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運転手の矜持

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/03/07

私は黒塗りの車のハンドルを握りながら、バックミラー越しに後部座席の男を見た。


グレーのスーツを着た初老の紳士。名前は知らされていない。ただ、「特別な客」だと会社から言われただけだ。


「国立美術館まで」


男は短く告げた。私は頷き、車を発進させた。


私の名前は木村洋介。四十二歳。ハイヤーの運転手だ。


十年前まで、私は別の人生を歩んでいた。大学の英文科を出て、小さな出版社で翻訳の仕事をしていた。給料は安かったが、好きな仕事だった。


でも、妻の麻衣と結婚してから、すべてが変わった。


麻衣の父、つまり私の義父は、地元で不動産会社を経営する資産家だった。彼は私を最初から認めなかった。


「翻訳? そんなもので家族を養えるのか」


義父の言葉は冷たかった。


「うちの娘は、苦労させるために育てたんじゃない」


私は反発したかった。でも、麻衣が第一子を妊娠したとき、私は決断した。


出版社を辞め、義父の紹介でハイヤー会社に就職した。


運転手。


確かに、安定した収入はある。でも、それは私が望んだ生き方ではなかった。


「お前は、これでいいのか」


義父は時々、そう言って笑った。嘲笑だ。


「本当に、これがお前の人生か」


私は何も言い返せなかった。


ただ、ハンドルを握り続けた。


それから十年。


私は、もう何も感じなくなっていた。夢も、情熱も、すべて捨てた。ただ、家族を養うために、車を走らせる。


それが、私の人生だ。


車は国立美術館に着いた。


「一時間後に、ここで待っていてくれ」


男は車を降り、美術館の中へ消えていった。


私は車内で待機した。ラジオをつけ、ニュースを聞く。政治、経済、芸能。どれも、私には関係のない話だ。


三十分ほど経った頃、携帯電話が鳴った。


会社からだ。


「木村さん、急な変更です。今、乗せている客、実は有名な美術評論家なんです」


「え?」


「田島光一先生。知ってますか?」


田島光一。


私は驚いた。知っている。大学時代、英文科の授業で、田島の著書を読んだことがある。イギリスの美術評論を日本に紹介した第一人者だ。


「先生が急に体調を崩されたそうです。美術館の中で。すぐに行って、対応してください」


私は車を降り、美術館へ走った。


受付で事情を説明すると、スタッフが案内してくれた。二階の展示室。そこで、田島は椅子に座り、額に手を当てていた。


「先生、大丈夫ですか」


私は駆け寄った。


「ああ……少し、めまいが」


田島は顔を上げた。顔色が悪い。


「病院に行きましょう」


「いや、待ってくれ」


田島は首を横に振った。


「あの絵は、今日が展示最終日なんだ。どうしても、自分の目で見ておきたい」


彼は壁を指差した。そこには、一枚の絵が飾られていた。


風景画。イギリスの田舎町を描いたものだ。


「明日には、別の美術館に移送される」


「でも、体調が……」


「頼む。あと十分でいい。あの絵を見させてくれ」


田島の目には、切実な光があった。


私は少し考えた。そして、スタッフに頼んだ。


「椅子を、あの絵の前に運んでもらえますか」


スタッフは頷き、椅子を絵の前に置いた。私は田島の肩を支え、椅子まで歩かせた。


田島は座り、絵を見つめた。


その横顔は、穏やかだった。


「美しい……」


田島は小さく呟いた。


私も絵を見た。


確かに、美しい絵だった。でも、それ以上に、田島の表情が印象的だった。


彼は、本当に絵を愛している。


十分後、田島は満足そうに頷いた。


「ありがとう。もう大丈夫だ」


私は田島を車まで送った。途中、美術館のカフェで休憩を取り、彼はソーダ水を飲んだ。


「君は、運転手なのか」


田島が聞いた。


「はい」


「それだけか?」


私は少し戸惑った。


「どういう意味ですか?」


「君の目だ」


田島は私を見つめた。


「運転手にしては、あの絵を見る目が違った」


私は何も言えなかった。


「君、もしかして、美術を学んだことがあるか?」


「いえ。英文科です。でも、大学時代、先生の本を読みました」


「私の本を?」


「はい。『イギリス絵画の詩学』。素晴らしい本でした」


田島は驚いた顔をした。


「それで、なぜ運転手を?」


私は黙った。


答えられなかった。


田島は、それ以上、何も聞かなかった。


車は田島の自宅に着いた。


「ありがとう。君のおかげで、あの絵を見ることができた」


田島は車を降りる前、私に名刺を渡した。


「もし、何かあったら、連絡してくれ」


私は名刺を受け取った。


その夜、私は家に帰った。


妻の麻衣が、夕食を作って待っていた。


「お帰りなさい」


「ただいま」


私は食卓に座った。麻衣は味噌汁を注ぎながら、言った。


「今日、お父さんから電話があったの」


「お義父さんが?」


「うん。来週、家に来るって」


私は小さく吐息をついた。また、あの嘲笑を聞かなければならない。


「洋介」


麻衣が私を見た。


「私、思うんだけど」


「何?」


「あなたは、今の仕事、本当に嫌なの?」


私は黙った。


麻衣は続けた。


「お父さんは、あなたを認めてないかもしれない。でも、私は知ってる。あなたが、どれだけ真面目に働いてるか。どれだけ家族のことを考えてるか。それは、特別なことだよ」


私は妻を見た。彼女は笑っていた。優しい笑顔だった。


その週末、義父が訪ねてきた。


「よう、洋介。相変わらず運転手か」


義父は玄関で、いつもの嘲笑を浮かべた。


「はい」


私は短く答えた。


リビングで、義父は新聞を広げた。そして、ある記事を指差した。


「これ、見たか」


それは、美術欄の記事だった。


『田島光一氏、引退発表。最後の評論を執筆中』


私は記事を読んだ。田島は、持病の悪化により、評論家としての活動を引退するという。


そして、最後の評論のテーマは「支える者の美学」だという。


私は思わず、記事を見つめたまま動けなくなった。


「どうした?」義父が怪訝な顔をした。「妙な顔してるぞ。知り合いか?」


「いえ」


私は嘘をついた。


数日後、会社から封筒を渡された。


「木村さん宛てで、田島光一さんという方から届いたよ」


差出人は、田島光一。彼はハイヤー会社を通じて、私に手紙を送ってきたのだ。


手紙には、こう書かれていた。


『木村さん


先日はありがとうございました。あなたのおかげで、私は最後の絵を見ることができました。


あなたは、私に大切なことを思い出させてくれました。


美術を支えるのは、評論家だけではない。絵を愛する人、絵を守る人、そして、絵を見る人を支える人。すべてが、美術を成り立たせている。


あなたは運転手として、私を支えてくれた。それは、立派な仕事です。


私は最後の評論で、あなたのことを書きます。名前は伏せますが、あなたの生き方を。


どうか、誇りを持ってください。


田島光一』


私は手紙を握りしめた。


涙が溢れた。


私は、間違っていなかった。


この十年、私は過去を引きずり、自分を責め続けた。


でも、違った。


私は、家族を支えるために生きた。それは、恥ずべきことではなかった。


運転手という仕事も、誰かを支える仕事だった。


それは、翻訳と同じくらい、価値のある仕事だった。


翌週、義父が再び訪ねてきた。


「洋介、これを見ろ」


義父は雑誌を差し出した。美術雑誌だ。


そこには、田島光一の最後の評論が掲載されていた。


『支える者の美学』


私は読んだ。


田島は、ある無名の運転手について書いていた。


彼が、どのように田島を支えたか。どのように、最後の絵を見る機会を守ったか。


『彼は十年前、英文科を出て翻訳の仕事をしていた。しかし家族のために、運転手へと転身した。その決断を、周囲は理解しなかった』


そして、こう結んでいた。


『彼は運転手だった。しかし、彼の中には、美を理解する心があった。それは、かつて学んだ知識ではなく、人生の中で培われた感性だった。


私は、彼から学んだ。美術を支えるのは、評論家や学芸員だけではない。無名の人々の、小さな親切と理解だ。


それこそが、文化の真の基盤である』


義父は雑誌を置いた。そして、私をじっと見た。


「これ、お前のことか」


私は頷いた。


義父は、初めて、真面目な顔をした。


「そうか」


それだけ言って、義父は立ち上がった。


玄関で、義父は振り返った。


「洋介。お前の生き方、間違ってなかったようだな」


それは、義父が初めて、私を認めた瞬間だった。


私は頭を下げた。


その夜、私は妻と二人で、静かに食事をした。


「良かったね」


麻衣が言った。


「うん」


私は笑った。本当に、心から笑えた。


私の人生は、決して華やかではない。


でも、それでいい。


私は、私の仕方で、誰かを支えてきた。


それが、私の生き方だ。


そして、それは、特別なことなのだ。


窓の外では、夜が更けていく。


私は、明日も、ハンドルを握る。


誰かを、どこかへ運ぶために。


それが、私の誇りだ。

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