私の中には檸檬が取り残されている。
ここに1個の檸檬がある。
所々に傷のある古びた木造りの丸テーブルの中心。誰が何の目的で置いたのか分からない歪な楕円体が私の眼前に鎮座していた。
絶妙なバランス感覚でそこから動き出す予兆さえない。たとえテーブルを傾けたとしても転がらないと言わんばかりの頑健さと堅牢さを醸し出している。
私はそれを前にして呼吸以外の挙動が取れない状況にいた。まるで蛇に睨まれた蛙のごとく、正座を崩すことさえ許されなかった。
それほどの霊力をこの黄色いものから感じたわけではない。
正しく言えば、私が金縛りのように固まっている原因はこの瑞々しい果実ではなく、これが置かれているという不可解な現状に戦慄を覚えているからに他ならない。
私の記憶が正しければ、丸テーブルの上にこんなものは置いていなかったはずなのだ。
つまり何者かが私の部屋に入って来た可能性があるということだ。
小さく深呼吸する。私は四畳半の部屋の中心で微かに芳香を放つ物体に対峙しながら、困惑する頭を落ち着かせるようにここに至るまでの経緯を思い出した。
朝六時に目を覚ました私は、この丸テーブルで食パンにバターを載せて食べた。その時テーブルの上には一枚の皿と牛乳の入ったガラスのコップのみが置かれていた。
それから特に変わりなくいつも通り大学に行く用意をして下宿を後にした。もちろん鍵は締めたし、普段から窓は締め切ったままなので確認する必要もなかった。
ぬるい早朝の空気も、満員電車のむさ苦しさも、つまらない大学の講義もいつも通り。代わり映えのない日常を惰性に過ごしただけだ。
そして夕立が降る前にこの寂れた下宿に戻って来て、真夏の熱さに弱り切った身体を引きずるように階段を上がり、自室の扉の前に着いた。鍵はかかっていた。
錆の付着した鍵で解錠し、軋むような音とともに部屋の中に入った。
玄関には私の靴しか置かれていなかったし、誰かが入った形跡などなかったはずだ。しかし些細な変化などに気づくような性格でないし、自分の家に警戒心を持って入ることなんてないため玄関だけでは判断し難い。
次は狭い台所で手を洗った。普段水を飲むか、手を洗うこと以外に活躍の場がない台所も人の面影すら感じなかった。
手を洗った後は四畳半の部屋に入った。人の気配どころか人が住んでいるとは思えないほど生活感のない畳の部屋だ。部屋の隅には積み重なった雑誌の上に電子時計が置かれている。
私は天井から垂れ下がる紐を引っ張って電気をつけた後、畳の上に正座した。
それから眼前にあった思い入れの深い木造りの丸テーブルの中央に目をやった時、そこで初めて得体のしれない黄色のそれに気がついたのだ。
状況整理を終えた私は未だに身動きが取れなかった。
一つ、確認していない場所がある。トイレだ。誰かがこの部屋に侵入しているのであればそこしか無い。他にあるとすればタンスの中だろうか。
タンスには布団がしまってある。知らない人の乗った布団で寝るのは嫌だなぁ、と現実逃避気味な感想を抱く。
どちらかの扉が開いたら私は死んでしまうのかしら。
息を殺して隠れている侵入者と同じように私も息を殺して正座しているけれど、今襲われたら足が痺れて禄に逃げられないで簡単に嬲り殺されてしまう。
女の人なら歓迎してお茶でも出してあげよう。穏便にことが済ませられるのならそれでいい。
しかもこんな貧乏臭い部屋に態々侵入してくるのだから、もしかしたら何か特別な理由があるのかもしれない。
私自身に原因があるのだろうか。影に潜むように生きてきた自分が誰かに見られていたなんて考えられないが、ボロ屋の一室で誰にも気づかれずに死ぬなんて日陰者らしくて良いかもしれない。
何故か分からないがやけに落ち着いてきた気がする。そもそも盗みの代わりに果物を置いていくような律儀な泥棒に危機感を感じられないのだろうか。
この黄色には冷や汗をかかされたが、今はこれのお陰で安心できる自分がいる。
例えば幽霊さんが置いていったということもありえる。タンスの隙間から私が狼狽しているのを見てクスクス笑っているのかもしれない。
気に入られたならいつかあの世に連れて行かれてしまうのだろう。そうすればきっと楽しいに違いない。死んだ人たちの集まる場所には懐かしいあの頃のように鮮やかな日常が待っているはずだから。
そんなことを考えていると突然携帯電話が鳴り響いた。
心臓が止まりそうになった。ふと思い出して背後を振り返る。トイレの扉は開いていない。
置き土産に檸檬をくれる方だ。会話中は待ってくれるだろう。
そこで身体が動くことに気がついた。足は痺れて動かないが上半身は自在に動く。
ポケットの中に入っていた携帯電話を取り出す。名前は書かれていないので知り合いではないはずだ。いやおかしい、名前どころか電話番号すら書かれていない。
携帯が壊れてしまったのだとしたら、相手が知り合いの可能性もあるのでとりあえず電話に出ることにした。
「もしもし、日高です」
「よー、オレオレ」
「…」
さて、誰だろう。
恐らく知り合いの誰かだ。聞き覚えのある若い男性の声。しかし電波が悪いのかノイズが酷くて声の持ち主が誰かよくわからない。
知り合いにどちら様と聞くのは失礼だろうから、とりあえず話を合わせることにした。
「えっと…なにか用ですか?」
「用ってわけじゃねぇよ、ていうかなんで敬語?」
普段タメ口を利かせる仲というわけか。そうなれば中学高校あたりの友人だろう。
「ごめん、それでどうかしたの?」
「別に、今日も学校やすんでたから」
「学校…」
大学は一日たりとも休んだことはない。それに学校の話題を出すということは同じ大学の人だろうか。しかし私と親しげに話せる相手など大学内に一人もいない。いや、いたかもしれないがその人は女だ。
「調子はどうだ?」
「え…」
「だから、体の調子はどうだって」
私は困惑した。何がなんだか分からない。知り合いかどうかも判然としない人から休んだこともない大学を休んだことにされて、そのうえ体の心配までされている。
しかし妙に懐かしい。このノイズ越しの声音も、ぶっきら棒な喋り方も、この状況さえも何か引っかかる。
それでも人違いと言わざるを得ない。なにせこの懐かしさは、もう一生味わうことができないものだから。
「すみません、人違いだと思います」
「冗談言えるくらいには元気になったんだな」
「いえ、ですから――」
「そうえば、檸檬見たか?」
ドキリ、と心臓が飛び跳ねた。
ゆっくりと後ろを振り返る。トイレの扉の向こう。まさか本当にいらっしゃるのかもしれない。
いやいやと首を横に振る。トイレはすぐそこだ。いくら扉が閉まっていても声が聞こえてくるはずだ。
恐らく偶然だ。彼は風邪を引いた友達にまるごと一個檸檬を送ったのだ。
いや、それにしても檸檬をまるごとって。
「ネギじゃないんだか……ら」
ドキリ、と再度心臓が脈打つ。
風邪を引いて寝込んだ次の日に未だに体から熱を発して汗を流す私。木目の粗い丸テーブルの上に意味深に置かれた檸檬に、それを畳の上で正座しながら訝しむ私。右手に持っている携帯電話を耳に添えて、彼の天然なボケにツッコミを入れる私。
在りし日の思い出を追体験しているみたいだった。
彼はこの後、私のツッコミにこう答える。
「皮めくって首に巻くんだぞ、ネギの代わりな、うちの店は果物しか扱ってないから」
瞬間。目頭が急に熱くなった。
脳みそが固まったみたいに鼻の奥が痛くなって、視界がぼやける。なんにも考えられなくなって意味不明な感情が爆発した。
あの頃から一度も流したことのない涙が滝のように流れてきた。馬鹿みたいに声を荒らげて泣くこともなくなってしまった私は小さく嗚咽を漏らした。
「ひ、日高?大丈夫か?」
「はると…なの?」
もう一生話すことができないと思っていた名前を呼ぶ。ずっと、話したかった。彼が急に居なくなってしまったときの私の深い悲しみと、彼のいない世界のつまらなさを教えてあげたかった。
「え?名前…まぁいいや、大丈夫なのか?急に具合悪くなったのか?」
今、電話越しに彼が居る。理由なんてどうでもいい。彼が居ることが大切なんだ。
「さみし、かった…さみしいよ…はると…」
「え、あぁ、えっと…」
彼は私の突然の号泣に狼狽えている。その様子もあの頃となにも変わらない。
私はずっと、思い出のなかで生きてきた。彼が居なくなってしまってから、まるで抜け殻みたいな生活を送ってきたのだ。
鮮やかな色彩で溢れていた世界は一瞬にして褪せてしまい、何をしても感情が揺れることはなかった。
唯一色褪せない思い出だけをたよりに、唯々惰性でつまらない日常を繰り返した。
でも今、私の世界は蘇った。彼が帰ってきてくれた。私を置いていった彼が戻って来てくれたんだ。
私は歓喜の嵐に包まれた。また彼と会える。一緒に買い物ができる。一緒に映画が見れる。一緒にご飯が食べれる。
私達はもう絶対に離れちゃいけない気がした。次に離れたら、本当に一生会えない気がするのだ。
「…日高!オ、オレも…お前が学校来ないと寂しいから!早く元気になれよ!じゃあな!」
「あ、まって、まってよ!」
つーつーと無情な機械音が流れた。
「え?」
呆気ない。あまりにも呆気なさすぎる。
せっかく声が聞けたのに、ようやく会えると思ったのに、また彼は居なくなってしまった。
携帯から目を離して丸テーブルを見た。
いつも通りの古びた木造りのテーブル。しかし、そこにあるはずの檸檬がなかった。
慌てて携帯に目線を戻す。
ボタンを押しても反応しない。電源すら付かない。
「あ、そうえば、もう何日も充電ないんだった」
呆気に取られながら畳に寝転んだ。
天井にはところどころ虫の影が見える部屋の蛍光灯がぶら下がっている。
たまにしゃっくりをしたり、涙が目から流れて擽ったくなったりした。
彼と電話をした。それは事実だ。絶対に勘違いではない。
「早く元気に、か」
昔のことを思い出した。
私が風邪を引いて、一日中寝込んでしまって、起きたら檸檬が置いてあった。
あんなに熱を出すのも、起きたら明後日になってしまったのも初めてで、未だに下がらない体温にとても不安だった。
このままでは死んでしまうと思いながらテーブルの上の檸檬をぼーっと眺めていた。
すると彼から電話がかかってきて、色々なことを話した。あの変なやり取り以外、どんなことを話したかは覚えていない。
そういえばあの頃はまだ名字で呼び合っていた。私達の距離はなんだか曖昧で、苦しくもあったが、それ以上に楽しかった。
彼が何か言って、私は不安を吐き出すように泣き出してしまった。
その時勢いで恥ずかしいことを言ってしまった記憶があるが、それも今となっては懐かしい思い出だ。
私はこれからどうすれば良いんだろうか。
彼は私に、元気になって欲しいのだろうか。
徐ろに立ち上がると未だに痺れる足で窓際に行く。窓に手をかける。変な音を立てながら窓は開き、生暖かい風を運んできた。
空が赤く染まっていてとても綺麗だった。
それから私は四畳半の部屋を出て玄関に向かった。途中で通りかかったトイレの扉を開けても誰もいなかった。
私は部屋の扉を開けると外の空気を思いっきり吸い込んで吐いた。
久しぶりに手料理でも作ろうかしら。デザートには何か果物でも食べようか。
「はるとのお店、まだやってるかな」
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