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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

透明な夏を越えて

作者: 夕凪詩音
掲載日:2025/08/30

八月の終わり。校舎の白い壁は、夏の日差しを吸いこんでまだ熱を持っていた。

転校初日の放課後、瑞希は知らない校舎を探検するように歩き回っていた。


教室のざわめきに混じれない。自己紹介を終えたあとも、

気を遣った笑顔を向けてくれる子たちに上手く返せなかった。

仕方なく一人で廊下を歩いていると――階段の踊り場に、座っている人影があった。

長い髪を垂らして、本を読んでいる少女。

制服の襟元は少し乱れていて、まるで周囲の空気に馴染んでいないような雰囲気だった。

瑞希が立ち止まると、彼女はふと顔を上げる。

澄んだ瞳。けれど表情は、どこか冷たかった。

「……誰?」

「えっと……新しく転校してきた瑞希って言います」

「ふうん」

それだけ言うと、少女は視線を本に戻した。

名前を聞かれることも、笑顔を返されることもなかった。

けれど瑞希は、その背中に妙に惹かれてしまった。

理由は分からない。ただ――「この人を知りたい」と思った。


その少女の名前を、瑞希が知ったのは翌日のことだった。

教室の出席確認で呼ばれた「琴音ことね」という響きが、妙に耳に残った。


放課後、瑞希は昨日のことを思い出して、階段へと足を向けた。

けれど、踊り場に琴音の姿はなかった。代わりに、少し開いた屋上への扉が視界に入った。

風に押されるようにして瑞希は階段を上る。

屋上の空気は、まだ熱を残していた。アスファルトの匂いが鼻を刺す。

その真ん中に、昨日と同じように本を膝に置いて座る琴音がいた。

瑞希の靴音に気づいたのか、彼女はゆっくり顔を上げる。

薄い影を落としたまなざしが、瑞希を射抜いた。

「……ここ、立ち入り禁止だよ」

「でも、琴音さんはここにいる」

言葉にすると、自分でも驚くほど強気に聞こえた。

本当は胸が早鐘を打っているのに。

 琴音は小さく肩をすくめただけで、本を閉じることもなく、ただ風に髪を揺らした。

「……あんまり人に見られたくないだけ」

「どうして?」

「ここなら、世界から消えられる気がするから」

そう言った声は、どこか透き通っていて、夏の空に吸い込まれていきそうだった。

瑞希はそのとき思った。

――この人は、透明だ。

消えてしまいそうな透明さ。けれど、その奥にあるものを見てみたい。

屋上に二人きり。蝉の声が遠ざかり、風の音が耳に満ちる。

言葉はそれ以上続かなかったが、瑞希の中では、確かな何かが芽吹き始めていた。

九月の風は、夏の熱をわずかに残しつつも、朝夕にはひんやりとした気配を運んできた。

瑞希にとって、この学校での生活はまだぎこちなかった。

廊下を歩くたびに、誰かの視線を意識してしまう。

けれど、屋上で琴音と並んで過ごす時間だけは、確かな居場所のように感じられた。


屋上で本を読む琴音の横顔を、瑞希は何度も盗み見た。

彼女は決して笑顔を見せない。けれど、風に目を細める瞬間や、紙をめくる指先の静かな仕草に、

瑞希は言葉にできない温かさを感じていた。

その気持ちに名前をつけるのは、まだ怖かった。


ある日の昼休み、クラスの女子に声をかけられた。

「瑞希ちゃんって、琴音と仲いいんだね」

「えっ……そう、なのかな」

「だって、よく一緒にいるじゃん。あの子、誰とも喋らないのに」

軽い調子の言葉なのに、瑞希の心はざわめいた。

周囲に見られている。あの場所は、二人だけの秘密のはずだったのに。

そう思うと、急に胸の奥が苦しくなる。


放課後、屋上に行くと、琴音はすでにいた。

夕暮れの光に照らされ、影が長く伸びている。

瑞希は言おうかどうか迷いながら、口を開いた。

「……琴音さんって、どうしていつも一人なの?」

琴音は少し驚いたように視線を向け、それからゆっくりと目を伏せた。

「一人のほうが楽だから」

「楽……?」

「人と一緒にいると、いろんな声が聞こえるでしょ。好奇心とか、憐れみとか、

噂とか……。そういうの、嫌い」

淡々とした声の奥に、どこか痛みのようなものが混じっていた。

瑞希は言葉を失う。

でも、逃げたくなかった。

「……私は、違うよ」

 小さく絞り出すように言った。

「琴音さんと一緒にいるの、楽しいって思ってる」

風が止まり、夕焼けが二人を包んだ。

琴音はしばらく瑞希を見つめ――そしてほんの一瞬だけ、笑ったように見えた。

それは儚く、すぐに消えてしまうほど小さな笑みだった。

けれど瑞希の胸には、深く、鮮やかに焼きついた。

琴音と過ごす時間は、瑞希にとって欠かせないものになっていた。

昼休みや放課後、屋上で交わすたわいのない会話。その沈黙すら心地よかった。

けれど、周囲の視線が「二人」を特別に見始めていることを瑞希は感じていた。


ある日、クラスの子にからかうように言われた。

「瑞希ちゃんって、琴音のこと好きなんじゃない?」

冗談半分の声が、瑞希の胸に突き刺さった。

――好き。

その言葉を認めてしまえば、きっと今の関係は変わってしまう。

でも、自分の心はもう否定できなかった。


九月の終わり、雨の日。

屋上の扉の前で、琴音が座り込んでいるのを瑞希は見つけた。

制服の袖が濡れて、頬に貼りついている。

「琴音さん……!」

 声をかけると、彼女はふっと笑った。

「やっぱり、来たんだ。……君なら来ると思った」

その声は震えていた。

琴音はぽつりと語り出す。


中学のころ、親しい友人と喧嘩をしたこと。

ほんの些細なことで、でも一度の噂が広まって、居場所を失ったこと。

“誰かと一緒にいること”が怖くなってしまったこと。

「だから、私は透明でいたいの。誰からも期待されず、誰の記憶にも残らないで……」

俯いた肩が小さく震えていた。

瑞希は迷わず、その手を握った。冷たく濡れた手を、ただ強く。

「透明じゃないよ。少なくとも、私には」

「……」

「琴音さんは、ちゃんとここにいる。私の隣に」

その瞬間、琴音の目から涙がこぼれ落ちた。


季節は秋へと傾き、夏の匂いが少しずつ遠のいていく。

文化祭の準備で賑わう教室の中でも、瑞希の心は琴音のことでいっぱいだった。

告げなければ、この気持ちは宙ぶらりんのままだ。

でも、告げてしまえば、琴音を追い詰めるかもしれない。

答えが出ないまま、日々が過ぎていった。


文化祭当日の夕暮れ。人影のなくなった屋上で、瑞希はついに言葉を絞り出した。

「……琴音さんのこと、好き」

沈黙が流れる。風の音だけが響く。

琴音は驚いたように目を見開き、そしてゆっくりと微笑んだ。

「……ありがとう。そう言ってくれたの、初めて」

「でも……」

「ごめん。今すぐは、応えられない」

胸が痛んだ。けれど、その笑顔は泣き出しそうに優しかった。

「それでもいい? それでも、一緒にいてくれる?」

瑞希は頷いた。涙で視界がにじんでも、手を離さなかった。

秋の風が校舎を吹き抜ける。

もう蝉の声は聞こえない。けれど、瑞希の心にはあの日の夏が確かに残っていた。


琴音は相変わらず多くを語らない。

それでも、並んで歩くとき、時折瑞希の方を見て小さく笑うようになった。

完全な答えはまだない。

けれど――「一緒にいる」という選択を、二人は確かに選んだのだ。


透明でいたかった少女と、透明にしたくなかった少女。

その夏を越えて、二人の物語は、静かに続いていく。

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