菜売場のチーフと話しがしたいんですが、」

「駄目です、隠蔽の恐れがありますからね、彼は警察で取り調べを受けています、」

「警察・・」


 事は重大であった。一週間も賞味期限の切れた惣菜の表示を改竄し、販売していたのである。詐欺行為であった。

 まるで連鎖反応のように、各地区本部、各店でも食中毒事件が発生した。マスコミは連日この事件と、この事件が発生した原因について報道し始めた。ワイドショーでは、顔と音声にモザイクをかけられた惣菜売場の店員がマイクを向けられ告白している、

「とにかく、利益目標を達成しないとフロアー長や店長に怒鳴られるんです、チーフの命令で廃棄する商品のラベルを貼り替えて販売しました。1時間ごとにノルマのチエックがあるんです、毎日が地獄です、もうこんな仕事はしたくありません、」

 食中毒が発生した店舗は一時的に閉鎖され、デニー本部は省庁から厳しい処分を受けることになった。

 この事件によりデニーの名は地に落ち、客は激減したのである。

 そしてさらに大事件が起きた。

 それはマスコミに対する1本のリークから発覚した。デニー各店で販売されている国産牛、国産豚、そして国産鳥の全てが、某国から激安で仕入れた物を国産と偽り、高額で販売していると言うのである。

 全国のデニー各店に一斉に査察が入り、事実が確認された。全ては追い込まれた本部商品部 部長の指示であり、犯罪であった。

 詐欺罪及び、食品管理法違反の容疑で社長と商品部部長が逮捕され、もはや営業どころでなくなったデニーは、民事再生法を受けるとあっけなく倒産したのである。雑貨部門だけが外資系企業に吸収され、デニー100円ショップとして今も存続している。

 どこから聞きつけたのか、各週刊誌の一面には、《名門デニーを倒産に追い込んだ、経営戦略室の若き傲慢課長!》の記事が大きく掲載され、ぼかし処理があるものの、南の写真が大きくトップを飾っていた。

 南に対するバッシングは熾烈を極めた、社内はもとより、自宅や妻に対しても執拗にそれは行われた。いたずら電話は夜中も鳴り響き、玄関には赤いペンキで(死ね)(殺してやる!)と言った落書きが散筆され、多数の脅迫めいた手紙でポストが埋め尽くされていた。

 妻の口数は減り、夫婦の会話はとぎれていった。


 経営戦略室の残務処理で、数日泊り込みだった彼が久しぶりに自宅に戻ると、1枚の置手紙があった。

 離婚届けが添えられたそれは妻からの物であった。そしてそこには衝撃の事実が書かれていたのである。

(なっ、なんだって・・まさか・・・)


「そう・・友里は私の娘よ、」

 病室のベットで友里が小さな寝息をたてている、傍の椅子に北村 瞳が座っている。

 彼はただ愕然と立ちくしていた、

「昔私が、休学したの知っているでしょう、」

「うん・・」

「友里を出産する為だったの、友里は貴男との間に出来た子よ、」

「な、なんで・・」

「覚えがあるでしょう?」

「う・・、うんあるよ一度だけだったけど・・」

「水上さんは遠縁の親戚なの、子供の頃家が近かったからよく遊んでもらったわ、貴男がコンパの時、バイト先の女性とつき合っているって言ってたでしょう、だからデニーに見に行ってみたの、そしたら10年ぶりに水上 早苗さん、"さー姉ちゃん"と再会したと言う訳なの、それからはお茶を飲みに行ったり、ドライブしたり何時も一緒にいたわ、そんな時、私は妊娠した。同じ頃"さー姉ちゃん"にも赤ちゃんが出来た・・貴男のね・・"さー姉ちゃん"から貴男との結婚の事も全部聞いたわ、そして私は身を引いて一人で友里を産むことにしたの、両親には一年間ドイツに医療研修に行くと嘘をついてね、」

「そして、瞳は赤ちゃんを流産で亡くし、君に友里を育てさせてくれと頼んだんだね・・」

「そう・・悩んだわ、悩んで、悩んで・・でも友里の将来を考えると貴男と"さー姉ちゃん"の子供になった方が友里は幸せになると考えたの、ただ名前だけは私がつけさせてもらったの・・」

「知らなかった・申訳ない、辛い思いをさせてしまって、全ては僕が悪いんだ、人を不幸せにする天才だよ・・」

「友里の小児癌は私がなんとしても治してみせるわ、"さー姉ちゃん"も友里を返してくれるって了解してくれたの、」

「お願いします、僕は何もかも無くしてしまった、今は友里だけが支えなんだ、いてくれるだけでいいんだ、頼みます、友里を助けてあげてください・・」

「うん、任せて・・」


 川のほとりで新聞の片隅の記事を見つめている、北国の温泉宿で睡眠薬を飲み、無理心中を遂げた男女の記事が載っている。女性の方はもと妻の水上 早苗、男性の方はもとデニーの池田であった。南の作成した辞令を交付された池田は鬱病になり病院通いの日々を送っていた、偶然にもその病院は友里の入院している所であり、心を疲弊させきっていた水上と池田の再会は、一瞬にして二人を昔の関係に戻していたのである。小心な池田は一人で死ぬのが恐く、無理やり水上を巻き添えに心中を図ったのである。

 ふと目をあげると岸の向こうに白い美生堂のビルが見える。

(何もかも失ってしまった、やり直すはずだった人生は随分悲惨になってきたな・・もう私には生きる気力さえ残っていない・・)

「ハーフリップは空前の大ヒット商品になったよ、君のお陰だ、」

「えっ、」

 振り返るとそこには美生堂の社長が作業着姿で立っている、

「社、社長・・」

「三年ぶりかな、」

「すみません、ご無沙汰しています・・」

「本当だよ、内定だしてから三年も待たせてくれた社員は始めてだよ、」

「社員?・・私を美生堂に入れていただけるんですか?・・」

「私と一緒に営業車の洗車から始めてもらうよ、いいかね?」

「は、はい・・お願いします・・」

「南君、人は生きているんじゃないんだ、生かされているんだ、なにか大きな力にね、どんな世界でも成功している人間は必ず《金の看板》を持っている。人に嫌われようが失敗しようがその《金の看板》を支えに生きている、私はこれまで何度も事業に失敗し、ドン底を味わってきた、業績をあげることだけが仕事と考えていた。そんな時ある人が教えてくれたんだよ、《金の看板》の存在を、」

「《金の看板》って何ですか?」

「何かの、誰かの役にたちたいと言う、人それぞれの看板さ、君も見つけてごらん、《金の看板》を、そうそう、私は三年前君に美生堂を業界NO.1にすると話したよね、あれは売上のことではないんだ、《"美と言う幸せ"をお客様にお届けするNO.1メーカーになる》、これが美生堂の《金看板》なんだ、」

「はい、」


 一年が過ぎた。

 彼は毎日、毎日、営業車の洗車と雑用係をしていた。最初は営業車を洗うだけであったが、いつしか車内も丁寧に掃除をするようになった。

 灰がこぼれそうに満タンになった灰皿、おにぎりやパンの包装物が無造作に転がっている。

(忙しくて、昼食を採る暇もないんだな、営業の仕事は大変だからな、無理をせず頑張って欲しいな・・)

 タイヤの点検をし、摩耗した物はすぐに取り換えた、車の窓は特に念入りに掃除し、営業担当達が事故を起こさないようにと気を配った。

 作業着はいつも泥だらけである。

「南さん、いつもありがとうございます。すみません、社内まで掃除していただいて、少しは綺麗にするように努力します、」

「ははっ、いいんだよ、忙しいんだろう。タイヤずいぶん減っていたから交換しておいたからね、」

「すみません、助かります、気になっていたんですけど交換する時間がなくて、」

 新入社員の小山は、まだあどけない笑顔をしている、

「昼はちゃんと食べてるかい?」

「時間がもったいなくて、車内でおにぎりとかパンですよ、皆んなそんな感じです、」

「そうかい・・」


「南君、どうかね、清掃や雑用は?」

「いやー、楽しいですよ皆んなが喜んでくれるので、やりがいがあるんですよね、」

「そうか、君も《金看板》が見えてきたようだね、」

「南君、辞令だ、」

 社長は黒いお盆に乗った小さな紙片を手にとった、

「南 淳、本日付をもって本社営業戦略室、室長を命ず、」

「えっ、営業戦略室・・」

 戦略室・・二度と思い出したくない響きであった、

「社長っ、待ってください、私は前職で経営戦略室の課長を務め、デニーを倒産に追い込んだ罪人です、私にそんな大役はできません、誰もついてきてくれませんよ、」

「大丈夫だ、今のところ一人だ、君一人だ、営業戦略室 室長兼メンバーは君だけだ、」

「いや、しかし・・」

「社長命令だ、」

「はあ・・」

「明日から洗車と雑用は終了だ、そんな暇はなくなる。今月一杯で提案書を作成してくれ、来月の本社合同会議に間に合うようにね、」

「えっ、な、何の提案書ですか?」

「うん、美生堂は急激に大きくなっている、今私が気がかりなのは営業担当や美容社員達が売上目標を競い合うように追いかけ始めたことだよ、」

「えっ、いいことではありませんか?」

「南室長、美容社員が売上を追いかけるとどうなるかね?」

「え・・売上はお客様が買って下さることによって拡大しますから、お客様が当社の商品をより多く使っていただけるようになります、」

「違うね、理論的にはあっているが、売上だけを追いかければ、美容社員達はお客様に必要のない商品まで奨めてしまう、いわゆる鏡台在庫と言うものができてしまうんだ、これは美生堂の《金看板》とは反する行為なんだよ、営業担当しかり、売上だけを追いかければ担当店に必要のない不良在庫を抱えさせてしまう結果になるんだ、店の経営を圧迫する行為だ、断じてやってはならないんだ、君に作って欲しい提案書はこれらを全て禁じる、営業戦略だ、それを考えてくれ、今月一杯だぞ、」

「そ、そんな難しい提案書・・」


「仕事の方はどう?」

「うん、まぁね、社長から至急の仕事を頼まれてね、しばらくは病院に来れなくなりそうなんだ、友里の容体はどうだい?」

「いいわ、バイタルの数値もいいし、絶対に治してみせるわ、」

 仕事を終え病院を訪れる時間には、娘はいつも眠っている。

「友里さえ元気になってくれたら僕はもう何もいらないよ、頼みます、」

「貴男こそ無理しないでね、時々友里が「パパはいつ来るの、」って聞くのよ、友里にとっても貴男が支えなのよ、」

「うん・・、あのね、医者の目標ってなんだい?」

「なに急に、まぁ、出世が目標の人もいるけど、人の命を守ること、それに尽きると思うわ、」

「シンプルで明解だね、」

「うん、そうよ、正しい事ってシンプルなのかもしれないわ、」


 社長室兼、営業戦略室での徹夜が始まった。

(正しい事ってシンプルって北村さんが言ってたな・・社長の思いもそう言えばシンプルだよな、美と言う幸せを配って、お客様の役に立つか・・)


 数週間が過ぎた、提案書と格闘する中でも彼は営業担当達の洗車だけは続けていた、早朝に出社し、ひたすら車を洗う、なぜか心が洗われていくような爽快感があった。

「出来たな、よく頑張ってくれた、これこそ私の意図する提案書だ。来週の本部合同会議だが、君には司会をしてもらう、頼むよ、」

「はい・・」


 本社合同会議が始まった。本社の役員を始め、各支店の支店長及び幹部達が顔を揃えている。

「それでは社長より、来期からスタートする新営業戦略についてご説明させていただきます、」

 久々のスーツに司会役の南は緊張気味である、

「まずは日頃のご精勤に感謝します、ありがとう。美生堂は今飛躍的に成長しています、ただ順調な時ほど謙虚に立ち返る必要があります、今から発表する新営業戦略は、今後我社の憲法となる戦略です、心して聞いて欲しい。

 まずは営業現場から目標を廃止します。営業担当、美容社員の売上目標を廃止します。」

 "ザワッ"、と会議室の空気がどよめいた、

「もちろん、目標の無い企業活動などありえないからね、今後営業担当の目標は、いかに販売店さんのお役に立てているか、信頼されているか、美容社員の目標はいかにお客様のお役に立てる接客が出来ているか、これが目標となります、具体的な目標設定と管理推進方法については後ほど南室長より説明してもらう。

 それから人事考課の件ですが、来期からは考課者を逆にします、部長の考課は課長がつける、課長の考課は係長がつける、係長の考課は主任がつけ、主任の考課は営業担当がつける、営業担当の考課は美容社員がつけ、そして美容社員の考課はお客様につけていただく。この件も詳細は公文を発状するので内容を熟知してください。今後は上ばかり見て仕事をしても何もいいことはないってことだね、いかに現場に向かってベクトルを走らせるか、部下の厳しい評価を受けないように、君達幹部は頑張らないとね、」

 またも、会議室の空気が大きくざわめいていた。

 社長の話は将来の美生堂の件も含め二時間に及んだ。その後、南も二時間の時をかけて新営業戦略の詳細な目標設定と管理推進方法について説明したのである。


 夜の懇親会は新営業戦略についての話題で盛り上がっていた。

「南室長、あまり奇抜なことを考えてもらっては困るよ、目標を無くすなんて、そりゃ現場は喜ぶだろうがねノルマが消えて、しかし現場を楽させれば必ず業績は落ちるよ、支店長としても手の打ちようがなくなるじゃないか、」

「いえ、東支店長、逆です、新営業戦略の新しい目標は今迄より遥かに厳しい目標になります、ベテランの営業担当や美容社員であれば売上を作ることは簡単です、しかし、販売店の信頼やお客様の信頼を勝ち得るということは実に大変な目標となります。それぞれが仕事上での《金の看板》を見つけ、掲げなくてはならないのですから、」

「《金の看板》?なんだね、それは・・」

「ははっ、社長にお尋ねください、喜ばれますよ、」

 懇親会も無事終了し、彼は病院に向かっていた。

(こんな時間だからな、友里はもう寝ているだろうけど、とにかく久しぶりに顔が見たい・・なんだか考えて見ると、前世?と同じ様な歴史になっているな、少し形が変わっているけど幹の部分は同じ感じだ。私は結局、美生堂の社員になったし、北村さんが産んでくれた友里がいる、そして水上さんにはやはり悲しい結末が待っていた・・・)

(まっ、待てよ、そうかっ、そうなんだっ、)

 彼は病院に向って駆け出した、


「パパっ、」

「あっ、友里っ、まだ起きていたのか、」

 彼は小さな体を抱きしめると頬ずりをした、暖かい感触、ミルク色の匂い、小さな手で私の顔を触っている、

「友里がね、パパが来るってずっと起きてたのよ、子供って直感が鋭いのかしらね、」

「あ、あのね、北村さん、友里は友里は大丈夫なんだ、きっと君が治してくれるんだよ、私はね、29歳の友里を知っているんだ、君と同じ医者になっているんだよ、うん、まだ研修医だけどね、大人になっても牛乳をよく飲んでね、後ろ姿なんか君にそっくりなんだ、」

「ふふっ、なんか見てきたみたいね、」

「うん、見てきたんだ、それでね、友里が元気に未来を迎える為には二人が結婚していないと駄目なんだ、だから・・だから私と結婚してください・・南 瞳になってくださいお願いします、君達が私の人生の《金の看板》だったんだ、やっと気づいたんだ・・」

「貴男の為じゃなくて、友里の為ならいいわよ・・・」

「本当かい、ありがとう、」

「その替わり、三つだけ約束して、」

「うん、なんでもするよ、約束するよ、」

「一つ目は、私は友里が元気になったら緊急医療の仕事がしたいの、夜家を空けることが多くなるけど許して欲しいの、二つ目は友里と話しをする時間を作って、友里は貴男と話したかったの、でも仕事で忙しそうだったから、遠慮しているうちに貴男を避けるフリを始めたのよ、三つ目はお腹の脂肪を減らしてください、目標80cm以下よ、今の貴男の体系を維持するのは無理としても健康の為にもお願いします、」

「うん、分かった、約束するよ、えっ・・・・・・・」


























































































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― 新着の感想 ―
[良い点]  どの道を歩んだとしても一長一短だと思います。すべてによくなる選択肢は存在しないのではないでしょうか? [一言]  時系列がわかりにくいです。
2016/08/30 15:11 退会済み
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