Project Mechanica #1 武神 建御名方神《タケミナカタノカミ》
Project Mechanica #1 武神 建御名方神
今より四〇年の昔、天正十年、私が十と五つの年のことであった。
浅間山より火の出た年である。
信玄公が死して後、勝頼殿は織田家の攻勢止めること叶わず、ついに甲斐の山々への侵攻を許した。時の流れは明らかに傾いており、東国の武家は遍く運命の決する日を待った。
そんな武家のひとつが諏訪の南、富士を望む山々の奥深く、八坂という所にあった。
家の名は八坂。家主の名は武重。長男の名は人一郎。それが私の家であった。
私の屋敷は湖のほとりにある。湖の名を彰神湖という。山深く湖のまわりは急な斜面であり、とても家を建てられる場所ではないのだが、我が屋敷は斜面にへばりつくようにして無理矢理に建っている。人家は湖から流れる川が落ち着く場所まで数理の距離を下らないと見えない。
屋敷の裏の斜面をさらに登ると、小さな神社がある。八坂家は仏を祀らず、神社を祀っているのである。諏訪の神を祀っていることになっている。その奥には洞があり、どんな者も神主さえ立ち入りを固く禁じられており、八坂家当主のみが入ることを許される。
父武重はその時、苦渋の決断を強いられていた。
織田の兵がついにこの山奥にまで到来したためである。直接に上がってきたのは二百ほどの寡兵であったが、麓の城は既に落とされ、武田方の陣はそのずっと向こうであった。八坂の村々は風前の灯火であり、救いの手は来ようがなかった。
周辺の侍たちは八坂家の山屋敷へ集まり、玉の汗を浮かばせて額を突き合わせた。集まった侍は十名余、槍を取れる村の男たちが二〇人余である。急峻な山で守り堅いが人少なく戦は難しい。降参すべきとの村の者の意見もあり、寄り合いは難航した。
刻限は差し迫っていた。翌朝、日が昇れば織田兵は再び山道を登りはじめ、昼頃にはこの山屋敷にまで上がってくると見られていた。
長老が言った。お館様はかつて五十の強者どもを神代の力を持ちて蹴散らし、武田家を助け、その功労で八坂の村々を封ぜられなさった。そのお力はかの信玄公をして恐れさせたもの。その武重様がいらっしゃれば織田の雑兵の百や二百恐ることはない。どうかその時のお力を再びお見せ下され、と。
壮年の侍が言った。武重様はお歳じゃ。単身で武重様に敵う男は甲斐信州を見渡してもおらぬであろうが、戦場の前に押し出で何十の侍と切り結ぶとあれば話が違う。また、たといお屋敷を守れたとても、この戦が長引くとき織田の兵が陣を構えるであろう下の村のことを思えば、疾く織田方に下るのが得策、と。
老人が言った。信玄公亡きとは言え武田家を裏切るとは言語道断。臆病風に吹かれた不貞の行為よ。
侍が言った。元々八坂家は諏訪家より武田家へ移り身した身の上である。武田家と心中する義理はありませぬ。御館様、どうぞご判断を。
父上は長く息を吐くようにすると、少し擦れた声で、うむ、と答えた。白いのが大分混じった鬚を撫で、肘置きに身体を預け、じいっと何かを考えるようにしていたのをよく覚えている。思い返してみれば、この時父上の巡らせていた考えはどれほど重きものだったことか。若き身の上では想像だにできぬ事であった。
長く張りつめた時間が流れた。
父上はまたひとつ大きく息を吐き、人一郎、来い、と言って静かに立ち上がった。私はそのとき円座に入らず隅で位を正していたが、はいと返事をし、父上について広間を出た。
父上は神事の時に着る白い斎服に着替え、二本の脇差を取り、屋敷の裏手に出た。新月であり、闇は深く山に垂れ込めていた。険しい参道を登り、鳥居をくぐりながら父上は私に話をした。
「八坂の家には重荷がある」
そう父上は切り出した。
「人一郎、お前には侍の在り方を教えてきた。武の在り方、剣を持つ者の責任、仁義礼智、勇、誠、忍耐。……お前には剣の才能こそなかったが、我が武士道は良く継いでくれた。晩年であれお前のような息子が生まれたことに感謝している」
きつい石段を、父上は息を切らせて登っていた。私は手をお貸ししようとしたが、その手は払いのけられた。
「人には過ぎた武というものがある」
はい、と私は答えた。幼き心ながら、その言葉が最期の言葉として発せられていることを感じとり、胸が締め付けられた。
「自らの手で刀剣を持ち、槍を携え、弓を構えるならばそれは人の道。餓鬼道に落ちようとも修羅道に落ちようとも自らの身ひとつで償うことが出来る。
だが人の身に過ぎたる武を振るうならば、それは王の道、いや神の道。自らの身のみならず数百、数千、いや数万の人々の生を肩に背負わねばならぬ。浮き世の全てを見続け、その趨勢に責任を持たねばならぬ。
人一郎よ、父にはそれが出来なんだ。父は過ぎた武の大きさに恐れを成し、人の道へ逃げたのだ」
「そんな、父君はご立派です。この乱世の中で村々を守ってこられたのですから」と、私は見当違いの言葉を発した。
「人一郎よ、儂は年老い、恐れに取り憑かれてしまった。もはや神の道に戻ることは叶わぬ。我が父も、祖父も、曾祖父もこうして衰える前に次代へと継いできた。今度はこの父に代わり、お前が八坂の武を継ぐのだ。いささか若すぎるが……若いことで示される道もあると父は信じたい」
父上は御柱の間を通り、拝所をぬけ、縄と鎖を渡し厳重に封じられた岩戸を大きな鍵を使い開いた。私はこの時、初めて洞穴に足を踏み入れた。
洞穴は一人ならば自然に歩けるほどの幅があり、広さがあった。父上は松明を持ち、ゆっくりと先を進んだ。
洞は長く、下っていた。私はこのまま行けば湖の下に潜ってしまうのではないかと恐れ、水が流れていないかと壁面を見た。後で分かったことだが、実のところ洞穴は湖の真下に繋がっていた。
かなり長い距離を下りた後、広々とした空間が開けた。
天井はご神木がすっぽりと収まるほど高く、同じくらい壁も遠い。地面は硬い岩盤で足が滑るほど清浄であり、向こう側は水を湛えており、湖と繋がっている。
そしてその水の中には、巨人[#「巨人」に傍点]が立っていた。
「武神、建御名方神。この地に人の住む遙か昔からここにおわし、八坂家が代々仕えてきた御神柱だ」
私は息を呑んだ。
それは大きく、荘厳であり、光を放っていた。見た事のない白い鎧甲を着、その足はどんな古杉よりも太く、胴は岩のように頑強で、絹の布で磨いたように曇りひとつなく美しい。
紛う事なき神であった。ただそこに在るだけで心を吸い寄せる神々しさ。冷たく、鏡を思わせる気の重み。肌に感じる神聖な光。
人の手によるものではあり得なかった。どんな巨匠であってもこのような像を造ることは叶わない。神の御技、いや、神そのものに違いない。
私は自然と膝をつき、平伏し、額を地に当てていた。
「元は諏訪の二柱であった。その大きな力を求める者は多く、道無き者に渡ることをよしとしなかった二柱は諏訪を出、彰神湖へと参られた。以来千年、ここに身を隠されている」
諏訪様のご神体と聞けば、この神々しさも納得がいくものだった。己が家系の大密事に私の足は震え、怯えた。
「顔を上げよ人一郎。お前はこれに平伏してはならぬ。八坂の家の者であれば、武神である建御名方神を正面から見つめねばならぬ。そのような教えをしてきたはずだ」
「し、しかし父上……」
「立ち上がれ。凛としていよ……。八坂刀売神よ」
父上がそう言うと、人が現われた。
女性であった。白い絹の衣に身を包み、漆のような髪を膝まで下ろし、暖かな光を身に宿している。
私はひと目で分かった。このお方もまた人ならぬ神であると。
「そちらが貴殿の息子殿であらせられますか」
と、八坂刀売神さまは仰った。
「はい。我が倅、人一郎に御座ります」
父上は平伏する私を引っ張り上げ、立ち居で礼をさせた。
「まだ若い少年ですが、良い心根を持っているようですね。このような新しき者に建御名方を託せることを嬉しく思います」
「勿体なき御言葉。……ゆるりとお話をしとうも御座いますが、戦が迫っております。つきましては……」
「ええ、織田の兵が里を囲んでいることは存じております。ならば急ぎ、継承の儀を執り行いましょう」
八坂刀売神がお手をかざすと、建御名方神の御前に八枚の新畳がどこからともなく現われ、静かに敷かれた。高い燭台が周りに置かれ、三宝の台が中心に据えられた。
父上は畳に上がり建御名方神の御前に座し、丁寧に拝した後、其神を背にした。そして脇差の一本を取って台の上に置いた。
私はその時になってようやく何が行われるかを悟った。
父上はもう一つの脇差を腰から抜き、私に差し出した。
「人一郎よ、此は建御名方神より賜りし鍵の宝剣である。これより片時も離さず身につけよ。お前に武が必要であるとき、此の宝剣を建御名方神に刺すのだ」
私は必死に震えを抑えながら、父上の言葉に頷きを返した。受け取った宝剣を脇に差し、自分の刀に手をやった。
「後のことは刀売神が教えて下さる。……介錯はできるな」
「……はい、父上」
私は刀を抜き、柄を握りしめた。白い上衣が帯元まで下げられ、台上の脇差しが抜かれた。短刀を握る父の手は震えひとつなく軽やかであり、目は鏡のように平常であった。
「武ありて 業成さざるは 戦国の世 剛なるかな 涜なるかな」
父の脇差が腹を横に掻いた。引き抜かれ、また上から下へと掻く。それが抜かれ、ゆっくりと下に置かれたのを見届け、私は父の首を落とした。
どうと言う音と共に血が溢れた。血の臭いが鼻をつき、若草色の畳地に鮮やかな赤が散った。
私は必死に凛としてようと努めた。おそらく、それを果たしたと思う。
八坂刀売神さまがまたお手をかざすと、大壷が現われた。父の身体は神力によって浮き上がり、座位のままその壺の中へと収められた。鮮血に濡れた畳が壷の上に乗せられ、父の腹を割いた脇差はその上に置かれた。
私はしばしそのまま呆然としていたが、濡れた刀を抜き身で持っていることに気づき、慌て様にそれを仕舞い込んだ。
刀売神さまは父上の壷を用の済んだものとして隅へと押しやったのち、私の目前にいらっしゃり、こう仰った。
「人一郎殿。これで鍵の宝剣は貴方の物です。同時に、私達、建御名方神と八坂刀売神は貴方と契りを結んだこととなります」
「は、はい……それは」
「貴方が操縦者[#「操縦者」に傍点]となったということです。これからお見せいたします。鍵の宝剣を抜いてください」
抜いてみると、宝剣の刀身は私の知っている刀とは大分違った。刃は付いておらず鉄の板であり、鍛える前の刀の素材のような形をしていた。だが鉄よりもずっと軽く、精緻な紋様が刻まれており、御影石のように美しく光っていた。
「それを建御名方神に刺すのです」
「刺す、とは……」
「手近な足先で構いません。刺し入れなさい」
立派な甲冑に刃も付いていない刀が刺し入れられるとは思えなかったが、神事であるから私に理解する必要はないと思い、言われるがままにした。巨大なご神体に近づくのは怖ろしく感じられたが、礼をしてから湖水に足を踏み入れた。水は浅く、膝ほどしかなかった。
足下から見上げるとその大きさは目眩がするようであり、鎧の足当てを履いた足だけでも私の背丈くらいはあった。間違いなく、どんな大仏よりも大きかった。
つま先の前に跪き、また礼をし、私は両手で丁寧に宝剣を構えた。八坂刀売神さまを見て手順が間違っていないことを確認した後、真っ白な甲冑に剣先を押しつけた。
予想に反して、四角い剣先は甲冑の中へと入っていった。柄まで飲み込まれて止まり、それに応じて鎧全体の光が強まった。
そして建御名方神が動き始めた。直立していたご神体は降りてきて、右膝を前にして跪いた。途方もなく重大なご神体と岩がぶつかる衝撃で地が揺れ、水が乱れた。さらに左の手が下り、私の前で掌を上にむける。
私は驚いて腰を抜かしてしまい、湖水の中で慌てふためき、平伏した。だが八坂刀売神さまのお手が私を制し、立ち上がらせて下さった。
「正面から見つめよと、武重が申したはずですよ」
「も、申し訳ありません」
神その人の手に触れてしまった私は恐縮し、平身低頭したが、そのお言葉をようやく反駁し思い直したため、おそるおそる背を伸ばして直立した。
「それで良いのです。さあ、掌に乗って」
私が大きな掌に恐る恐る足をかけると、八坂刀売神さまもまた体重が無いかのような軽やかな仕草でお乗りになった。建御名方神は再び動き、私達の乗った掌を胸の位置へと持ち上げた。
さらに、その胸の甲冑が上に持ち上がり、揚げ戸のように開いた。そこには想像したような逞しい胸はなく、肋骨が開かれ、臓腑がつまびらかになっていた。当然そこには醜い内臓があるだろうと考えた私はつい目を反らしたが、それがご神体であること、正面から見つめよという言葉を思い出し、私は意を決して目を見開いた。
肋骨の内側は予想に反し、機械仕掛けに満ちていた。鉄のような銅のような物できた沢山の工芸品が組み合わさり複雑な形を成し、暗い中でそこここに多くの光が瞬いており、私には祭壇か神棚のように見えた。
「入りなさい」
「……はい」
私は驚きを抑え目を見開き、一礼して言われる通りに従った。
中に足の踏み場は少なく狭い場所であった。機械仕掛けが無ければ五人は入れるものだろうが、節操なく組み合わさった部品が邪魔をした。
「椅子になっています。腰掛けなさい」
私はその意味がすぐには分からなかったが、よく見れば私が神棚だと思っていた所は身を納めることができそうだった。このように大きな椅子が西洋から渡ってきているのを見世物で見た事があり、それを思い出した。礼を失するとは思いつつ尻を向けて身体を納めると、左右にあるのが肘掛けであり、背にある屏風状の物にもたれることができると分かった。股の間に墓石のような物を挟むことになるが、身体が包まれるようで身体は至極楽であった。
「鍵の宝剣を正面の穴に差しなさい」
股の間にある墓石にちょうど宝剣が入るような四角い穴があるのは私も気がついていた。はい、となるだけ凛とした声で返事をし、鞘に仕舞ってあった宝剣を再び抜いてそこへ突き立てた。
同時に、内壁が鮮やかな七色の光を発した。星のような光も明滅する。音もし始めた。鈴の音とも虫の音ともつかぬ耳慣れない音、何かが回るような音がいくつも壁面から聞こえる。
そして揚げ戸が降り、臓腑の祭壇は閉じられた。
不安を押しやり、目を見開いてそのままで居ると、壁面が光を放つのをやめ落ち着いた。見えたものに私は目を疑い、反射的に壁面を手で触り、確かに壁があることを確かめた。それは信じられぬ事だが、外の様子を透かし見せる壁面であった。
『人一郎殿。左右の握り棒を掴みなさい』
頭の中に八坂刀売神さまの声が響いた。私は驚いたが、神様が夢枕に御言葉を賜るのは当然であり、ごく自然なことである。見れば、刀売神さまは持ち上げられた手の平の上から姿をお隠しになっていた。
左右を見ると、肘掛けの先の手をのばした先に確かに妙な形をした棒があった。握ると手に吸い付くようであり、こそばゆい感触を覚えた。同時に地面ががくりと揺れたため落盤かと焦ったが、透かし壁から見る洞穴の風景が少しずれており、建御名方神がまた動いたのであると分かった。
『よいですか。建御名方神は大きな操り人形です。操縦者である貴方がその棒を握っている間、思った通りそのままに動きます。恐れず、まずは動かしてみなさい』
「操り人形、でありますか」
異な事である、と私は思った。私のような神に仕える小さな武家の者が、偉大な諏訪の武神を操り人形とするなどとは。だが私は父の言葉を思い出し、無為な疑問を呈するのを辞め、刀売神さまの仰るがままにした。
手を上げよ、と私は念じた。だが建御名方神は動かなかった。口に出してもうまくいかない。次に私は握り棒を握ったまま、手を前に出すような想像をした。すると建御名方神の巨木のような美しい腕が動いた。体捌きの反動で肋骨の中も揺れ、確かに動いていることが分かった。
『よろしい。洞穴内で動作をしなさい。下稽古の時間を与えます』
それから後は容易かった。建御名方神は水から出でて、父上の死に場所とお体を穢さぬよう気をつけながら洞の中を自在に動き回った。建御名方神は走り、跳び、空手をすることができた。御神のご神体は私が自身でやるよりもずっと上手く動かれた。
『筋が良いですね人一郎殿。外に出ます。飛ぶことは出来ますか』
ぽう、と虚空に八坂刀売神さまが再び現われた。お体は浮いており、先ほど以上に光を放っていらっしゃった。
「飛ぶ、とは……」
『私のやるように、宙に浮いてみなさい』
刀売神さまはそう仰ってお手を大きく広げられた。
私は如何にすべきか悩んだが、御言葉を信じて同じように手を広げ、背筋を天から引っ張り上げられるような情景を思い浮かべると、建御名方神は容易く地面から離れた。
それを見て刀売神さまはよしとされ、
『外に出ます。ついてきなさい』
と仰られた。
そして建御名方神のご神体が元立っていた湖水の一番奥へと向かい、そこへ真っ直ぐに降りて水にお入りになられ、おぼろな光の点となってそのまま下へと沈まれていった。
地底湖は奥で彰神湖と繋がっている。私は刀売神さまのお光りを目印に同じように水へ入り、短い水道を抜けた。
彰神湖の底は深く、急峻な山肌がそのまま奥底まで下りている。その谷状の湖底を刀売神さまと私が動かす建御名方神の発する光が照らしだし、ゆっくりと湖面を目指して上がっていった。
水を出て虚空に浮かぶと、私は衝動のままに夜空を飛びまわった。建御名方神はいまや私の思うままに動かすことができた。その大きな力を自在に操ることができた。私は建御名方神となり、建御名方神は私となった。元々身体の強い方ではなかった私にとって、大きな身体を操ることはそれ自体至上の喜びであった。
恐らくはいかに屈強なる心根を持つ偉丈夫であろうとも、この猛烈な喜びには抗えぬことであったろう。父上を悩ませ続け老けさせしめた由縁というのも、大いなる神の力を振るうこの喜びに抗うこと難しきに一つの原因があった。いわんや幼き日の私が抗えようや。
私は御神の力を借り、夜空を飛び、山を駆け、無闇に林を薙ぎ倒した。それは未だかつて味わったことのない快感であった。このお力を借りれば、織田方の兵が山裾に何百居ようと恐れるものではないと感じた。
「この武神で、八坂家は戦を戦ってきたのですね。この神の武、自由に操ることができれば織田家との戦に勝てる……いや、天下すら容易に取ることが出来るのではないか……父上はなぜこれを……」
『八坂家の当主には、それが許されています」
刀売神さまはそのような物言いをした。
私は勢いのままに彰神湖から離れ、山を下り、織田の兵が野営しているであろう川裾まで飛んだ。刀売神さまはそのまま湖に残られた。
|御神は忍びのように静かに飛び、透かし壁から見る森は満月の夜よりもつまびらかであり、一団からかなり離れたところで寝転ぶ四人の侍を見つけることができた。
まずは手始めと私はそこへ降り立った。ずん、と重い音と共に周りの木々を巻き込み、土が浮いた。
四人は何事かと跳びあがり、建御名方神を見て腰を抜かした。
二人は慌てふためいて刀を抜き、一人は種子島を構えた。種子島が御神に向けられ、発砲した。軽い音がし、甲冑に鉛玉が跳ねた。小傷すら付くことはなかった。私には、どんな大筒とてこの御神に傷ひとつつけることは出来ないと分かっていた。
手を振り抜くだけで兵達は木切れのように飛んでいった。悲鳴さえ聞こえず彼らは立ち木に打ち据えられ、動かなくなった。
一人が残った。その男は僧であった。刀を持たず、数珠を手に何事かを唱えていた。仏の道を知らぬその頃の私には分からなかったが、それは護身の呪文であった。
私は御神の手でその僧を取り、持ち上げた。大きな指の間でその男は目をかっと見開き、私を見据え、数珠を繰り、呪文を唱え続けた。
その僧の顔に、私は父上を幻視した。
決して顔貌が父上に似ていたわけではない。父が法衣を着るわけも数珠を繰るわけもなく、取り乱した様子を私に見せたこともない。だが、それは父であるように思えた。それは私が生まれるより前、父上が祖父を同じように介錯し、この武神を受け継ぎ、五〇人の武士を倒したと言われた若き日の父上であった。
私はそれを握りつぶすことが出来なかった。僧の鬼のような形相をじっと見るのみであった。騒ぎを聞きつけた他の兵が駆けてくる音が聞こえると、私は僧を地面にそっと落とし、音を立てぬよう山へ向けて飛んだ。彰神湖に帰り着くと刀売神さまが待っていらっしゃった。そのお顔は静かで、私の戻ってきたのが当然であるかのように微笑んでいらっしゃった。
私と刀売神さまは湖に入り、底の水道を通ってまた洞へと戻った。洞の中は静かで、外では気にならなかった森のざわめき、虫の音がないことに気がついた。
私は建御名方神の腑から出、また湖水の中に降り立った。私はそこで着物を脱ぎ、身体をよく洗い清めた。そして父上の骸の入った大壷を抱え、入ってきた隧道を登った。刀売神さまはそれを黙って見届けて下さった。
屋敷に戻り、私は皆の衆にこう言った。父上は自刃なさった。父はこう遺した。我が首を以て織田方に下り、許しを請うべし。天下は決した。無用な戦は避け、殺生無きようにするべし。
皆は嘆き悲しんだ。朝、日の出る前に私は数人の屋敷の者を連れ、父上の首を持ち、織田方の陣へ下った。
四〇年の時が経った。あの夜より後、私は洞穴に入ったことは無い。
世には太平が訪れた。江戸に幕府が開かれ、合戦はなくなった。
我が命はいま、建御名方神を秘匿することにある。武を持ち、それを秘すは武士の誉れである。我が父はそれを望んだ。いつか御神のお力をお借りせねばならぬ時が来るかも知れぬ。だがそれまでは秘して表さず、我が子孫が必要とした時のみお姿を現わせしむであろう。
元和七年 六月 社にて