透明な夏を越えて
八月の終わり。校舎の白い壁は、夏の日差しを吸いこんでまだ熱を持っていた。
転校初日の放課後、瑞希は知らない校舎を探検するように歩き回っていた。
教室のざわめきに混じれない。自己紹介を終えたあとも、
気を遣った笑顔を向けてくれる子たちに上手く返せなかった。
仕方なく一人で廊下を歩いていると――階段の踊り場に、座っている人影があった。
長い髪を垂らして、本を読んでいる少女。
制服の襟元は少し乱れていて、まるで周囲の空気に馴染んでいないような雰囲気だった。
瑞希が立ち止まると、彼女はふと顔を上げる。
澄んだ瞳。けれど表情は、どこか冷たかった。
「……誰?」
「えっと……新しく転校してきた瑞希って言います」
「ふうん」
それだけ言うと、少女は視線を本に戻した。
名前を聞かれることも、笑顔を返されることもなかった。
けれど瑞希は、その背中に妙に惹かれてしまった。
理由は分からない。ただ――「この人を知りたい」と思った。
その少女の名前を、瑞希が知ったのは翌日のことだった。
教室の出席確認で呼ばれた「琴音」という響きが、妙に耳に残った。
放課後、瑞希は昨日のことを思い出して、階段へと足を向けた。
けれど、踊り場に琴音の姿はなかった。代わりに、少し開いた屋上への扉が視界に入った。
風に押されるようにして瑞希は階段を上る。
屋上の空気は、まだ熱を残していた。アスファルトの匂いが鼻を刺す。
その真ん中に、昨日と同じように本を膝に置いて座る琴音がいた。
瑞希の靴音に気づいたのか、彼女はゆっくり顔を上げる。
薄い影を落としたまなざしが、瑞希を射抜いた。
「……ここ、立ち入り禁止だよ」
「でも、琴音さんはここにいる」
言葉にすると、自分でも驚くほど強気に聞こえた。
本当は胸が早鐘を打っているのに。
琴音は小さく肩をすくめただけで、本を閉じることもなく、ただ風に髪を揺らした。
「……あんまり人に見られたくないだけ」
「どうして?」
「ここなら、世界から消えられる気がするから」
そう言った声は、どこか透き通っていて、夏の空に吸い込まれていきそうだった。
瑞希はそのとき思った。
――この人は、透明だ。
消えてしまいそうな透明さ。けれど、その奥にあるものを見てみたい。
屋上に二人きり。蝉の声が遠ざかり、風の音が耳に満ちる。
言葉はそれ以上続かなかったが、瑞希の中では、確かな何かが芽吹き始めていた。
九月の風は、夏の熱をわずかに残しつつも、朝夕にはひんやりとした気配を運んできた。
瑞希にとって、この学校での生活はまだぎこちなかった。
廊下を歩くたびに、誰かの視線を意識してしまう。
けれど、屋上で琴音と並んで過ごす時間だけは、確かな居場所のように感じられた。
屋上で本を読む琴音の横顔を、瑞希は何度も盗み見た。
彼女は決して笑顔を見せない。けれど、風に目を細める瞬間や、紙をめくる指先の静かな仕草に、
瑞希は言葉にできない温かさを感じていた。
その気持ちに名前をつけるのは、まだ怖かった。
ある日の昼休み、クラスの女子に声をかけられた。
「瑞希ちゃんって、琴音と仲いいんだね」
「えっ……そう、なのかな」
「だって、よく一緒にいるじゃん。あの子、誰とも喋らないのに」
軽い調子の言葉なのに、瑞希の心はざわめいた。
周囲に見られている。あの場所は、二人だけの秘密のはずだったのに。
そう思うと、急に胸の奥が苦しくなる。
放課後、屋上に行くと、琴音はすでにいた。
夕暮れの光に照らされ、影が長く伸びている。
瑞希は言おうかどうか迷いながら、口を開いた。
「……琴音さんって、どうしていつも一人なの?」
琴音は少し驚いたように視線を向け、それからゆっくりと目を伏せた。
「一人のほうが楽だから」
「楽……?」
「人と一緒にいると、いろんな声が聞こえるでしょ。好奇心とか、憐れみとか、
噂とか……。そういうの、嫌い」
淡々とした声の奥に、どこか痛みのようなものが混じっていた。
瑞希は言葉を失う。
でも、逃げたくなかった。
「……私は、違うよ」
小さく絞り出すように言った。
「琴音さんと一緒にいるの、楽しいって思ってる」
風が止まり、夕焼けが二人を包んだ。
琴音はしばらく瑞希を見つめ――そしてほんの一瞬だけ、笑ったように見えた。
それは儚く、すぐに消えてしまうほど小さな笑みだった。
けれど瑞希の胸には、深く、鮮やかに焼きついた。
琴音と過ごす時間は、瑞希にとって欠かせないものになっていた。
昼休みや放課後、屋上で交わすたわいのない会話。その沈黙すら心地よかった。
けれど、周囲の視線が「二人」を特別に見始めていることを瑞希は感じていた。
ある日、クラスの子にからかうように言われた。
「瑞希ちゃんって、琴音のこと好きなんじゃない?」
冗談半分の声が、瑞希の胸に突き刺さった。
――好き。
その言葉を認めてしまえば、きっと今の関係は変わってしまう。
でも、自分の心はもう否定できなかった。
九月の終わり、雨の日。
屋上の扉の前で、琴音が座り込んでいるのを瑞希は見つけた。
制服の袖が濡れて、頬に貼りついている。
「琴音さん……!」
声をかけると、彼女はふっと笑った。
「やっぱり、来たんだ。……君なら来ると思った」
その声は震えていた。
琴音はぽつりと語り出す。
中学のころ、親しい友人と喧嘩をしたこと。
ほんの些細なことで、でも一度の噂が広まって、居場所を失ったこと。
“誰かと一緒にいること”が怖くなってしまったこと。
「だから、私は透明でいたいの。誰からも期待されず、誰の記憶にも残らないで……」
俯いた肩が小さく震えていた。
瑞希は迷わず、その手を握った。冷たく濡れた手を、ただ強く。
「透明じゃないよ。少なくとも、私には」
「……」
「琴音さんは、ちゃんとここにいる。私の隣に」
その瞬間、琴音の目から涙がこぼれ落ちた。
季節は秋へと傾き、夏の匂いが少しずつ遠のいていく。
文化祭の準備で賑わう教室の中でも、瑞希の心は琴音のことでいっぱいだった。
告げなければ、この気持ちは宙ぶらりんのままだ。
でも、告げてしまえば、琴音を追い詰めるかもしれない。
答えが出ないまま、日々が過ぎていった。
文化祭当日の夕暮れ。人影のなくなった屋上で、瑞希はついに言葉を絞り出した。
「……琴音さんのこと、好き」
沈黙が流れる。風の音だけが響く。
琴音は驚いたように目を見開き、そしてゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとう。そう言ってくれたの、初めて」
「でも……」
「ごめん。今すぐは、応えられない」
胸が痛んだ。けれど、その笑顔は泣き出しそうに優しかった。
「それでもいい? それでも、一緒にいてくれる?」
瑞希は頷いた。涙で視界がにじんでも、手を離さなかった。
秋の風が校舎を吹き抜ける。
もう蝉の声は聞こえない。けれど、瑞希の心にはあの日の夏が確かに残っていた。
琴音は相変わらず多くを語らない。
それでも、並んで歩くとき、時折瑞希の方を見て小さく笑うようになった。
完全な答えはまだない。
けれど――「一緒にいる」という選択を、二人は確かに選んだのだ。
透明でいたかった少女と、透明にしたくなかった少女。
その夏を越えて、二人の物語は、静かに続いていく。