ばたばた
江戸後期。
関東平野の郊外のどこかに、その家はあった。かつてその一帯は世にも珍しい蝶々が出ると評判になり、浮世絵にも描かれ、多くの江戸町人達に夢を与えた場所だった。
その蝶は、名前を七色揚羽と呼ばれていた。文字通り羽の模様が虹のような七色なのだと言う。
その蝶を探しに、ある人は江戸から、ある人は大阪から、はるばるこの辺鄙な郊外に足を運んでいたのだが、ある時期を境にぴったりと目撃情報が途絶えてしまう。それ以来、蝶を探しに来たハンターや観光客の為に作られた旅館や店は次々と閉めて行き、残っているのは「吉野」という茶店など数軒しかなかった。
その茶店吉野の主人欣衛門は、今日も閑古鳥の鳴く店で番をしていた。彼以外の従業員は長年連れ添った女房のみである。
「おい、婆さんや。もうじき日が暮れるが、お客もこねぇみたいだし、今日はもう店じまいにしようや」
奥で茶を淹れていた細君(とは言っても随分恰幅の良い「おばあ様」である)はおぼつかない足取りで店頭にやってくると、
「おじいさん、この間ちょっと不思議な話を耳にしたんですが」
と、話してくる。
「不思議な話? 何だい、七色揚羽でも出たってのかい」
言いながら苦笑いをせずにはいられなかった。何しろ最も揚羽に出てほしいのは他ならぬ欣衛門なのである。
「いえ、ねぇ。山向こうのお稲荷さんの参道のお店が、このところ繁盛しているそうなんですよ」
「山向こうの……?」
欣衛門は頭の隅に残っていた記憶を掘り起こしてみる。数年前まではその稲荷は随分ご利益があると評判が立ち、参拝客が大勢来たのだが、やはりある時期からご利益がないとプッツリ客が寄り付かなくなったのであった。
「あそこも閑古鳥が鳴いてるんじゃねえのかい」
「じつはあの参道のお店で、草鞋が飛ぶように売れてるそうなんですよ」
「草鞋が? 何でだい」
「お稲荷様のご利益なんですよ。お客さんがぞろぞろ来るようにってお願いしたら、天井に吊るしてあった草鞋が引っこ抜いても引っこ抜いてもあとからぞろぞろ出て来るようになったんですって」
「そんな莫迦な話があるもんかよ。落語じゃあるめえし」
欣衛門はばかばかしい気分を吹き飛ばそうと細君の淹れた薄い茶を啜った。白湯を飲んだ方がマシであった。
「でもおじいさん、信心と言うものは大切だと思いますよ。私も近くのお稲荷さんに御参りしていますもの」
「はいはい。じゃぁ、ちょっくら行ってくるか」
これは口実で、実際は薄くて不味い茶を飲んでしまったので気分を少しでも爽やかにしたいと思っただけである。どうせ客も来ないだろう。
道を歩いていると、かつての賑わいが嘘のような寂れ具合に溜息しか出ない。数日間好天が続いていたため地面は埃っぽく、少し風が吹けば砂埃が立ち、欣衛門はそのたびに目を瞑って歩かねばならなかった。これが四~五年前であれば、そこそこ大きな店に奉公に来た丁稚が打ち水をしていたものである。その大きな店は三年前に廃業し、今では鼠の棲家になっている。
――いかん、ますます気分が悪くなる。
欣衛門はそんな調子で、あても無く歩いていた。
ふと気が付くと、目の前に寂れた祠が有る。
赤い塗料がほとんど剥げた鳥居も目に入り、狐の像もあることから、ここが細君が毎日通う稲荷様であると解った。
なんとなく歩いて、気が付いたら来ていた……。
何かご縁があるのかもしれない。
欣衛門はそう思うと、鳥居をくぐってみた。改めて祠を見やると、酷い寂れようである。壁に貼ってある白い紙片のようなものは千社札なのか。お供えの徳利は白い表面がすっかり茶色くなり、瓢箪だと言われても信じてしまいそうであった。
「ああ、きったねぇなぁ。一体誰が手入れしてやってんだか。婆さんも毎日お参りに来てんなら掃除の一つくらいしてやっても良いじゃねぇか」
欣衛門はその辺に落ちている棒きれで蜘蛛の巣を払い、手拭いで徳利を磨き上げた。多少白い部分が目立つようになる。賽銭箱をその手拭いで叩くと、埃が舞い上がる。
「さてと、まだまだこれじゃ粉落としみてぇなもんだけど、今日はこのくらいでご勘弁願いたくってな」
欣衛門は懐に手を入れて、一文銭を一枚取り出した。
ちゃりーん。
辺りは静かで、賽銭箱に入る音が殊の外大きく聞こえた。
欣衛門はそのまま柏手を打つ。
「お稲荷様、わたくし吉野と言う茶店を営んでおります、欣衛門と申します。妻がいつもお参りに来ているようですが、大した手入れもしてねぇようで申し訳ございません。今後わたくしもお参りいたしますので、なにとぞどうか、宜しくお願い致しますです。はい」
その程度の参拝だったが、それでも帰り道の欣衛門の心は、何となく軽くなっていたように感じられた。
「あら、お帰りなさい」
「うん……」
欣衛門は軒に面した椅子に腰かけた。
「何だ、たまにはお参りすんのもいいもんだな。気持ちが少しばかり軽くなったみてえだよ」
「そうでしょう。ひょっとしたら、じきに何かご利益があるかもしれませんよ」
「だといいんだけどもねぇ……」
欣衛門は相変わらず閑古鳥の鳴く店の中を見渡した。煙草でも吸いたい所だが、大して貯えも無いので我慢している。
「ん?」
欣衛門は目をほそめる。道の向こうから旅姿の男が一人、歩いてきたのである。
男は「吉野」の店先に来ると、そのまま中に入った。
欣衛門と細君は、一瞬目をぱちくりとして、本来商売人が口にすべき台詞を言い出せなかった。
「……何でぇ、あんたら……」
男は店の人間二人が呆然としている様を見て少し引いていた。
「ああ、すみませんです、はい。お客様で?」
「おう、まぁねぇ」
「へへぇ。いらっしゃいまし。いやね、ここんところ滅多にお客様なんて来てくださらねぇもんですから。あい失礼いたしました」
「そうかい。お宅も随分苦労してるんだねぇ。茶でも一杯貰おうかと思ったんだけどね」
「へい、すぐお入れいたします。しばらくお待ちくださいまし」
細君は奥の厨房へ入って行った。すぐに茶が運ばれてくる。
「なぁ、この辺りには、珍しい七色揚羽って蝶が居るんだってな」
茶を啜った旅人は、欣衛門にそう尋ねた。
「へぇ、確かに昔はよく飛んでましたが、近ごろめっきり見なくなりまして。おかげで私ら商売あがったりでございます。ほら、閉ってる店のほうが多いでございましょう」
「昔は人通りもあったのかい」
「揚羽を見つけようと、方々から大勢来て下さってたんですがね。今じゃぁ閑古鳥ばっかしで」
「ふぅん。いやね、俺は虫きちがいでね。珍しい虫には目がねぇんだ。七色揚羽なんて見たこともありゃしねぇ。一度は見ておきてぇとやってきたんだが、そうか。無駄足だったかもしれねぇなぁ」
「誠に、申し訳ない事で……」
欣衛門は、そう頭を下げようとしたが、視線がある一転に釘付けになった。店の看板に、蝶が一羽止まっているのだ。その羽は七色になっており、かつて飛んでいた七色揚羽に相違なかった。
「ひぇぇぇぇ」
欣衛門は驚きと喜びで声を裏返し、体もひっくり返った。
「何だよ、素っ頓狂な声出しやがって……うおぉぉぉ!」
旅人は欣衛門とは真逆に身を乗り出した。目は金剛石のように輝いている。虫きちがいと自称したのは決して誇張ではないようである。
「な、七色揚羽! 飛んでるじゃねえか!」
「い……いや、そんな! 三年以上姿見せなかったのに」
揚羽はそんな人間たちの事など全く眼中に無いような素振りで、ひらひらと風の吹くまま街道を飛んでいく。
「ああっ! 待ってくれ! おい、おやじ。ここに勘定置いとくぜ」
ちゃりんと小銭を置いていくと、そのまま旅人は脱兎のごとく走り出していった。
「……おい、婆さん、今の見たかい」
「ええ……見ましたよ。確かに」
老夫婦は旅人の走り去った方向を見ながら呆然と突っ立っていた。
「おい! ま、まさか、これか? お稲荷様の御利益ってやつは!」
「さぁ……でも、本当に久しぶり。今までどこにいたんでしょうねぇ」
これは欣衛門の方も疑問に思った事である。幼虫すら見たことが無かったし、一羽だけひらりと飛んでいたというのも解せない。
「お~い。良いかい」
いきなり後ろから声がしたので、老夫婦はびっくりして振り向いた。またもや旅人風の男である。
「ちょいと休みてぇんだが。店は開いてんのかい」
「へ、へぇ! 開いております! はい。いらっしゃいまし」
欣衛門は慌てて商売人の顔に戻り、接客を始めた。
客が二人も来て、更には七色揚羽が現れた。偶然と言えばそれまでである。しかし欣衛門には、この一連の出来事があの廃墟も同然になっていた稲荷様の御利益によるものだと思えてならなかった。
男は背負っていた行李をおろし、椅子に腰かける。
「なんだかなぁ、随分寂れちまったなぁ。以前来た時なんか、こんなに閉ってる店は無かった筈だぜ」
昔のこの場所を知る客のようである。
「何しろ揚羽が全くいなくなっちまったんで。でもね、実はつい先ほど、出たんですよ」
「揚羽が?」
「へい」
「へぇ。そうかい。あの蝶は綺麗だったなぁ」
男はどこか遠くを見つめる。欣衛門の見た所、この男は各地を行脚している行商人のようである。この地域へ最後に来た時は、ちょうど七色揚羽が観光の名物となっていたのであろう。旅の疲れを、その揚羽の美しさを見て癒したのかもしれない。
「お薄でございます」
細君が茶を出す。「お薄」と謙遜しつつも、先程欣衛門が飲んだ白湯同然の茶に比べると色が随分と濃いようである。
ズズッ……と、男は茶を啜った。その顔の横を、七色の羽をした揚羽が飛んで行った。
「……揚羽だ」
「へぇ……また……」
欣衛門も細君も、再び目を丸くする。
「いやぁ、そうか。ちゃんといるじゃねぇか。ここも近いうちに、元の活気が戻るといいな」
行商人は行李を担ぐと、懐から小銭を取り出した。
「もう行かれるので?」
「ああ……あいつをもう一度見たかったんだよ」
そういうと、そのまま表の道を歩いて行った。
「おい、婆さん。今、あの揚羽どこから出てきた?」
「いえ、実は、あそこから……」
細君は震える手で天井裏を指さした。
「おいおい、あそこは毎年大みそかに掃除してるんだぜ。蝶どころか鼠の糞すら転がっちゃいねぇや」
と言いながらも、既に欣衛門の足は屋根裏へと続く階段に向かっている。
隙間が空いている板をどかして、中を見た。屋根の隙間から陽が入っているので、存外明るい。
「揚羽なんていやしねぇぞ」
「本当ですか? では、いったい」
「……もしかしたら本当にお稲荷様の御利益なのかもしれねえな」
「あら。おじいさんも遂に信心に目覚めましたか」
「何言ってんだ。おめぇが勧めたんじゃねぇか」
欣衛門が下りてくる、丁度その時、表に客がやってきた。
「おう、ちょいと茶でも一杯飲ませてくれ」
「あ、へい!」
欣衛門は直ぐに客の元へ向かった。すると、欣衛門の頭の上を、例によって七色の揚羽が飛んで行った。
「うわっ! また出た!」
欣衛門は予想だにしない揚羽の登場に素っ頓狂な声を上げる。振り向くと、そこにはただ隙間が空いている屋根裏の入口があるばかりだった。
欣衛門の「吉野」の向かいに、与兵衛と言う男の営む髪結い処があった。しかし、この数年間揚羽が姿を見せなくなったため、吉野もろとも客足が激減した。
今では閑古鳥が上客であるという体たらくであった。
そんな与兵衛が、先程から気にしていることが有る。
向かいの「吉野」に、先程から客が出入りしているようなのだ。
この不景気に羨ましいものである。しかし、あるものを見た瞬間、そんなのんきなことは言えなくなった。
「な、七色揚羽じゃねぇか!」
最初の客はいつの間にか出ていて、行李を背負った薬売りも退店したあと、もう一人客が入っていった。その後に店先から外に飛んで行った揚羽蝶。その羽の模様は七色で、忘れもしない、この地の名物だった七色揚羽そのものであった。
「い、いったい今の今までどこに隠れていやがった!」
与兵衛は慌てて立ち上がろうとして足がもつれ、囲炉裏の灰に頭から突っ込んでしまった。
しかし、与兵衛はそんな事全く気にならないように、向かいの店に直進した。
「おい、欣衛門さんよ!」
「おわぁっ! 何だてめぇは。砂かけ爺か?」
「馬鹿野郎、まだ爺って年じゃねぇや。床屋の与兵衛だよ!」
「あれぇ? どうしたんだよ与兵衛さん。灰を被っちまって。床屋がそんなんじゃおめぇ信用にかかわるんじゃねえのかい」
「そんなもんどうだっていいんだよ! 何だいあの揚羽は。どこに隠していやがった!」
「かくしてなんかいねえよ。いいかい、あの蝶だがな。おれがついさっき、向こうにある寂れちまったお稲荷様に参拝したら、いきなりこんなことになっちまった。あれは凄ぇ効き目だぞ」
「稲荷様が? おい、そりゃ本当だろうな」
「実際蝶も出てるし客も来てるじゃねぇか。お前さんも早く行きな。今ならまだ願いが聞き届けられるかもしれねぇ時分だぜ」
与兵衛は一目散に駆け出す。無論目的地は先ほど欣衛門が参拝した稲荷の祠である。
しかし、薄汚れた鳥居をくぐり、思っていた以上に寂れている祠や稲荷の像を目にすると、その勢いは途端に削がれた。
何だこの有様は。
ハッキリ言って与兵衛の家にある埃をかぶった神棚の方が遙かにましなのである。先程欣衛門が少し掃除をしたとはいえ、例えるならそんなものは、せいぜい墓参りで墓石に水をかけるくらいでしかなかったのだ。
与兵衛はこのような稲荷に御利益が有るとは到底思えなかった。何かほかの秘策があったのではないか。そしてそれを知られたくないから稲荷様に参拝したことを口からでまかせで言ったとしか思えない。
しかし、与兵衛も長い暇な時期を過ごしてきて、このままではさすがにまずいと思ってはいた。
折角来たんだから、神頼みくらいはしてから行くか。
そう思うと与兵衛は一文銭を賽銭箱に投げ入れた。中でもう一枚の小銭にあたった音がする。こんなところに御参りに来る者がまだ居たのかと意外に思い、案外それが欣衛門夫婦なのかもしれないと思うと、願い事を念ずるのにも力が入る。
「お稲荷様。わたくしこの近所で髪結い処を営んでおります与兵衛と申します。どうかあちきの所からも、あの七色揚羽を、一羽……いえ、できますれば、十羽二十羽でも、バッタバタとお出しくださいますよう、平に、平にお願い申し上げまする!」
与兵衛は拝んだ。今までの人生でこれほど神信心をしたことが無い。それ程必死なのである。
「おおい、与兵衛さん!」
そんな夢中の願いは、邪魔者の声に中断された。
近所に住む職人である。
「何だよ、今お参りしてるんだぞ」
「それどころじゃねぇよ。お前さんの所、お客さん来てるぜ」
「なにっ!」
そう聞くが早いか、あわてて与兵衛は店に戻った。成程確かに旅姿や様々な客が店の前に立っている。
「いやいや、お待たせいたしました」
与兵衛がやってくると、待っていた客たちはぶつくさ文句を吐きながらも待合の床に腰かけた。
「あいすみません、一番最初に並ばれていたのは……ああ、あなたで。ではどうぞここへ。お髭をあたりますかい?」
「おう、待ってたんだ、早いとこ頼むぜ」
「へい」
与兵衛は久しぶりの客と賑わう待合に、内心踊りだしたくなる気持ちだった。
心なしか、先程から胸の奥もムズムズしている。
「では、失礼をいたします」
与兵衛は剃刀を持ち、客の髭を剃ろうかと思った時、その「ムズムズ」したものが、まるで嘔吐するときのように、喉元を駆け上がってきた。
「!」
与兵衛は一体どうした事かさっぱりわからず、反射的に口に手を当てようとした。
すると、与兵衛の口の中から、七色の羽を持った揚羽蝶が一斉に何十羽も、バタバタッ。と、飛び出した。
《終わり》