蜃気楼
ステファナはリディを従え 夕闇の迫る回廊を歩いていた。
アクィラが言った黄昏時の色。
昨夜はそれを聞いて興奮したのに、今はその色の中で沈んだ気持ちになっている。
その色が郷愁を誘うのかもしれないと思ったりする。
そうして宮殿の奥に入る扉まで来ると、リディがドアの番人に言った。
「スファエ王国のステファナ姫、そして侍女のルベットです」
番人は何も言わずにドアを開ける。
そこには女性の召し使いが待っていた。
「ステファナ姫、お待ちしておりました」
彼女はリディを見て、にっこりと笑う。
「ルベット様ですね。
陛下は、ステファナ姫にお会いになる前に、ルベット様と話したいと申しております」
ステファナは、ドキッとした。
リディの方を向くと、彼女も不安げな様子でステファナを見る。
アクィラは、自分がステファナだと気付いていない。
ルベット本人を連れて来なくて良かったと思うのだけれど、
先にルベットに会いたいというのであれば、どうにかしなければならない。
召し使いは、廊下を曲がると壁に手をかけ、そこを押す。
すると隠れ廊下が現れた。
「この先に、月の間があります。
先ずは、手前の小部屋にご案内しましょう」
隠れ廊下の入り口が閉まると、中は薄暗かった。
「静かだわ」
とステファナが言うと、召し使いは振り向き、微笑みながら答える。
「ここは、『恋人の廊下』と言われてます」
「えっ?」
「その名前には、似つかわしくないですが、
前王の恋人だった方が、人目を避けてここを通られたと聞いております」
「陛下のお父上の?」
「ええ、最初のお后様が亡くなられ、今の大妃様とご結婚なさるまでの、
数年間のことだったそうです。
その方は異国人だったので、人目を避けるように会われたとも・・・
また前王に次のお后を推薦され、王太子をもうけるよう勧められのも、
その方だったと聞いております」
ステファナは、これがアクィラの望んでいることなのだろうかと思った。
自分がこれから行く道を示されている様で、
いつか自分も、アクィラにふさわしい姫を勧めるのだろうかと思わずにはいられない。
召し使いは、くすくすと笑った。
「最も、すべて本当の話だったのかは私どもには分かりません。
不思議な方だったと聞いておりますし、
それで、そんな話が生まれたのかもしれませんね」
この異質な、足音が冷たく反響する隠し廊下。
そんな所で聞く不思議な前王の恋人の話。
この召使までもが妖しい語り部のようで、ステファナとリディは現実から遠ざかり、
もう後戻りできない別の世界へと迷い込んでしまったような気がする。
そうして通されたのは、重厚な椅子やテーブルが置かれた窓の無い部屋だった。
「ここは着替えの間です。
陛下に姫様がお着きになったと伝えてまいりますので、しばらくお待ちください」
そして召し使いは、反対側のドアを通り、そのまた向こうのドアへと消えていった。
ふうっと息を吐いた二人は、しばらく言葉が見つからないでいた。
リディは、持っていた大きな箱を、メリディエンヌのシェーズロングに乗せ、蓋を開ける。
そして、スファエの布で作ったドレスを、ふわっと広げた。
「これは『蜃気楼のローブ』と言われています。
布の量が多く、豊かに、体を包むように作られております。
光り輝いているのに、透けているようで、
まるで蜃気楼のように見えるのだそうです。
これは、姫様の、今宵のお召し物にふさわしいかと思います」
ステファナは、リディの気持ちを受け取る。
「分かったわ。
わたしはこれを素肌の上に着ます」
「姫様・・・」
「大丈夫。
わたしはすでに、アクィラ王にわたしの裸を見られているの」
「え?」
「子供の頃のことだったけれど、あれは、すでにこの時を予期していたのね・・・」
とまあ、関係のないことまでくっつけて考えたりする。
そしてリディは、別の箱からファニアの香油を出した。
「姫様、これをお持ちください」
「初夜にこれを使うのは禁じられているわ」
「いいえ、そのためのものではありません。
もし姫様が、どうしても嫌だと思われたなら、これを割ってください。
これは姫様が飲まれたのと同じ濃度の香油です」
「え? そうしたら、わたしは吐いてしまうわよ」
「そうです。
姫様が拒む理由が嘔吐でしたら、さほど重い罪には問われないでしょう」
「リディ、あなたって・・・」
ステファナは、リディが、「何と主人思いの賢い侍女だろう」と感激する。
最もそのアイデアには、アクィラがどうなるのかという問題は除外されていた。
極度の緊張が、この二人に、他のことなど忘れさせていたのだ。
ところでアクィラは、何をしていたかというと、
審査員と側近の者たちに捕まって身動きできないでいた。
アクィラは、ステファナに恋人の振りでもしてもらい、
審査員と側近が二人を見つけて混乱するという、ありきたりの計画を立てていた。
そして自ら招待状を出し、事前にルベットに会って、打ち合わせをしようと思っていたら、
審査員たちが予定より早く来てしまったのだ。
それで何とかしなければと思っているところに、フリモンまでもがやって来る。
いつもなら、さっさと自分の用事を優先するのだが、
やましいことをしているという気持ちが判断を鈍らせ、自分の方が混乱してくる。
フリモンはと言えば、アクィラに接触するのに成功したと喜んでいた。
ところが審査員の一人が、
「フリモン王子も審査の見学に来られたのですか?」
などと話しかけてくる。
すると他の審査員も、ファニアの香油について質問なんてことをするので、
フリモンまでが捕まってしまった。
そんな様子を、少し離れた所から見ているアレクシスと侍女たちは、
「何をしているのかしら」とやきもきする。
ついに、約束の時間となった。
ステファナは、アクィラが現れなかったので、
「良かったわ、これでリディが陛下に会わなくてすむ」
と、それ以上アクィラを待つことなく月の間へ向かう。
一つ目のドアを開け、二つ目のドアを開ける。
弦月は膨らんできており、月の間の広い床を美しく照らしていた。
そこに浮かび上がるのは、
蜃気楼のように揺れる、神秘的な煙に巻かれたような、美しいシルエットの女体。
アクィラとフリモン、審査員たちと側近たち、さらにアレクシスと侍女たちは、
「あれは何?」と息を呑む。
ステファナも息を呑んだ。
大勢の者たちが、自分に注目していたからだ。
「きゃ~!」
叫び声が月の間に響き渡り、
ファニアの香油のビンは、ステファナの手からするっと滑り落ちていった。