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異世界で家を買いました。  作者: 月下美人
62/199

わな


 なにもなかった。

 さっきとまったく同じような部屋、同じように並ぶ騎士たち、奥の壁には別のタペストリー。

 公爵たちは先に進んだあとらしくすでに姿はなかった。

 おもわず拍子抜けして、「へ?」とか言いそうになったが、平静を装う。

 シャラーラとミーレスも、表情を消して立っていたが、左右に散っていて、なにかあればすぐに防戦できる態勢をとっていた。

 すぐにアルターリアも出てきて、オレたちは次の移動のため、真正面のタペストリーへと向かった。

 今度は声をかけられることなく、正面のタペストリーへと促され、通り過ぎるだけだ。

 「?!」

 出た途端、違和感があった。

 美味しそうな匂い、優雅な音楽。そして、楽しげな笑い声。

 無機質な部屋を通り過ぎてきたばかりであるせいか、世界が違ったかと思うほどの変化に戸惑わされた。

着いた先は、どこの結婚式場かと思うような大広間だった。

 鮮やかな赤絨毯。きらびやかな金の柱。見事な装飾の施されたテーブルの上には豪勢な料理の大皿が並んでいる。

 『移動のタペストリー』はその式場の中間あたりに位置する、スタッフ用の出入り口付近に掛けられていた。じっと見張ってでもいない限り、式場内の人間には通用口から出てきたように見えるはずだ。

 シャラーラが口を開けて唖然としており、ミーレスは明らかに気分を害した顔で眉を寄せていた。

 ラーホルンの姿はなかった。

 公爵とリーズンもだが、そんなのはどうでもいい。

 とりあえずわかることは、どうやら公爵たちとは別の場所に招き入れられたらしいということだ。

 確かに罠ではあるが・・・こっち方面の罠は予想していなかった。

 斬り合いになる方でばかり考えていたから、思考が追い付かない。というか停止した感じすらある。

 「あ・・・」

 アルターリアが出てきて声を上げた。

 ぶつかりそうになったのだ。

 それでようやく、思考力が再起動。

 状況把握を・・・。

 「あらあら、迷子ですかしら?」

 気を取り直そうとしたところで、一応は貴婦人と呼ばれる立場なのであろう三十代の女性が声をかけてきた。

 ラーホルンほどではないが、ドレスをまとって華やかな雰囲気を醸し出している。

 ・・・いや、昼なんだから肌の露出のあるイブニングドレスはダメだろ。ドレスコードを知らんのか?!

とか考えている間に、わらわらと似たようなのが集まってきた。

 チラリと見えた先に、明らかにオレたちの存在を気にしている男・・・式場ならスタッフ、貴族の屋敷なら執事、そう呼ぶべきだろう初老の男がいた。

 手には丸めた『移動のタペストリー』がある。

 振り返れば、オレたちが出てきたはずのタペストリーがなくなっていた。一瞬のすきに回収されてしまったことになる。

 なかなかに機敏な相手のようだ。

 やはり、熟練の執事なのかもしれない。

 この女性たちは、彼になにか吹き込まれているのだろうか。

 見た目は花に群がる蝶だが、現実は灯りに群がる蛾だ。

 そのまま焼け死んでくれればいいのに。

 ドレスは綺麗だが、中身は塗り壁にしか見えない。そのうえ、そのまた中身には生ごみが詰まっているだろうというのは顔つきでわかる。

 「迷子なんて言ったら可哀そうよぉ。もしかしたらぁ招待されてきてるかもしれないじゃないのぉ。ねぇ? ボクぅ?」

 黄色いドレスを着ているのに、真っ赤な口紅の女が最初の女を押しのけて近寄ってきた。

 甘ったるい声。

 間延びしたしゃべり方。

 女子高生ならまだ我慢できるが、三十代でやられると悪寒を感じずにはいられない。

 息にタバコ臭が含まれていては、なをのことそうなる。

 「だとしたら、もともと可哀相な人よねぇ? まともな服すら持っていないなんてぇ」

 背後に回り込んできた、どぎつい真っ赤なドレス――または布切れ――をまとった女がオレの服をつまんで、アルコール臭を吐きつけてきた。

 二人とも、くしゃみが出そうなほどの香水の匂いも振りまいているので、気持ち悪くなりそうだ。

 レストランなどに行く時には、香水の量を控えるという程度のエチケットくらい守ってほしい。せっかくの料理が台無しだ。

 食べてる余裕なんてなさそうではある。

 今すぐ回れ右して戻りたいところだが、意味はあるまい。アルターリアが入った時点で向う側のタペストリーは外されているに決まってる。

 ああ、いや。

 すでにタペストリーは取り外されていたっけ。

 まだ頭が混乱しているようだ。

 冷静に考えねば。

 転移するか、我慢するか。

 または、受けて立つか。

 転移は論外だ。

 切り札を使うほどの場面ではない。

 我慢すれば、この先ずっと舐められる。なので・・・。

 「雑談がしたいだけなのでしたら、離れてくれませんか? 臭いので」

 鼻をつまんで、言ってやる。

 「なんですって?!」

 マダムたちが一斉に憤慨したご様子で金切り声を上げてくださったので、オレはシャラーラを抱き寄せて、繊細な耳をふさいだ。

 「お年を召すと耳が遠くなる。耳が遠くなると自分が聞こえないものだから、大声になるとか・・・ずいぶんと老化が進んでおられるようですねぇ。会話と叫び声の区別もつかぬというのは重症ですぞぉ。ねぇ?」

 にっこり微笑み、わざと口を大きく開け、ゆっくりと言葉を打ち出していく。

 「それに、なんです? その砂漠のようにカサカサの肌と、渓谷もかくやという深いシワ。おばさまがた、鏡って見たことありますか?」

 目では呆れていますと公言し、口元にはニタニタと嘲笑を貼りつかせ、冷ややかに笑い声を上げる。

致命的に不器用なオレだが、目の前に見本があるんだ。

 真似事ぐらいはできる。

 ある意味、今のオレが鏡ともいえるかも。

 「あ、あ?! な、なにいっ$%#&$#れ#%&#$%!?!!!???」

 おお!

 見事に言葉が壊れている。

 それほどまでにひどく、頭に血を上らせてしまわれたようだ。

 ・・・昔の人は言いました。「人は本当のことを言われたときに一番怒るし傷つく」、と。

 うん。真実でした。

 オレは何を言われても本当のことじゃないから怒らないし、傷つきもしなかったが、この人たちはそうではなかったということだ。

 まわりの女性がたが、意味をなさない言葉の合唱を披露してくださっている間に、オレは自分自身を落ち着かせて、周囲に目を向けた。

 この婦人方が何かしてきたところで、冒険者として経験を積んだ今のオレならどうとでも対処できるだろうし、もし無理でもミーレスにシャラーラ、アルターリアもいる。さらに万が一、怪我を負ったとしても心臓と頭さえ無事なら治癒魔法で何とかなる。

 式場がむやみに広いせいか、みんな自分たちの会話に忙しいせいか、この一角での騒動は見事に無視されているようだ。

 誰も、見向きもせずに・・・あれ?

 周囲をうかがっていると、先ほどの執事が戻ってきた。

 誰か人を連れている。

 目立たないようにはしているが、明らかに武装しているのがわかった。体つきから見ても、鍛え上げられた戦士だ。

 いや、騎士か。

 タグを開けば、騎士であることはすぐにわかる。

 騎士であるなら、貴族のお抱えということ。

 ファイク男爵の手のものかな?

 タグの深度を下げようとした。が、状況に気が付いた貴婦人どもが、勝ち誇ったような笑みを浮かべて下がったのに気をとられて、確認が遅れてしまった。

 再びタグを開こうとした時には、その騎士が目の前に。

 さすがに本職の騎士に、こんな近くまで寄られては警戒しないわけにもいかない。

 タグの展開はあきらめて、身構えた。左右に、ミーレスとシャラーラが並び、アルターリアはオレに隠れて魔法の準備に入る。

 騎士は一人ではなかった。

 あとから五人ついてきていたのだ。

 実力ではわずかにこちらに分がありそうではあるが、こちらは迷宮の戦いがほとんど。こういう場面での戦いでは、警備の訓練を積んでいるであろう彼らに一日の長がある。

 しかも、人数で負けていると来た。

 「貴様ら、何者だ!? どこから来た!?」

 どうしたものか、と考えていると怒声が響いた。

 なにもそんなに、と思うほどの大音声だ。

 いきなりの詰問。

 だが、どう見てもパーティー会場らしい場所に、オレたちは武装して現れているのだ。彼の立場としては当然の反応なのだろう。

 おそらくは警護の責任者なのだろうし、オレたちの侵入を防げなかったという事実は間違いなく責任問題になる。

 声高に責め立てたくもなるわな。

 理解はできる。

 しかし・・・困ったな。

 なんと言って説明すればいいのやら。

 もちろん、照魔鏡を出して見せて「話を聞け」と言えば、説明はさせてくれるだろうし信用もしてもらえるだろうとは思うが、状況がよくない。

 騎士の登場と今の大音声で、パーティー会場内の注目がオレたちに集まってしまった。

 ここで照魔鏡をさらして、話しを聞けというやり取りはしたくない。

 「したくない」であって「できない」わけではないから焦ることはないのだが・・・。

 なにかいい方法はないものか・・・。

 「答えろ!」

 悩んでる俺の胸ぐらをつかんで、警備責任者の怒声が顔面に叩きつけられる。

 ・・・唾もかよ。

 頬に感じる冷たさに、ちょっとムッとしてしまった。

 だが・・・。

 仕方ないか・・・。

 照魔鏡を出そうとした・・・そこに声がかかる。

 「礼を失して設備警備たり得ず。怒声は尋問ならざる。正しきことを成すよりも、守るべきもののあるを知るべし」

 え?

 よく知っている、でも、初めて聞く声。

 それが、オレの左側から聞こえた。

 声は確かに、知っているミーレスの口から出たものだ。なのに、その質はまったく知らない他人のものだった。

 「?!」

 その、何者かの言葉で、警備責任者の騎士の顔色が変わった。

 理由はわからない。

 そんなことよりも前に、確認しなくてはならないことがある。

 恐る恐る目を向ければ、やはりよく知るミーレスの、見たことのない顔があった。

 形は同じだ。

 目も鼻も口も、すべてがよく知っているミーレスのもの。

 ただし、そこから感じられる雰囲気は全然違っている。

 なにが違うのか?

 答えはすぐに出た。

 感情がなくなっているのだ。

 まるで能面かロウ人形のそれにしか見えない顔。

 音の集合体でしかない声。

 人間らしさが失われている。

 「ぺ、ペルソーナフェッルム(鉄仮面)・・・様?」

 騎士があえぐように、なにかの名を呼んだ。

 それが、ミーレスのことであろうというのは、なんとなくわかる。

 それにしても・・・ここでも「様」だ。

 ミーレスは相当に高い地位にいたらしい。

 「それは死んだ名です」

 表情筋一つ動かさず、ミーレスは吐き捨てた。

 「ですが、あなたたちがまともな騎士の道を学んだのでしたら、『教え』は受け継いでいるはず。恥を知りなさい」

 静かな、静かすぎる冷えた声と口調。

 騎士たちの顔から血の気が引いていく。

 ミーレスとは知り合いで、なにか痛いところを突かれている感じだ。

 「わ、我々は、どう・・・?」

 騎士の一人がオロオロとし始めた。

 ミーレスをチラチラ見ながら、責任者の背後に隠れられはしないかと試す動きをしている。ミーレスのことが怖いようだ。責任者らしい騎士もそれは同様なのか、助けを求めるような視線をミーレスに向けている。

 「通常の手順を踏めばいいのです」

 小さなため息とともに、ミーレスが答えを返した。

 「! ・・・尋問をする。詰め所に連れていけ!」

 顔面はまだ強張っているようだが、声だけは初めの威勢を取り戻して、警備責任者の騎士が声高らかに部下へと命じた。

 助かる。

 この場で説明させられたり、身分証明を求められるのだけは避けたかったのだが、それだけは防げるようだ。

 ミーレスの言葉通りなら、通常の手順が行われているだけのようだし、無関係の者たちが異常を感じることもないと思う。

 「武器は預かる!」

 思い出したように騎士たちも動いて、オレたちから武器を取り上げた。


 ファイク男爵の城内。

 大広間では、それはそれは豪勢な酒宴が開かれていた。

 立食式のカクテルパーティーである。

 もっとも、カクテルパーティーというには出されている食事が、少々豪勢過ぎた。

 それもそのはずで、ファイク男爵はそもそも贅をつくしたディナーバイキングにする予定だったのだ。

 それが、主賓として呼んだ相手が昼間でないと来られない、というので急遽変更を加えて軽食とカクテルで行えるカクテルパーティーという形にしたのだった。

 正直、助かったという思いがある。

 この酒宴に、ファイク男爵はもてる財のすべてをつぎ込んでいた。

 先代から傾き始めていた領内の経済はもはや破綻している。

 原因は、はっきりしていた。

 自分が男爵位を受け継いで以降に、領内に課した増税政策が裏目に出たからだ。

 街に来る商人や冒険者に、一律で銀貨10枚程度の税を課したのだ。

 この地を訪れる者の多くは、冒険者ギルドか商人ギルドから街に入ってくる。そこで、各ギルドの前に騎士を常駐させ、出てくるものから銀貨10枚を徴収することにしたのだ。

 儲かるはずだった。

 現に、最初の一年は数十倍の税収があった。

 こんな簡単に金が手に入るのかと、浮かれまくったものだ。

 だが、二年目からは税収が激減した。

 それでも、もともとの税収でも領内整備の予算は出るし問題ない。そう嵩をくくっていたのだ。

しかし、そうはならなかった。

 三年目、税収は先代のときと比べても半分にまで落ち込んでしまった。

 理由は、迷宮が接近しすぎていたことだ。

 税を嫌った冒険者たちが、他の街へと流れた結果、迷宮の制圧が進まないどころか、まったくと言っていいほど冒険者が入らなくなったせいだ。

 街を取り囲むように三つの迷宮があって、そのうちの一つが街の市壁の一部に食い込むほどのありさまとなっている。

 いつ街中に入り込んでくるかと、街の人々は怯え、ただでさえ遠のいていた旅人の足がさらに遠のき、それに合わせて激減していた商人は壊滅した。

 流通が滞り、もはやこれまでと言わんばかりに、街に存在する各種ギルドでは撤退の準備に入ったところもあると聞く。

 街は、滅亡の危機にある。

 これをひっくり返すには、方法はひとつしかない。

 原因と同様に対処法もはっきりとしている。

 税を撤廃した。

 元に戻したのだ。

 人の出入りも元に戻る。

 そう考えた。

 なのに、戻らなかった。

 税収がさらに減っただけで、人の流れは戻ってこなかった。

 なぜか?

 迷宮のせいだ。

 迷宮がもとの位置まで戻れば、人も戻ってくると思った。

 だから、迷宮を遠ざければいい。

 そのための方法は単純だ。

 冒険者を呼び集めて、迷宮攻略を進めてもらうだけでいい。

 だが、危機をもたらしている迷宮には、攻略を進めて得られるドロップアイテムや技術に魅力がなく、冒険者が集まりづらいというジレンマがあった。

 それだからこそ、冒険者たちは増税が発表されて一年の間に挑む迷宮を変えてしまったし、変えてしまえたのだ。

 もともと、この街の迷宮でなくてはならないという理由はなかったのだ。他の冒険者と住む家や飲みに行く酒場などで競合したくないから、ここにいただけだった。

 税金のせいで街に居づらくなった冒険者たちは、他の街の冒険者と多少以上の諍いを経て、ようやく落ち着いたところだった。

 税の徴収をやめた。そう言われて「そうですか」と戻る必要も理由もなかったし、いまさら戻ろうとも思えなかった。

 だから、戻らなかった。

 男爵のほうは、迷宮自体に冒険者を集める魅力がないなら、と金を出したこともあった。迷宮を訪れる冒険者に金をばらまいたのだ。

 しかし、それは一時しのぎにしかならなかった。

 冒険者も金は嫌いじゃない。だが、金のためだけに迷宮に入るわけでもないのだ。金が欲しいだけなら、商人にでもなっている。

 結局、長くは続かなかった。

 一度は増えた冒険者が、少しずつ減っていき、必死に引き留めようとしている間に城の宝物庫は空になった。

 金でダメなら、人脈だ。

 そう考えたが、その時にはもう金が底をついていて「金の切れ目が縁の切れ目」、人脈も失われていた。

 もはやこれまで、諦めかけていたその時に千載一遇の好機が訪れた。味方になってくれれば百人力の人物との接触が叶ったのだ。

 「この機会を逃すことはできん」

 ファイク男爵は悲痛な声を絞り出した。

 かつてはモテたのだろう整った面立ちは青ざめ、生気がない。着ている豪奢な服も、サイズが二つくらい違うようでぶかぶかに見えた。

 30代前半の年齢のはずだが、その体つきは70代の年寄りのそれだ。背中は丸まり、足も曲がってしまっている。

 無駄に長いマントと一緒に、その曲がった左足を引きずって歩く姿は、もはや幽鬼としか思えない様相を呈しているようだ。

 美しかった面影を一房だけ残している艶のある赤い髪も、白髪が目立ってきていて美貌の貴公子とまで言われた栄光は昔日のものと成り果てている。

 自分だけではない。

 部屋の隅に目を向ければ、同じように痩せ細り、血の気の薄い顔で佇む妻がいた。

 出会った頃は、愛らしい瞳で自分を見つめ、快活に笑うかわいらしい少女だった。それが今や、実年齢よりも20は老け込んでしまって、老婆のような姿に変わり果てている。

 もう、いとしかったあの微笑みも見せてはくれない。

 色とりどりの大きな宝石が連なって、胸元を飾る豪奢な首飾りが、寒々しいほどに美しく輝いているが、その上に見える表情は雪雲がかかってでもいるのかというような曇り顔。

 生気の欠片すらも見出すことができない。

 愛していたはずなのに、なぜ結婚したのだったか思い出せなかった。

 爵位のため?

 それだけのためだったのだろうか?

 誰でもよかったのか?

 そんなはずはなかったと、そうは思えるのだが、わからない。

 視線に気が付いた妻が、しずしずと歩いてきた。

 近くに寄ってきても同じだ。

 表情を見せない。

 感情を感じさせない素の顔のまま、永久に時を止めでもしたようだ。

 目も死んでいるように生気がなかった。

 「・・・すべては、旦那様の思うままに」

 闇の向うから響くような沈鬱な声が、割れた唇から漏れ出てくる。

 母がいる場では、「はい」しか言わないよう躾られているから、母はこの声を知らない。

 俺にも聞き慣れた今では、これが普通だ。

 だが・・・。

 この女は昔、どんな声で俺と話をしていたのだったろう?

 なんの話をしていたのだったか?

 思い出せない。

 なのに、妻の言葉が耳に痛い。

 かつては、彼女の信頼がうれしかったはずだ。

 誇らしかった気がする。

 自信を持たせてくれたのではなかっただろうか?

 それが、今では虚しいだけ。

 なにを言っても、なにをしても肯定してくれる。それは、単に何も考えていないというだけのこと。

 信頼や尊敬はない。

 相談相手にもなってもらえない。

 判断と決断、そのすべての責任は自分の身に降りかかってくる。

 そう望んだのは自分だ。

 結婚当初、なにかと意見をしてきた妻を自分と母で追い詰めた。その結果なのだから。

 「そのとおりだ」

 あの頃の妻なら、今の私に何を言うだろうか。

 考えてみるが、答えは出ない。

 他人の意見に耳をかさなくなって数年が経ち、もはや自分の考えと異なる考えというものを想像することすらできなくなっている。

 答えが出たとしても、意味はない。

 そう。すでに賽は投げられたのだ。

 「おまえは、公爵の相手をしておればよい」

 ファイク男爵は、ゆっくりと妻の前から立ち去った。

 主賓に挨拶をしなくてはならない。そのタイミングで、パーティー会場では騒動が起こるだろう。

 起死回生の陰謀を経て、街を救うのだ。


 夫であるファイク男爵の後姿を目で追った夫人は、主人同様に青ざめた顔で応接間へと向かった。

 従妹とその夫が訪ねてくることになっていた。

 弟の仇を討てたことの報告をしに。

 なのに、その仇を討ってくれた当人は現れないのだ。

 恩人と言ってもいい相手だというのに、礼を言うこともできずに処刑場に送られるのを知りながら見捨てなくてはならない。

 自分の罪深さを自覚しながら、主人のために鬼とならねばならない。

 弟が亡くなったあと、家名を継いでくれた夫のために。

 「これはどういうこと?! 私たちの恩人をどこへ行かせたのですか?!」

 応接間で迎え入れた従妹のラーホルンが、自分の背後に掛けてある『移動のタペストリー』に手を押し当てた状態で立っていた。

 主人と話していたので、わずかに部屋へ入るのが遅れてしまった。

 ドスの利いた低音が叩きつけられる。

 彼女の夫である公爵は無言で睨み付けてきていた。

 当然の反応だろう。

 一緒についてくるはずの人物が現れないのだ。

 不信も抱こうというもの。

 「さぁ? わたくしは存じませんわ。御心変わりをされてお帰りになられたのではありませんか?」

 かなり苦しい言い逃れだとは思うが、策を用いたことを認めるわけにはいかない。

どれほど苦しくとも、最後まで惚け切るしかない。

 「そのようなこと、あろうはずがありません」

 目を怒らせた従妹が迫ってくる。

 当然だ。

 もし本当にそうなのだとすれば、その意を聞いたその場の騎士が連絡に来るはずなのに誰も来ず、道は閉ざされている。

 彼女とは年齢が同じだ。誕生日がわずかに私の方が早いから姉として扱っててもらっている。だけど、考え方や行動は幼いころから私などよりずっと大人だった。

 容姿は双子の姉妹のように似ていると言われていた。

 仲もよかった。

 伯爵家の三男であった旦那と、自分が付き合い始めるまでは。

 初めての恋人だった。

 彼の母の強い希望で、付き合って三カ月で結婚をした。

 彼女は猛反対したものだ。

 彼女の友人を自害に追い込んだのが、彼だったとか。

 何人もの女性を孕ませたが、なぜか全員いつのまにかいなくなっていたとかの噂を聞いたなどと言って。

 所詮は噂だ。

 なんの根拠もない。

 性格のせいでまともな恋人の一人もいなかった彼女に、「ひがんでいるのか」とまで言い放って、説得を振り払い結婚した。

 そのあとは、彼のお母様の指導の下、貴族の娘たるものはこうあるべきとの指導を賜り、今に至っている。

 向うは公爵家に嫁いだようだが、指導なんてされていない。昔のままの無作法者だ。

 自分は男爵の家柄の出ながらも、伯爵家の流儀を受け継いだのだ。

 負けるわけにはいかない。

 毅然と立ち向かわなくてはならない。

 弱腰になれば、すかさず押し切られてしまう。

 必死に気持ちを引き締めた。

 「また、ですか?」

 そんな私を凝視したまま、ラーホルンが口調を変えた。

 表情を持たない、堅い声。

 「あなたはまた、石になるのですか?」

 憐れむような目が、私を見つめてくる。

 「実の弟を死地に追いやり、その後釜にのうのうと着いて、家を乗っ取ったような旦那をかばうのですか!?」

 ああ、またその話なのか。

 弟が死んだときにも散々罵られたのだ。

 ラーホルンの家は後継ぎとなる男児に恵まれず、権勢も弱かったことから、父親の代で爵位を返上してお家断絶となることが決まっていた。だからだろうか、彼女もその両親も、弟のことを実の息子や兄弟のように接していたものだ。

 それが死んだことがよほどショックだったのだろう。

 ずいぶんと大騒ぎをしてくれた。

 実の弟よりも、旦那が大切かと。

 弟は家族だ、もちろん大切だった。でも、旦那は愛した男だ。弟はいくら愛しくても添い寝はしてくれない。させられない。女として、添い寝してくれる旦那様を立てるのは当然ではないか。

 「そのような確証があるのですか? 思い込みだけで、人の夫を責めるのはおやめなさい」

 「旦那への愛以外、何も見えていないあなたには言われたくありません! いいえ。そもそも、あなたには愛すらもない。本当にあなたに愛というものがあるならば、まずは旦那の愚かな行いを諭すことから始めるはず! なぜ、諫めないのですか!?」

 真っ向から非難されて、つい視線を逸らしてしまった。

 胸のあたりにもやもやが広がる。

 ラーホルンのいうことは正論なのかもしれない。

 まだ、男を知らない娘時代の私なら、この言葉に頷いていただろう。

 理性では理解できる。でも、心は。身体は、旦那のいうことがすべてと言っている。それをどうしても否定することができない。

 『貴族の嫁たるもの。一族の長たる旦那様には絶対服従でなくては、家臣や領民に示しが付きません。自分の考えなどという愚にもつかぬものは捨てなさい』。

 お義母様の口癖が頭の中で響き渡った。

 とたんに、胸のもやもやはかき消えた。

 鉄の棒で殴られた臀部が、火箸で突かれた乳房が、蹴りあげられた下腹部が幻痛にきしんでいる。

 「家を守るのが妻の務め! 私が旦那様を支えなくてはならないのです!」

 踏みとどまる。

 昔はラーホルンにこんな風に迫られたら、怖くて逃げだしたくなったものだけど。今はもう平気だ。

なんとも思わない。

 結婚式に先立って、義母となる人と夫となる人の前でした宣誓式で、誓ったのだ。

 奴隷となると。

 『我が家の嫁になるということは、我が家の奴隷になる覚悟が必要です。あなたにそれだけの覚悟があるのかしら?』

 そう言われて、私は力強く答えた。

 奴隷となって夫に、家に尽くすと。

 『あなたのように位の低い血筋の牝犬は我が家のために番犬をしていればよろしい。跡継ぎのことは心配いりません。皇帝陛下とも縁のある女性が産んでくれる手はずになっていますからね。ドヴェルグの血なんて我が家にはいらないわ』

 私のような、知恵もなく血筋も下賤なドヴェルグの女にできることなんて、この程度のことしかないのだ。

 旦那様のため、盾になる。

 人柱となって家の土台を築く礎となれたならばそれでいい。

 『安心なさい。死んだら、一族の墓には葬られるよう手配しておきます。ご先祖さまも下女は多い方がいいでしょうからね。おほほほほほっ』

 そうよ。

 死んでも放り出されたりはしない。ちゃんと居場所は用意していただいている。

 一族の端っこには、置いていただけるんですもの。

 『嫁に来た以上。あなたの家はここしかないの。実家なんてないのよ!』

 旦那の実家が、実家の領内に立ててくれた家に足を踏み入れた直後。そう言われて首輪をつけられて、新居となるはずの家に鎖でつながれた。

 比喩ではなく、本物の鎖で。

 お客様が来るたびに、その姿でひざまずいて挨拶をするよう強要された。

 嫁入りしたばかりの頃は両親と弟がいた。

 家もあった。

 『そういえば、あなたのご実家みんな死んじゃったんだったわね。嫁の財産は亭主のもの。遺産は全部渡してね。ああ、お墓はいらないから』

 弟が死んだあと、両親も次々に死んで、もう誰もいない。

 家は売り払われて、どこかの豪商が住んでいると聞いた。

 帰る場所はなくなったのだ。

 墓は残されているとしても、もう10年以上行っていない。

 草に覆われてしまっているのではないだろうか。

 きっともう、居場所なんてないだろう。

 『あなたの弟も、存外ましな人間だったわね。自分の無用っぷりをわきまえて、自ら退場してくれたんですもの。それでうちの子に男爵位を譲るなんて。役立たずのクズにしては、ましなことをしてくれた。ご両親もね。あなたも、見習うことよ』

 弟は爵位を、両親は財産を、主人の家にくれるために死んだ。

 私も、そうしなくてはならない。

 子供も残せない私には、主人のために死ぬことしかできない。

 矢面に立って、罵声を浴びるぐらいのことはどうということもない。

 「夫人と言い争っている場合ではありません! ハルカ様がどこへ行ったのかが気にかかります。足止めを食らって、こちらにこれなくなっているだけならいいですが、どこか別の場所に連れ去られたりしていては・・・」

 危機感に苛まれていたリーズンが、悲鳴のような声を上げた。

 公爵の名で招待し、同行していた相手だ。護衛は彼の任務だし、招待しているということは公爵の名で安全を確約していたということでもある。

 行方知れずになりました、などということが世間に知られては醜態どころではない。

 招待されても、うかうかしているとどこかに消されてしまう、などと風評が広まれば公爵家といえども社交界では死んだも同然だ。

 「ハルカをどこへやったのだ?!」

 ついに、公爵までもが包囲に参加してきた。

 三人に追いつめられる。

 これでいい。

 大広間の騒ぎに、このまま気が付かないでいてくれれば、自分の役目は果たせる。

 『公爵の相手をしていればよい』と、そう言われているのだから。

 胸元の宝石に指先で触れた。

 16の誕生日に、付き合い始めたばかりだった夫にもらった贈り物だ。

 ラーホルンには不評だったが、私の宝物。

 この宝石に誓って、私は夫のためになることをする。



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