第1章~入ジム編・前編~
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。
この物語は第1部~四季の陣~、第2部~プロライセンス~の2部構成です。
第1部~四季の陣~
第1章~入ジム編・前編~
2008年 秋
柴山 なあ!嘉藤、お前は進路どうすんの?
嘉藤 あー、まだ何も考えてないわ。
柴山 だよなー、でもうちは母子家庭でオカンに苦労かけてっから卒業したら就職してちょっとずつでもいいから仕送りしてみたいんだよなー。
嘉藤 へー、ちゃんとしてんなー柴山は。
柴山 嘉藤んちは親何やってんだっけ?
嘉藤 うちは父ちゃんがトラックの運転手、母ちゃんがスーパーで刺身切ってるわ。特にやりたいこともないし、今まで野球部とバスケ部しかやってこなかったから仕事って仕事に興味がないわ。
柴山 そっかー、うちの高校そもそも偏差値低いし、進学よりも就職メンバーの方がほとんどだからな。まぁバイト先にずっと住みついちゃう先輩もいるって話もあるみたいだし、無理に就職しなくても、最悪実家にいれば生きてけるしな(笑)
嘉藤 俺はその考え案外ありかも。とりあえずバイト探してみっかなー
柴山 そんなことうちのオカンに言ったら拳骨飛んでくるわ(泣)、あっ!?就職担当の斎藤!ごめん、ちょっと先生に聞きたいことあるから行ってくるわ!
嘉藤 うん
高校3年の秋、クラスでは部活より進路の話に話題が切り替わり、自分にとっては馴染みが無さすぎて卒業後のことはめっきり考えてもないことが不安にもならなかった。柴山との雑談も終わり、吉野に引退したバスケ部の練習に誘われたが断り、颯爽と家に帰りふかふかの布団にくるまって眠った。
嘉藤の母 父ちゃん、きょう学校の先生から薫の進路について聞かれたんだけど、まだ何も決めてないって薫から言われたらしいのー。今からだったらまだ就活に間に合いますからって先生から電話があったんだけど、どう思う?
嘉藤の父 バスケ部引退してぼーっとしてるんだろー。俺に似て体動かすのは得意なんだけどなー、薫となかなか話す時間作れてなかったからなー。今度仕事でしばらく帰って来れなくなるから、今回は助っ人を呼ぶとするか?
嘉藤の母 だーれーよー?
嘉藤の父 俺の弟の健にお願いしてみる、時間をください!
嘉藤の母 健くんなら大丈夫ね!信頼できるわ!
嘉藤の父 ハハハ!俺より頼りにされてるな(笑)
2009年 4月
高校を無事卒業し、19才になった俺は就職と進学をすることなくただ真っ当に自由な生活を楽しむどころか退屈していた。つまりは暇なのであったが、家の電話から父の弟のたけしおじちゃんから連絡があった。
たけし おー!薫ー、元気でやってるか?
薫 あぁ、生きてるよ!
たけし 何だそれ(笑)、ちょっと連れていきたい所があるんだけど一緒に行かないか?
薫 うーん、気晴らしにいいかも、いつ?
たけし あしたの12時に家に迎えにいくよ!昼飯おごってやるぞ!
薫 わかった!たくさん食べるから気をつけてね!
翌日、たけしおじちゃんが車で迎えに来てくれた。そのあと、20分くらい走ると八王子についたと言われ、近くのパーキングに止め、歩くと村松ジムと書いてある古い看板の前でここだよ!とたけしおじちゃんに言われた。
たけし 薫、父ちゃんから話は聞いたぞー?何もやることなくて暇なんだろ?そのまんまぷらぷらしてたら魚の干物みたいになっちまうぞ。だからおじちゃんが昔お世話になったボクシングの村松ジムに連れてきたってワケ。
薫 やったことないんだよなー。でもおじちゃん昔ボクシングなんてやってたんだ?
たけし まぁ、おじちゃんにも若い頃があったってこと!薫とはちょっと違うけど色々悩んでフラフラ歩いてた時期にこのジムにお世話になったのよ。
薫 なるほどね。まずは見学ってことで!
たけし はい、入ろう入ろう!
村松ジムと書かれたガラスの引き戸を右に開け、中からは今まで知らなかった世界の音や声、においに感覚が集中してしまい無言のまま入ってしまった。そして、目の前には、木の椅子に座ったやさしい顔だが目には鋭い眼光を持つおじいちゃんが座ってこちらを見ていた。
たけし ほら、挨拶。
薫 あ、失礼しました!きょう初めて見学にきた嘉藤薫と言います!
たけし すいません村松さん、ぼーっとしている子で。お久しぶりです!
村松 久しぶりだねたけしくん、元気だった?
たけし はい!おかげさまで元気です!
村松 うん、よかったよ。電話で話していたのがその子かね?嘉藤くん。
たけし そうです。続くかわかりませんがよろしくお願いします!
村松 うん、嘉藤くん。よろしくね!まずは、体力測定じゃ。着替えを用意してあるから、あそこの更衣室で着替えておいで。
薫 え、あ、ん?あ、はい。見学じゃなくて?
たけし ほらほら、早く行くぞ!
半ば強引に着替えさせられ、たけしおじちゃんにしてやられたと気づき、自分の鈍感さが情けなく、全てをおじちゃんに任せた父をちょっと恨んだ。ジムのロゴが入った上下の半袖半ズボンの姿で村松さんの所に戻ると、30歳位の男性が隣に立っていた。
村松 こちらがコーチを勤める宮藤くん、体力測定の記録員をしてくれるから、彼の指示に従って動いてくれれば良い。
薫 あ、はい!宮藤さん、僕は嘉藤薫と言います!
宮藤 宮藤だ。よろしくね!早速だが体力測定をはじめるよ、内容は身長体重視力測定・腕立て伏せ・腹筋・背筋・スクワット・反復横飛び・垂直飛び・握力・シャトルランの8種目を測定して終了になる。
薫 いきなりにしては数がすごいですね。
宮藤 ケガは禁物だからまずは準備運動から!
そこから、宮藤さんと軽い準備運動をして、腕立て伏せ・腹筋・背筋・スクワットを30回ずつ、反復横飛び1分間・シャトルラン3分間、握力・垂直飛びをやり終える頃にはへとへとで、鈍った体の節々が悲鳴をあげていた。そのあと、ジムのスポーツウォーターを頂き、測定結果は標準ど真ん中だと言い渡され、ニッコリ満面の村松さんから入団合格の許可が降りた。全身筋肉痛間違いなしの重たい体をたけしおじちゃんに回収され、お疲れさま。と一言言われたのがその日の記憶の最後、風呂も入らずに寝てしまった。
1週間後、父ちゃんと母ちゃんにたけしおじちゃんに誘拐まがいのことを受けた件と村松ジムに入団し、さらにジムの寮生活の為、家を出ることまでを伝え終えた。正直、まだあのときの体力測定で死んだ筋肉たちの修繕には時間がかかっていた。1週間経っても若干の痛みが消えずに残っているが、新しい環境へ身を置く準備をしているこの時間に少しワクワクしている自分に感動すらしている。家を出る。といってもお金の面では父ちゃん母ちゃんにまだお世話になるわけだが、親への感謝の気持ちと新生活のワクワク感をもって、迎えに来たたけしおじちゃんの車に荷物を乗せて村松ジムへ向かった。
村松ジムの周辺は小さな商店街を抜けた先に建ち、最寄り駅からは20分ほど歩くらしい。駐車場は近くのパーキングが常で、きょうもそこに車を止めて荷物を持ってジムの前へ立つ。淡い灰色の外観と正面は村松ジムの名前がガラスに印字され、6枚程の引戸からはうっすらと中の様子が見える。きょうは中から引戸が開き、村松さんと共におそらく奥さんであろう方も一緒に出迎えてくれた。
村松 よく来たね嘉藤くん。忘れ物はないかい?今日からしばらくの間帰れないからね。あとね、こっちはうちの女房の喜美枝、このジムの2階から上が寮になっているんだが、ここの寮母も勤めておる。ごはんとお部屋の掃除、洗濯もろもろ面倒見させてもらうよ。
喜美枝 たけしくんお久しぶり!ちょっとダンディーになったわね。そして嘉藤くん、寮母の喜美枝です。色々と慣れるまでは苦労すると思うけど、私には気がねなく何でも言ってね!
薫 初めまして、嘉藤薫です。きょうからお世話になります!
たけし 村松さん喜美枝さん、うちの甥っ子をよろしくお願いします!僕はこれから仕事に向かいますので、後は頼みます!
その後、喜美枝さんに2階へ案内され、細かく説明してくれた。俺の部屋は204と茶色い扉に書かれた所で、6畳一間に布団が置かれ、押入付きでトイレと洗面所とシャワーがついたタイプ。実家の自分の部屋に比べれば少し狭いが、問題なさそうだ。3階には食堂があり結構広い。ここで朝昼晩の3食が食べれるらしい。もうすでに良い匂いがしている。同じ階には共同のお風呂場があり、温泉のコンパクトタイプのようなタイル張りの浴場付きでちょっと楽しみが増えた。4階は2階と同じく寮室がある階だった。喜美枝さんの教えてくれたスケジュールだと、朝6時に練習が終わるから7時頃に朝ごはん、お昼は12時、晩は18時には練習を終えて19時に晩ごはん、そのあとは自由時間、消灯は21時みたいだ。ごはんはバイキング形式だから好きな分とって残さず食べること!と強く念を押された。なんとなく学生時代のようだなと安心感もあって、ちょっとほっとした。喜美枝さんの案内も終わり、僕は1階へ、喜美枝さんはごはんの準備へと向かった。
村松 おお嘉藤くん。大体のことは把握できたかね?
薫 はい!丁寧に教えて頂けました!
村松 うん。そしたらね、ジムについてちょっとお話するから。おーい宮藤くん。
宮藤 はい、何でしょうか?お、嘉藤くん良い顔してるね!
村松 うん。ここのジムの説明とチームメイトに紹介をして欲しいんだ、実際に参加するのは明日からなんじゃが。
宮藤 わかりました!じゃあ、嘉藤くん。こちらへ、
そう言われ、宮藤さんにジムに関する注意点とチームメイトとの顔合わせが行われた。このジムは村松龍之介さんと喜美枝さんの夫婦で経営されていて、それぞれみんなからは「村じい」と「きみちゃん」と相性がついているらしい。コーチは宮藤さん内田さん佐伯さんの3名、選手は俺を含めて12名、寮に入る選手もいるが家から通う選手もいる。練習に使う道具は必ず2人以上で正しく使用すること、安全を考慮した仕組みになっている。選手個人の道具に関してはそれぞれに名前がついているので、確認してから使うこと。自分の道具は日々大切にメンテナンスをすること。最後にチームメイトは家族以上の存在であることを忘れない。これは一番村松さんが大切にしてることだと宮藤さんが言っていた。その後、チーム編成について教わった。ここではコーチ1名が選手4名を指導しており、俺は宮藤コーチのグループに入ることになった。これから残りの3名を紹介するぞ、と言われ、練習中の選手に声をかけに宮藤さんが向かった。
宮藤 まずは、金城、このジムのエースだ。
金城 金城タケルです、よろしく。
嘉藤 嘉藤薫です、よろしくお願いします
宮藤 次に岡本、隣が高山だ。
岡本 はじめまして、岡本ゆうすけって言います!アイドルの応援に命かけてます!今はナイト娘にドハマリしてます!
宮藤 はい、次~。
高山 高山登です。身長は180㎝です、よろしくお願いします。
嘉藤 よろしくお願いします!
宮藤 うん、嘉藤くんは明日から練習に参加することになっている。ただ、ボクシング未経験者だから、みんなとは違うメニューで軽くしようと考えている。暖かく見守ってくれ。よし!練習に戻っていいぞ!
少し練習を見学させてもらった後、食堂で喜美枝さんの美味しいお昼を頂いた。部屋に戻り荷ほどきを済ませて、眠くなったので布団に入って寝た。起きるともう外は暗く、喜美枝さんに晩ごはんよと扉の向こうから声を掛けられたので、もう19時かと寝ぼけながらも腹が鳴ったので、食堂でたんまり胃を満たした。密かに楽しみにしていた共同風呂は選手たちがごった返しており、これはゆっくり入れそうにないと思い、きょうはシャワーで我慢した。軽く体を流してすぐ布団にくるまって眠った。
翌日、きょうからいよいよ練習に参加する。まずは朝5時に全員がジムの外に集合し、ジョギングとランニングを10分間交代で行うロードワークから始まった。朝の空気は澄んでいて、これから暖かくなる準備運動を空気もしているかのごとく静かで気持ちが良い。そんな空気を鼻と肺にいっぱい吸い込ませながら、きのう宮藤さんに紹介された金城さんが先頭で行くぞ!と大きく声を出した瞬間、俺の肺は悲鳴をあげた。どんだけ時間が経っただろうか、1時間は経ったはず、やっとジムの姿を目でとらえた頃にはしっかり外は明るくなっていた。
岡本 ねーねー!きのう会った嘉藤くん?だよね、どう初日のロードワークは?頑張ってついてきてたね!お疲れさま。
嘉藤 あ、ありがとうございます!もう頭痛いです。
岡本 へへ!(笑)、酸欠だね~、あとね、うちらはもう家族だから敬語は厳禁。コーチと村じいと話すとき以外は基本敬語なしでOKだよ。慣れるのに時間かかると思うけど、繋がりを深めるためには必要なことなんだ。僕は誰にも敬語使わなすぎて昔アイドルファン同士でよくケンカになってたけどね。(笑)
嘉藤 あ、はい、えっと、うん。なるほど、
岡本 朝練はこれで終わりだから、午前練習でね、じゃね!
気づけば朝6:30、部屋に戻りシャワーで汗を流してから食堂で食べられる量より少なめで朝ごはんを済ませた。再び部屋に戻り、時間まで少し体を休ませるためにマッサージをしてみた。
朝8:30から午前の練習が始まった。宮藤コーチが最初に白い紙を4人に配った。その内容はボクシングプロライセンス試験と書かれた案内書だった。
宮藤 今年の12月にプロテストがある。金城は既に昨年合格しているが、岡本と高山は昨年合格を果たせなかったな。そして、嘉藤くんは初めて見ると思うが、ボクシングにはプロとアマがある。プロになれば将来的にはボクシングでご飯を食べていける職業にできるわけだが。まず!今のチームの目標はプロテストに全員が合格することをここに共有したい!
金城 俺はどうすれば?
宮藤 金城には3人のサポートと来年行われる四季トーナメント戦へ向けてトレーニングを中心に動いて欲しい
金城 はい!
岡本 なんとか今年こそ合格して、ナイト娘のもえちゃんに褒めてもらうんだからな!
高山 昨年の反省を生かして俺も頑張ります。
嘉藤 展開がはやすぎて、ぷちパニック起きてます。
宮藤 うん、嘉藤くんはジムメンバーの胸を借りるつもりで思いっきりボクシングをやってみて欲しい。今日からは個人練習とチーム練習を分けて進めていく。個人練習の組立は自由だ。相談にはもちろん乗るが各々の特徴に合わせた方法で励むこと、チーム練習はどんな内容でも協力すること、全てに意味はあると考え集中して取り組むこと!いいか!?
チーム全員 はい!!!
俺はプロになるのか?そもそも何かを目指すために入ったわけではなかった。だけど不思議とこのチームの中にいると、なぜかスイッチが押されると言うか、気合いみたいな何かを注入された気がして、集中力が増す感覚だ。なんとなく野球部に似ていると、そのとき感じた。
午前練習は個人練習で、午後はチーム練習で進めることになり、俺は宮藤コーチとマンツーマンでの練習が始まった。
宮藤 嘉藤くん、まずはみんなの邪魔にならないようちょっと脇の方で今日は練習しよう。
嘉藤 あ、はい
宮藤 これからボクシングに必要な要素の一つである反射神経を鍛える練習を始めるが、反射の力は相手のパンチを避ける、そして相手の動きをしっかり追視する、その後相手がこれから何をしてくるかを推測する力に直結する大事な力だ。嘉藤くんには今の自分の力をしっかりと理解し、さらには能力を向上させるためにどうすればいいのかを考えて練習して欲しい。
嘉藤 はい、わかりました!
宮藤 うん、じゃあいくよ。嘉藤くんはこの白い丸の中に立って、ここから出ちゃだめだよ、そしてボクシングポーズでこっちを見ていて。
宮藤コーチがおもむろにスーパーの買い物かごを左腕にかけ、何やら黄色い小さな玉を思いっきり投げつけてきた。俺はとっさに避けた、コンコンコンと音がして玉を見た。ピンポン玉だ。
宮藤 はーい、次いくよ。ちゃんと両腕でファイティングポーズはキープ!
どんどん来る。黄色だけでなく白色もある、ちゃんと玉の出所を見なくては、初めは避けれたが気のせいか玉速が段々と、痛い、痛いです。うん、ガンガン顔にあたってる。目痛い、ほっぺも地味に痛い。黄色い玉はなんとなく流れが分かってきたが白色がなかなか捉えにくい。宮藤コーチのかごが半分ぐらいに減ってきた、ファイティングポーズで両腕を上げた状態も地味にきつい。疲れてきた、集中力が散漫になる。右に左に下にと上体を動かすのもハードだ。息が切れてきた。目も玉の動きを見極めるのに集中力を使うな。
宮藤 どうした?もうへばったか、あともうちょっとだ!集中!
きつい、段々体を動かすのもしんどくなってる。あと、コーチの玉がなんか変化してる気がするんだが、いや、してるな。変化球織り混ぜてきてる、避けたと思った玉が顔に吸い寄せられるように当たるんですが、痛いです。ピンポン玉でも顔腫れるんじゃないかと思う程当たってる気がする。でも、かごもあとちょっとだ。集中しろ、出所をしっかりと見ろ、シュッ!最後は白色の玉だ、うん、また変化球だ。ゴッと音がしてスイッチが切れた。横に倒れた。目の前には白色のごつごつと凹凸のある玉が転がっているのを視界で捉えた。
嘉藤 最後の、ゴルフボールじゃん。
宮藤 残念、当たり引いちゃったね(笑)休憩休憩!ちゃんと水分取ったらもう一回やるぞ~。
15分後、再び宮藤コーチとピンポン練習が始まった。2回目はもちろん避け切れはしないものの、出所はなんとか見えるようになってる気がする。だがピンポン特有の起動とランダムでくる変化球への対応に遅れが出る分、両腕と上体に疲労が蓄積される為、なかなか集中力が続かずにゴルフボールで召される、と言うルーチンにはまってしまう。3回目から、目が玉の速度に慣れてきたのか疲労はあるものの、無駄な動きや呼吸の乱れが減り、ある程度は避けれるようになってきた。
宮藤 よーし、なんとなく感覚が研ぎ澄まされてきたかな。次のステージはピンポン玉に書いてある数字を答えて避ける。これができたらお昼ごはんに行っていいぞ。
嘉藤 数字!?でも、玉は回転してますよね?全部答えないとダメですか?
宮藤 うん。じゃあ20個で手を打とうか!はい、位置について~
はい!はい!と言う宮藤コーチの掛け声と共にびゅんびゅんとピンポン玉が投げられるのだが、凡人の俺が数字を答えるどころかまず数字すら見えないと言うカオスが訪れた。だが、昼ごはん抜きはまずい。午後の練習もある。空腹が逆に集中力を増し、黄色と白色のピンポン玉に黒字で書かれているのは分かってきた。更に地味に太字で書いてあるからまだなんとなく読み取れそうだ!うん。俺なりの捨て身策だ、顔面3㎝距離で数字を答える方程式だ!いくぞ!3,1,7,4,8,2,0,6,3,10,5,6,11,15,20,21,14,17,19,13,ん!?女子!!?ゴッ!
あぁ、20個行けたのか?そして何だ?最後の玉!数字書いてあったか!?ちゃんと見てないが、たしか若い女の子のような顔の写真のゴルフボールだったよな!?
宮藤 うん。お疲れさま、嘉藤くん合格!食事に行ってらっしゃい!20個クリア。
嘉藤 よかった~
ゆっくりと岡本くんが近づいてくるのが見えた
岡本 へへ、今のは僕の応援するナイト娘のもえちゃんの顔を特別に作ってもらったゴルフボールなんだ~、かわいいでしょ嘉藤くん!?こっそり潜在意識に刷り込もうと、かごにこっそり入れといたのさ。
嘉藤 (心の声)クソっ、、、岡本、、ゆるさんぞ、、、
ひとまず午前の練習は終わったものの、既に疲労は蓄積しており、まともに考えることはできなかった。とにかく空腹を満たさばと食堂でゆっくりお昼を食べた。
午後13:30からチーム練習が始まった。宮藤コーチはチーム4名をジムの外へ集まるよう指示し、道路前できょうは新井公園に行くと言われた。ジムから歩いて行く途中、両脇に3mちょっと位の木の高さに桜が咲いており、風で揺らいで、少し散った花びらが地面にひらひら舞いながら落ちていた。練習がなければここでゆっくりお花見しに来たいな、と癒されながら歩いて10分くらいで公園に着いた。
宮藤 ここはご存知の通り、村松さんが特別に市にお願いして作って頂いた公園だ。今日は砂場コースでシャトルランを中心に足腰を鍛えていく。まずは2人1組になってストレッチをしてくれ。
チーム全員 はい!!!
岡本 じゃあ、嘉藤くん一緒にやろうよ!
嘉藤 あ、うん。
岡本 さっきピンポンの練習やってたね?どうだった?楽しかった?
嘉藤 めちゃくちゃハードだった、あと君でしょ!あの女子の顔写真の?
岡本 あれ見た?いいでしょー、綺麗に出来上がった作品の一つなんだー、もえちゃんって言うんだよ!僕のおすすめ。へへ
嘉藤 もえちゃんね、悪い意味で覚えとくよ。
岡本 まぁ怒らないでよ。そおいえば嘉藤くんって名前は何て言うんだっけ?
嘉藤 薫だけど
岡本 薫ね!いい名前だね!これからは薫~て呼ぶね!僕のことは岡本じゃなくてゆうすけって呼んでよ!
嘉藤 いや、岡本で呼ぶわ!
岡本 恥ずかしがんなし~
宮藤 はい!岡本、うるさいぞ!ストレッチは済んだな、始めるぞ~、まずは時計回りにランニング10周!
ん、ちょっと待って、この砂場、でかくないか?幅は5mか、まあいいとして、長さが25mはあるだろ?さっき宮藤さんが村松さん特注とか言ってたのは公園をジム仕様にする為ってことか!この砂場、細かい砂と粗い砂が半面ずつになっていて走りづらい。これは嫌な予感しかしない。
宮藤 よし、まずはこちらに並んで、2人ずつ向こうの端までダッシュだ、向こうに着いたらまたこちらにダッシュで戻る。これを10本。次は1往復ダッシュを10本。その次は2人1組でおんぶで1往復10本だ。それぞれ5分の休憩を挟んでいく!
チーム全員 はい!!!
この砂場、スタート側に細かい砂があるから、足の力を吸収されやすく踏み切りが弱くなり疲れやすい。向こう側の粗い砂のほうは逆に反動が膝腰に直で乗っかるから、こっちもこっちで疲労がくる。
宮藤 この練習は下半身の強化に意識して取り組んで欲しい、足の指で砂を掴む感覚、必要最低限の筋肉を使い膝腰に負担をかけない。だが、下半身に集中しすぎて腕をしっかり振らないと足は前にでないぞ~。おんぶダッシュは重心の位置を捉えながら走るから自身の体幹を磨く練習にもなる。ちゃんと前を見て走れ~。
きつい、ダッシュだけならまだしも、その後のおんぶダッシュは重力が何倍にもかかってるように感じる。今回のペアは高身長の高山くん、分が悪すぎる。重い。重い。気力でなんとか前に前に。呼吸を整えろ。集中、集中。体幹、体幹を鍛えるんだ!
宮藤 はい、お疲れさま!5分休憩したら次は手押し車で1往復10本ね。あと言い忘れてたけど、砂場にはウンチがあるかもしれないから手着くときは気を付けてね~
コーチ!それ一番最初に言ってくれ!こんなに走り回った後に言わないでくれ!の表情で宮藤コーチを全員が見つめる。
その後、手押し車で金城くんが見事に右手に犬のウンチを押し潰してしまい、公園にあった水場で30分くらい手を洗っていた。そのときばかりは練習は中断となり、宮藤コーチが金城くんの耳元でずっとごめん、ごめん。本当にごめんな。と、連呼していたが、金城くんの目がずっと死んでいたのをチーム全員が同情の目で見守っていた。その後、往復ダッシュとおんぶと手押し車を10本3セット行い、心も体もボロボロになったところで、急にどしゃ降りの雨が降ってきた。きょうは早めに午後練習は終了と言われ、17時にはジムに帰ってこれた。ジムに着き、全員びしゃびしゃになってしまったのを寮母の喜美枝さんが見て、先に共同風呂に入っておいでと許可が出たのでみんなで入ることになった。コーチは濡れた練習着の洗濯を喜美枝さんに命じられたのでお預けとなった。
岡本 薫~お疲れさま!もう体ボロボロだよな。ウンチ事件のときの宮藤コーチには笑ったけど、へへ、
嘉藤 不運だよ。雨に助けられてよかった。おかげで念願のお風呂も楽しめるし!
岡本 めちゃくちゃリラックスできるよ~、うちの温泉は、ずーっと入ってたいくらいだよ。
金城 お前らはいいよな、ウンチ触ってないもんな。あの感触味わったことないもんな、しばらくトラウマだよ。村じいの砂地獄だ、、、
高山 タケルくんの触ったウンチは僕がちゃんと公園の花壇に埋めておいたよ。肥料になると思って。
金城 あー、登、ありがとう。俺のトラウマごと供養してくれたんだね。うん、お風呂入ろう。背中流すよ。
めちゃくちゃ落ち込んでいた金城くんだったが、高山くんのおかげで少しは毒が抜けたようだった。この日以来、ジムの選手の間で砂場の練習場のことを村じいの砂地獄という名がつくことになった。雨で濡れて少し冷えた身体が、寮生活初めての温泉で心も体も暖められ、ボロボロの筋肉たちも癒されているように感じた。その後、食堂でたっぷり晩ごはんを食べ、気持ちよくお布団で寝た。
翌日、朝5時のロードワークをこなし、朝食を済ませ、午前練習までゆっくり過ごした。朝8:30の午前練習は宮藤さんとの個人練習。
宮藤 嘉藤くん。きょうは縄跳びをやろう。
嘉藤 はい、(3本の縄跳びが床に置いてある)
宮藤 一般的な縄跳びではなく、ジムにある縄跳びは1,3,5㎏の重りのある縄跳びを使う。縄跳びはジャンプをするため持久力が必要だ。加えて重りのある縄跳びを回す手首の力も鍛えられる。今日は、1㎏の縄跳びで10分間飛び続け5分休憩1セットを10セット、次は二重飛びで3分間5分休憩を3セットをやってみよう。
きょうは縄跳びか、中学生以来じゃないのか?うん、ちょっと重いな1㎏でも。飛び続けないといけないからそんなに高く飛ぶともたないし、手首に力が入り過ぎても疲労が溜まる。ずっと正面を見つめてるから景色が変わらず飽きがくる。たしかに持久力が付きそうだが。
宮藤 さぁ、始めるよ~、スタートー。
10分て短いようで長いな。やることは単調なだけに注意力が散漫になりやすい。集中だ、呼吸を整えろ!飛び続けるんだ。縄跳びが床に当たる音がリズムを刻んでいく。チャッチャッチャチャッ。段々集中力が増していき、なぜだか気持ちよさすら感じてきた。
岡本 すいません宮藤コーチ、練習中の所。僕が今応援してるアイドルの講演会が近くで開催されるんですけど、その案内のポスターを期限着きで貼らせてもらってもいいでしょうか?
宮藤 あぁ、村松さんには許可もらってるのか?
岡本 はい!さっきOKもらいました!
宮藤 うん。じゃあ、あまり目立たないとこならいいぞ。
岡本 やった!ありがとうございます。じゃあ、ここに貼りますね~。練習戻ります~
と言って、岡本はにやにやした顔で、俺の縄跳び中にちょうど俺の目線の高さの所に割と大きめのポスターを貼って去っていった。あいつ、わざとだ。うん。平常心、平常心。うん。ナイト娘か、うん。もえちゃんのフルネームは星野もえ。うん、うん。
宮藤 うん。嘉藤くん、いい集中力だね。まずは1重跳びクリア。休憩終わったら二重飛びだね。
嘉藤 はい。
やばい、、、岡本のせいで、変なアイドルのことめちゃくちゃ覚えてしまった!頭から離れない。縄跳びに集中していたはずなのに、目線の先にあるがあまりに綺麗に情報を吸収してしまった。不覚だ。俺はなんて愚かな人間なんだ。あんなアイドルにちょっと人間味を感じてしまうほどに読み込んでしまった。
宮藤 はい、休憩おしまい。二重飛びレッツゴー!
いかん、いかんぞ。縄跳びに集中しろ、今度からは二重飛びだ。難しいぞ。ジャンプも少し高めに、そして手首のスナップも早くしないと飛べないんだ。今までの疲労もあり、結構きつい。3分間が長い。邪念は捨てろ、無心になれ。呼吸を整えろ。よし、続いてる。いいリズムだ!
宮藤 はい!終了!嘉藤くん、縄跳びは得意みたいだが、目がなんか、こう、血走っているように感じたんだが、平気かい?
嘉藤 はい。いや、なんか、邪念と闘ってたからだと思います。
宮藤 うん。そう言うことか。ちょうどお昼の時間だから食事に行ってらっしゃい!
お腹が異常に空いている。予想以上にお昼ごはんをよそってしまった。早めに食べて消化の時間に当てよう。一応岡本がいないかもチェックしながらなっ!
午後練習はチーム練習が始まった。既に床にはブロック塀のブロックと板、あと瓦と白いタオルが用意されていた。一目でわかる、空手でよく見る板割りと瓦割りの用意がされている。
宮藤 ご覧の通り、みんなには拳で板と瓦を割る練習をしてもらう。パンチ力も大事だが、それよりもまずは一点集中に意識して欲しい。嘉藤くん以外は経験者だから、自分の目標枚数を越えれるように頑張ろう!
チーム全員 はい!!!
なぜか、初心者の俺が先発になった。まずは板1枚に挑戦したがコッと軽い音がした。痛めた拳を褒め称えた。俺の勝手なイメージだが、空手家は呼吸から入り集中力を高めているのではと思い、真似して呼吸を整えてからハッと声を出し、床に拳をぶつける勢いで真っ直ぐ突き下ろした。パキッと音が鳴り、なんとか割ることができた。そして、すぐに木の板は瓦に代えられ、宮藤コーチにはい!と笑顔でやれと言われた気がした。まず一発ゴッと割れない素晴らしい音がして顔をプルつかせた。俺はもれなくさっきと全く同じ戦法で、空手家の如き大声をアイッと上げて拳を突き下ろした。するとパキンと明るい音がして、瓦を見ると割れ目がついてはいるが、ブロック塀の上で形はキープされた状態だった。俺は気になったので瓦を持ってみたら、ちゃんと半分に割れていて、割れた片方の瓦が床に落ちた。もう拳が悲鳴をあげてプルプルと震えていた。
宮藤 うん!お見事だね!ナイスファイト!今日はみんなのやり方を見て勉強する時間にしようか!拳はこれで冷やしておきなさい。(アイシングを渡される)次、岡本、高山、金城の順で瓦割り行きましょう!
岡本が瓦割りの準備に入った、真剣な表情だった。瓦は10枚重ねられ、目をつむって一呼吸すると、瓦に対して体を横向きに右ひじを90℃に曲げ拳を瓦の上に置いた。そしてゆっくりと息を長く吐き、スッと吸い込んだ瞬間拳を叩きつけた。と同時に叫んだ。もえちゃん大好き!、は聞かなかったことにしたが、1枚残して他はキレイに割れていた。
次は高山くん、ここに来て高身長を羨む、瓦10枚に対して真っ正面に立ち、落ち着いた表情を見せる。そして静かに息を吐いていた。シンと静かな時を感じながら目をつむり、そのあとすぐにかっ開いた目と砲口と右腕が轟きを起こした。おおお!と力強い声に俺の体も震えるほどだった。見事に10枚が割れた上に、上段の瓦は細かく割れていた。物凄い力だったのがわかる。
最後の金城くんは、15枚重ねていた。2人よりも5枚も多い。瓦の高さがあるため、足場を高くし調整している。思いっきり深呼吸をしたあと、もう一度ゆっくり息を吸い込み、一秒、二秒、時を刻み、後にハアアア!と大声を出しながら拳を打ち込んだ。瓦が割れるパカーンとゆう甲高い音がジムに響いた。結果は1枚だけ残ったか?宮藤さんが確認する。
宮藤 うん。金城くん最後の1枚崩れてないけど、ちゃんと割れてるよ。お見事!他の2人も前回の記録を更新できたね。素晴らしい!
空手道場に来たかのような感動だった。武道の美しさすら感じた。自分と向き合う時間をうまく作り上げ、呼吸法で集中力を高め、閃光のような一線で拳を貫いていた。呼吸の大切さが明確になった瞬間だった。
宮藤 嘉藤くん!今の勉強を踏まえてやってみるかい?
嘉藤 はい!お願いします!
瓦は5枚にした。なぜかこの枚数なら行ける自信があったからだ。まずは立ち位置、拳を瓦の上に置き、体の中央ど真ん中に拳が降りる位置でセット。その状態で目をつむり、深呼吸する。ゆっくり空気を吸い込み、ゆっくりと吐く。そして深く息を吸い込み目を見開く。だあああ!とうなり声を出し拳を床に突き刺すイメージで打ち込んだ。ばりいん!響いた瓦の割れる音、拳は痛くなかった。不思議な感覚だった。
宮藤 お見事!うまくできたみたいだね。今日は終了にしようか。掃除は丁寧にみんなでやりましょう!
チーム全員 はい!!!
今までの練習の中で一番達成感があったのか、そのあとのことを上の空でしか覚えていない。気づいたらもう布団の上で天井と右の拳を見つめていた。何だか今でも信じられない。すごい嬉しかった。そのままゆっくり眠りについた。
翌朝5時、ロードワークに出かける。疲労感が残ってはいるが、昨日の練習の達成感の余韻で気分がいい。午前練習はランニングマシンを使い肝心の呼吸を意識しながら励んだ。通常のウォーキングからジョギング、ランニングとスピードを慣らしていき、マラソンスピードでキープしてもらい走り続けた。呼吸を意識することで、筋肉の動かし方も均一になり、安定した動きをすることができると感じた。疲れはたまるが精神的な乱れがほとんどない為、無理なく走り続けられる。そう言えば、ジムの練習初日の直前に村松さんに「大切なのは呼吸じゃよ。」と声をかけられたことを思い出し、改めて村松さんの偉大さを感じた。
宮藤 いい感じだね嘉藤くん。はい、これつけてみて。
白いマスクだった、不敷布って言うやつらしいがイマイチ名前を聞いても意味はわからない。装着して走ってみる。うん、当たり前だが息が苦しい。呼吸が整えられない。マスクが顔に完全にフィットはしていないけれど、吸える酸素が低下している。自然と口呼吸になってしまう。苦しい。乱れている。落ち着け。マスクの呼吸に体を順応させるんだ。呼吸の仕方にも様々ある、適度に吐いて適度に吸う、限られた条件の中でベストな呼吸で走るんだ。よし、段々慣れてきた。このスピードなら行ける。あとは体力次第だ。
宮藤 うん。状況判断して対応できたね、気づいていないかもだが、最初から1時間は走ってるよ。体力は大丈夫かい?
嘉藤 はい、あともう数キロなら。
宮藤 無理はしない。一旦スピードダウンしていくから体を慣らしてね。15分休憩しよう。
結構な時間走ってたんだな。マシンだとその場から動かないから時間の感覚がまるでわからない。汗は結構止まらないが、マスクをとると空気が肺いっぱいに入ってくれて気持ちがいい。マスクって結構侮れないんだな。
そのあと、ランニングマシンの効果的な利用アドバイスを宮藤コーチから指導を受け、ウォーキングしながら雑学問題に答えると言う宮藤コーチ考案の脳トレをやった。そして、お昼ごはん30分前にもう一度マスクをつけてのランニングを行った。
宮藤 マスクなんだけど、今度はこっちのマスクを着けてみて。
嘉藤 はい、え、これ、布マスク、濡れてません?これつけるんです?
宮藤 うん。走ってみて。
やってみた。当たり前だが吸う空気などなく、布に染みたたくさんの水を口に吸い込み吐き出した。やればやるほど布から水がなくなるので徐々に呼吸はできるが走れる訳がない。これは危険すぎる。誰も真似しちゃいけません。
嘉藤 コーチ、これは無理です。死にます。
宮藤 嘉藤くんでもダメかー。苦しい思いさせてしまってごめんね。無謀だったね。
嘉藤 無謀すぎます!他にやった人いました?
宮藤 うん。岡本は掃除機並みの吸引力で一気に水分飲み込んで走ってたけどね、でもその後すぐにグロッキーになってたよ。
嘉藤 コーチの好奇心も度を越さないように気をつけてください。
宮藤 うん。反省反省、お食事行ってらっしゃい!
ドSコーチだな宮藤さんも。明るい顔と爽やかな声で言われるとつい信じてやってしまう俺も俺だが、今後は気を付けよう。そしてみんなにも伝えておこう。お昼ごはんを食べ終え、午後練習はチーム練習が始まった。
宮藤 今日は、2班に分かれてミット打ちとパンチングボールの練習をやる。金城・高山ペアは先にミット打ち、岡本・嘉藤ペアはパンチングボール、1時間練習30分休憩でローテーションして1時間練習30分休憩でやっていく。その後は、座学をやって終了のスケジュールだ。まずは準備運動から入ってくれ。
チーム全員 はい!!!
宮藤 嘉藤くん、君にご両親からお届けものがあるからちょっときて。
嘉藤 あ、はい!
宮藤コーチに村松さんの部屋へ案内されると、木の椅子に座った村松さんが待っていた。
村松 嘉藤くん、元気に練習に取り組んでるようだね、ちゃんと私も見ているよ。
嘉藤 ありがとうございます!
村松 ジムに入団する前に歯医者さんにマウスピースを作って来なさいとお願いしたね。まずは完成品が届いたから渡すね。そして、もう一つ、これはご両親が嘉藤くんにこれからボクシングに向けて頑張って欲しいとジムにお電話があってね。そこで私の提案でもあるんだが、ボクシングの要であるグローブを君にと、お父さんが届けて下さったんじゃ。はい。軽くつけてみて。
嘉藤 父ちゃんが!?はい。
まず、マウスピースは以前ジムにお世話になる前にたけしおじちゃんに連れていかれ、専用の歯形を作ったのだが、いざちゃんと完成品をつけてみると上顎がグッと出っ張るのが気になった。けれどたしかに力を入れるのにはいい道具かもしれない。それよりも、お金の面で苦労をかけてる両親がわざわざグローブをプレゼントしてくれるなんて思ってもみなかった。しかも手首の内側に薫と刺繍までしてある。高かったろうなぁ。新品のにおいと少し父ちゃんのトラックのニオイが感じられて懐かしい気持ちになった。つけ心地はちょっとぶかっとしてるけど、宮藤さんいわく、拳にテーピングをしてからグローブをつけるとピッタリになるから大丈夫らしい。めったにプレゼントなんてもらったことがなかったから余計に自分の胸が熱くなった。これは一生ものだ。ボクシングをやめても宝物にしよう。
村松 くれぐれもケガには注意してね。はい、行ってらっしゃい!
宮藤 練習に戻ろう。
嘉藤 はい!
宮藤 まずは、パンチングボールの使い方だが、岡本、軽く打ち込んでみてくれ。(岡本がいつも自分がしている練習をしばらく続ける)目線より少し高い位置の天井に吊るされたボールにリズム良く打ち込んでいくことで、動体視力・リズム感・コンビネーション・腕力を鍛えることができる。右手打ち、左手打ち、両手交互打ち等バリエーションは個人のスタイルによって変わっていく。決まった型はないが、自分で流れを作ると集中して取り組めるだろう。よし、岡本ありがとう!嘉藤くん、テーピングとグローブをしっかりセットするからこのイスに座って。
嘉藤 あ、はい!
初めてのテーピング作業とグローブのセットを宮藤さんにしてもらった。すると、手際よく宮藤さんがテーピングを始め、右手から次に左手、終わると手をグーパーして、と言われ、大丈夫だとOKが出た。次にグローブをつけた。たしかにピッタリだった。グローブはもちろん大きく感じるが、なんとなくだが体の一部になった感覚もある。これがボクサーのスタイルなのだと実感した。
宮藤 よし。嘉藤くん、自分なりのやり方で良いからバンバン打ってみよう!時間は10分間。次に岡本が10分間のローテーションを3セット、終わったら休憩ね!
嘉藤・岡本 はい!!!
岡本 お先にどうぞ!薫っち!
嘉藤 お、おう!
さっきの岡本の見よう見まねでやってみる。まずは、右手打ち、以外にグローブの分もあってか腕が重い。ボール自体は軽そうだがバネの部分が若干強度がある感覚だ。リズム良く打つのにも時間がかかる、連続してキレイに打ち込むのも集中力が必要だ。次は左手打ち。利き手じゃないから余計に力加減が難しい。最後に交互打ち。最初は当たるが次からがなかなか連続して当たらない。練習が必要なわけだ。呼吸を整えてからコツコツ当てていこう。
岡本 はい、交代~、薫っち、俺はいつもねやる気を上げるためにこれをここに貼ってから練習するのを編み出したのさ、へへ!
岡本のポッケから丸い写真のようなものがボールに貼られた。そこにはあのアイドル、もえちゃんの顔写真が写っていたのだ。
嘉藤 それ、もえちゃん殴ることになるからやる気出ないんじゃ?
岡本 これは実際のもえちゃんではないし、この位置から打ち込むと、もえちゃんと丁度目線が合うから、ずっと応援されてる気分になるから最高にやる気が出るんだよ!
そう言って、岡本はボールをびゅんびゅんリズム良く打ち込んでいた。そして、やる気が上がりに上がったからなのか、ボールに貼られたもえちゃんがボールの弾みの残像でいくつものもえちゃんが表れた。岡本の姿は完全にアイドルライブの最前列で無双状態に入り込んだかの様に、空間をねじ曲げているようにしか見えなかった。
宮藤 はーい、パンチングボールはそこまで。お疲れさま!休憩です。
休憩が終わり、ミット打ちの練習が始まった。
宮藤 ミット打ちの練習は、ボクシングの攻撃に特化した練習とも言える。ファイティングスタイルを常に意識し、きっちりミットに向かって打撃する。下半身の重心と柔軟性、上半身の反射神経と動体視力を有効的に使わないと、体力はどんどん消費され、集中力は低下する。岡本は普段の通り、嘉藤くんは初めてだからゆっくりケガのないように進めていく!
岡本・嘉藤 はい!!!
宮藤 先に嘉藤くん、いこう!
宮藤さんが両手に赤色のミットと呼ばれる分厚い卓球ラケットのような道具をつけて立っている。まずはファイティングポーズをとる。両腕を上げ、グローブは顔の正面におく。膝は少し曲げ、右足を後ろに引いて呼吸を整える。
宮藤 よし、まずは右ストレート。真っ直ぐ俺の右手ミットに向かって打ってみてくれ!
バン!と音がなる。衝撃はあるが痛くはない。もう一回、バン!。そのあともしばらく右ストレートを連続して打ち込んだ。
宮藤 うん。次はジャブだ。左手を前に軽く突きだすイメージで右ミットに打ってみてくれ!
バ!軽い音がした。これは簡単だし全然痛くない。バ!バ!バ!しっかり右ミットを見つめて打ち込んだ。
宮藤 OK。次はワンツーパンチ、左ジャブを打った後に右ストレートを打つ。俺の右ミットに連続で打ってみてくれ!
バ!バン!と連続で打ちならす。ボクシングの型っぽくなってきた。その後も連続でワンツーの練習を続けた。
宮藤 いい感じだね。次は打ち込み続ける連打をやってみよう。俺の両手のミットに連続で嘉藤くんの右と左のパンチを2回ずつ打ってみてくれ!
バ!バ!バ!バン!と4回打ち込んだ。これは、相手が弱っているときに使うラッシュってやつらしい。
宮藤 そう!じゃあ今のを連続でどこまでできるかやってみようか!とりあえず1分間!ゴー!
打ち込む。ひたすらミットに打ち込み続けた。的確にミットに打撃をし、リズム良く拳を動かす。両腕が重たくなってくる。目線も下にいきがちだ、集中。苦しいときこそ呼吸に意識して整えるんだ。宮藤コーチがミットの位置を外側や内側、顔付近やおなか付近に移動させている。しっかりミットを狙え!だぁぁあああ!と自然に声が出てしまったが続けて打ち込んだ。
宮藤 はい!終了~、頑張ったね。お疲れさま!休憩しよう。次に岡本いくよ!
岡本 はい!
疲れたー。けど打撃練習は少し気持ちが良かった。無心になれる気がして邪念がなくなる。だが、腕がもう悲鳴をあげている。そして、岡本は何やらコーチのミットに丸い何かを両方に貼り付けていた、無論もえちゃんであろう。貼り終えた後に俺の方に振り返った顔が全てを物語っていた。その後は、言うまでもないが遊園地のパレードを見ている子どもの様にゾーンに入った岡本を俺は遠目から見ていたのだった。
宮藤 うん、終了~。調子いいね!はい休憩。
岡本 はい!ありがとうございます!
その後もローテーションで2回ずつミット打ちの練習に取組み30分の休憩に入った。
宮藤 みんな休憩とれたか~?じゃあそこのイスに座ってくれ。お勉強です。
宮藤コーチがホワイトボードを移動させながらみんなを集めた。ボードには学校の保健の授業で使うような人体の上半身の内臓丸出しの絵が貼ってあった。
宮藤 今から、人体の構造について勉強してもらう。まずは、この絵を見て胃と肝臓の位置をしっかり覚えておいて欲しい。ボクシングでよく選手が狙われるのは顎・胸部(心臓)・腹部。なかでも、脇腹とみぞおちは筋肉が付きにくい場所の為、どの選手も弱点となる。腕は二本しかないので、守れる場所はどうしても顔面メインになってしまう。攻める側としては、狙いにくい顔面より腹部からダメージを与え、後半に顎や胸部を狙いたい。守る側としては、顎を守りつつ足をこまめに動かして腹部への強打を軽減する。ここで、先程の絵に戻って欲しいのだが、みぞおちの部分には心臓・胃が隠れている。そこを理解した上で右ボディでダメージを与える。決して強打でなくとも軽いパンチを何回も当てにいってダメージを与えるのも良い。次に、肝臓の部分を狙うには相手の右脇の下を肋骨の上から左のボディブローで打ち込む。綺麗に打ち込めれば簡単にダウンがとれる。ただ、相手も考えていることはほとんど一緒。いかに自分の距離感・攻めのコンビネーション・足のステップをうまく使って打ち崩せるかが要になる。理解できたか?
チーム全員 はい!!!
宮藤 うん。このボードは置いておくから、しっかり目に焼きつけて練習に反映するように。今日はこのへんで終了!晩ごはんの時間だね。お疲れさま!
すごいなぁ。ただ顔面やお腹を狙って殴りあってるだけかと思ってたけど、想像していたよりも理解力と集中力、さらに的確な実戦力が求められるスポーツなのだと思った。この絵をちゃんと頭に落としこんでノートに書いておこう。腹減ったー。きょうもぐっすり眠れそうだ。晩ごはんは抑えぎみに食べ、忘れないうちにノートに細かく書きこみ、布団に入りすぐに寝た。