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シェンファ  作者: 森くうひ
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途惑い

紂王の足は、政の表舞台から次第に遠のいた。

先代の父王の頃からの忠臣の箕子きしは、主君の変貌を最も憂いたうちの一人である。もっとも箕子は、主君を立て、他の家臣官吏の前では決して派手に紂王を責めなかった。しかし、人の少ない暇を縫っては、王の前に現れた。

「陛下、政は床で賽を転がすのとは訳が違います」

箕子の口調は柔和でありつつも、切実な熱を帯びていた。

「天子たる貴方様のお言葉で、朝歌の都も、国すらも動きます。国とは、人です。民です。幾百万の民が、貴方様の時代を生きております。それをお忘れなきよう」

「民か」

「そうです。私をご覧下さい。私もそのうちの一人です」

紂王は、ぽつりと問うた。

「――では、君主とは、何だ」

箕子が答えた。

「歴史を紐解かれればお分かりになりましょう。なぜ貴方様がここにおられるのか、六百年を立派に治めて来られた歴代の君主の皆々様を振り返るのです」

箕子は、父王陛下に恥じぬ正しい振る舞いを、と締め括った。

――既に遠く離れている。否、もしかしたら、産まれたときから――

紂王は、そう思った。

だから、妲己が

「陛下、賢者の心臓には七つの穴が空いているという言い伝えをご存知でして? 賢い者の徳の高さは、それだけで魂に生気を保っていられるほど、力あるものなのだそうですわ。だから心臓に穴が空いていても生きていられるんですって」

そう話した時も、

「ならば今度、この目で確かめてみよう」

と笑って応えつつ、さて誰の心臓を見てみようか、とぼんやり考えたのだった。




その頃、朝歌には、ある噂が広まっていた。

百発百中の占い師がいる、という。

噂はあっという間に、紂王の耳にまで届いた。

「その占い師を、王宮に召し抱えよ」

即座に紂王は家臣達に命じた。その占い師の噂を、新しい玩具を見付けた幼子のように話す紂王とは裏腹に、妲己は嫌な予感を感じていた。

果たして、その予感は当たる事になる。

玉座の間で、紂王と占い師は謁見した。

子牙しがと申します」

床に膝を着いて最敬礼する占い師に

「面を上げよ」

と告げて占い師の顔を見た途端、紂王は不可思議な印象を抱いた。古い大木のような老いと青年の若々しさを、同時に感じたのである。

「そちは……仙人か?」

占い師は笑った。

「仙人ではございません。元道士ではありますが。なにぶん才に恵まれず、崑崙山で修行を積みはしたものの、神仙の境地までは辿り着けませんで」

子牙は姜尚であり、後に太公望と呼ばれる男であった。目の前に居る男が、己を討つ天命を背負っているとは、まだ、紂王は知らない。

「そちには過去や未来が見えるのか?」

「見えませぬ」

「なら何故、占いが当たる」

それがしは数を読みます」

「数を」

「左様でございます。天において、この世の総ては決まっております」

紂王が眉を顰めた。

「あまり愉快な話ではないな」

「と、仰られますと?」

「災いが控えていたらどうする。例えば来年朝歌に雨が降らないと決まっていたら、人は渇きで死ぬか、都を何処ぞへ移すしかないとなるではないか」

「空の風向きが人にとって幸いかどうか、それは人の都合に過ぎませぬ故」

占い師は不満気な王を窘めた。

「運命の巡りが我々一人ひとりにとって吉祥となるか凶事となるかは、また別の話ですな。数は既に、定められております。月の満ち欠け、星の巡り、あれらと同じように天数が在るのです。占いとは、天数を読み取る行為に過ぎませぬ。そこから先、某が心得ておりますのは、小さな災いを避ける為の術を幾つか」

「道士の術か」

「はい」

占い師は卓を用意して欲しいと望んだ。

紂王が直ぐに運び込ませると、占い師は卓の上に、細い竹の棒の束と、掌に載るほどの大きさで裏表に文様が刻まれた木片――筮竹ぜいちく算木さんぎを広げた。

「さあ、何を占いましょうぞ。寿命、運勢、失せ物、何なりとお申し付け下さい」

「寿命が天数というのはもっともだが、失せ物の在り処が、何故分かる」

「それも数です」

占い師が算木を、八つの円い形に並べて置いた。

「失くした日、時刻、方角を一つずつ正しく綿密に読み解きます。それを繰り返して、数を積み重ねてゆけば、失せ物の在り処が浮かび上がってまいります」

「成る程」

紂王はふと、占い師の腕を試したくなった。

「――それでは、儂の最も大切にしている宝が何処にあるか、当ててみよ」

「どんな宝でしょう」

「それは教えぬ」

「これはこれは。某が知らぬ物を、探せと仰いますか――」

紂王の想像に反し、占い師はからりと笑い、

「承知いたしました」

早速、筮竹を手に取った。

占い師は筮竹から弾き出された数を、一つずつ算木に置き換えていった。それを何度か繰り返したところで、ふむ、と手を止めた。

「この広間の西側に、朱雀の名前の付いたお部屋はありますかな」

「ある」

「陛下のお尋ねの宝は、そちらに」

「ほう……」

紂王は傍に居た家臣を招き寄せ、耳打ちした。家臣は頷いて広間を出て行った。その足音が、あっという間に戻って来た。

「陛下! ほ……本当に、いらっしゃいました」

驚嘆を顔中に浮かべて、家臣が報告した。

家臣の背後から現れたのは、王貴人と喜媚を従えた妲己だった。妲己は状況が呑み込めていない。ひとまず笑顔を浮かべて一礼した。

「陛下、お呼びでしょうか」

「妲己。配殿の朱雀の間に居たか」

「はい。琴の稽古を受けておりました」

王は声を上げて、さも愉快そうに笑った。

「見事だ、子牙! 儂の最も大切にしている宝、探し当てたな!」

「お褒めのお言葉、光栄にございます」

「そちは今日よりこの城で儂に仕えよ! 殷の繁栄に尽くすのだ」

「畏まりました」

占い師――姜尚は、深々と頭を下げた。

「そちにも紹介しよう。儂の宝、妲己だ」

「蘇妲己にございます」

「これはお美しい。お目に掛かれて嬉しゅうございます。子牙と申します」

既に妲己は、姜尚から漂う、強い道士の気を感じ取っていた。只者ではないと分かる。だが、おくびにも出さず、微笑んで来賓に挨拶をした。

姜尚は妲己の前に歩み寄ったが、妲己ではなく、その脇の王貴人の前で足を止めた。

「妲己様、このお方は」

「わたくしに仕えている者ですが」

姜尚は不躾に王貴人を頭から爪先まで眺めた。妲己も王貴人も、姜尚の意を測りかねている。

「どうかなさいましたか」

「いや、随分と珍しいご婦人をお連れですな――いかがです、私にこのお方の運勢を占わせて頂けませんか」

「――」

紂王が無邪気に身を乗り出した。

「何が珍しいというのだ」

「このお方がお持ちの天数が」

「面白い。占ってみよ」

妲己の目から微笑が完全に消えた。

「失礼、お手を拝借いたしますぞ」

姜尚が王貴人の右手を取った。

刹那、王貴人の表情が凍りついた。

「ひっ――」

姜尚が王貴人の手首を固く掴むのと、王貴人が咄嗟に逃げようと身を引くのと、ほぼ同時だった。

「逃げるな!」

姜尚が怜悧に一喝した。

ごう、と二人の足元から熱い風が吹き出した。

王貴人の姿が、灼熱の陽炎のように揺らぐ。

姜尚に掴まれた手首から、みしみしと音がする。

広間にいた全員がたじろいだ。女官が悲鳴を上げた。

姜尚が王貴人から目を逸らさぬまま、叫んだ。

「皆様動いてはなりませぬ! こやつは――妖怪です」

「何を言うの! 無礼な!」

王貴人が否定した。だが、彼女を助けようとする者は誰もいない。紂王の護衛の兵すら、立ちすくむばかりだった。

王貴人の美しい顔が、怒りと恐怖に歪んでいた。

「やめなさい! お前、手を、放し――」

「放すものか! 妖怪め、姿を現せ!」

「うあああぁっ! 嫌……あっ――!」

掴まれた手首から、王貴人の身体にひびが入ってゆく。硬いものが割れる音がする。乾いた音ではない。もっと生々しい、身体の奥で骨が砕けるような音である。

音と熱が部屋中に満ちてゆく。

妲己と喜媚は、寄り添って震えている。

足が動かない。

どうすればいい。

「妲己!」

紂王が叫んだ。玉座から駆け寄って、妲己を腕に抱えた。

姜尚が小さく呪を唱えた。足元が揺れた。

「ぎゃああああ――…!」

それが断末魔だった。

バン、と大きな石が砕けるような音がして、王貴人の頭から、一筋の血飛沫が上がった。

家臣の幾人かが腰を抜かす。

王貴人の身体から、光の塊がひとつ、弾けて飛び出した。

光は窓から空へ飛んでいった。

それを最後に炎が消えた。熱い風も止んだ。

王貴人が居た所には、一抱えほどもある半球状のものが、焼け爛れて転がっていた。

大きく二つに割れた、琵琶だった。

「何てことだ――」

紂王が呟いた。

姜尚が振り返って、言った。

「終わりました」

王貴人は妖怪だったのか――。広間の者達が我に返って、ざわつき始めた。

「妲己、王貴人はいつからそなたに仕えている」

「わたくしが――わたくしが陛下に献上された時からです」

妲己の声が震えているのは、近しいものが妖怪だったと知った衝撃と恐怖の所為だと、紂王は信じて疑わない。妲己を抱き締めたまま、苦々しげに吐き捨てた。

「妖怪につけ入られていたとは。そちのお陰で助かった」

そして静かに、だがはっきりと付け加えた。

「儂に仕え、今後も殷を守ってくれ」

姜尚が一礼して、では本日のところは私は一旦城下に戻らせて頂きます、と暫しの暇を乞うた。広間から姜尚が去っても、皆は未だ呆然としていた。

姜尚が、庭を抜けて正門に向かう外廊下を歩いていると、背後から呼び止める声があった。

「子牙殿」

妲己だった。

彼女に普段の笑みはなかった。顔面は蒼白である。妲己は供の者達に

「王貴人の事で、子牙殿にお話がございます。しばらく二人きりにして頂戴」

と言いつけて、人払いをさせた。

二人きりになると、彼女は口を開いた。

「貴方は、一体、何者ですか」

「……はて、弱りましたな」

姜尚は呑気に言った。

「私は昔、崑崙山の道士でありましたが、陛下にも申し上げました通り、今は――」

「何故、わたくしに近付くのです」

姜尚は答えない。

庭を吹き抜ける風が、さらさらと音を立てる。

妲己は少し躊躇ったが、思い切って訊いた。

「天命に、逆らうおつもりですか」

「どういう意味ですかな」

「あなたは、わたくしをご存知なのでしょう」

彼女は姜尚を強く見据えたまま、目を逸らさない。

「わたくしをご存知のうえで、何故、王貴人なのです。わたくしではなく」

知らぬ存ぜぬを貫き通すのを諦めたか、姜尚がわずかに苦笑した。

「……まだ、時ではないからです」

――この男は何を言っているのだろう。

彼女は必死に混乱を隠す。

「天命には、逆らえません。ただ、占ってみましたら、何故だか思っていたよりも少しばかり時間が必要になりそうでしてな。こちらに参りました」

この男は何を言っているのだろう。

立ち尽くす彼女を残し、姜尚は、では私はこれで失礼致します、と頭を下げて廊下を歩いていった。

――「まだ、時ではない」?

その言葉が、彼女の脳裏で反響していた。

では、いずれ時が来たら――?

「狐よ」

ふいに声がした。

思わず周囲を見渡すと、庭の向こうの牡丹園の傍に、人影があった。こちらに近付いてくる。灰色の役人のうわぎ姿だが、咄嗟に彼女は、只の人ではない、と直感した。先程まで全く気配が無かったからである。

「誰です」

男は、蒼白の彼女とは対照的に、のんびりとした笑顔を浮かべていた。

「道士、申公豹と申します」

彼女は、その名前に聞き覚えがあった。何度か噂を耳にしている。もっとも噂の殆どは、宜しくない意味の、であるが。

「道士、申公豹――では、あの、虎を使うという」

「あー……黒点虎を連れて来たら、お前は齧られてたかもな。……びびるなよ。今日はあの虎とは別行動だ」

無論、八卦はっけ衣などは纏っておらず、改めて目の前に立つと平凡な役人だが、千年狐狸精が道士の気どころか魂の気配を感じ取れなかったのだから、やはり元始天尊の下の道士の中で最強と噂されるだけはある。そんな男までもが何故ここに、と彼女は訝った。

「あなたも、あの方のお仲間ですか」

「は?」

申公豹は目を丸くし、それから破顔した。

「お仲間と来たか。参ったな。確かに古い知り合いではあるが。残念ながら俺は只の野次馬だ」

「……」

「更に言うと、姜尚とは只の腐れ縁で別に仲は良くないから安心しろ」

「姜尚」

「――あいつ、何て名乗ってた」

「子牙、と」

「小賢しい事を」

申公豹は廊下の柱に寄りかかり、牡丹園を眺めた。花は一輪も咲いていない。

「奴は随分、派手にやらかしたな」

「見ていたのですね」

「ああ。大胆なもんだ。建前とはいえ、ここは敵地だろうに」

「建前ですって?」

「奴も、殷を潰す使命を背負っている。つまりお前さんと同じだ」

「わたくしの同胞には到底見えませんでしたが」

彼女の耳には、王貴人の最期の叫びがこびり付いていた。

「最終的な目的は同じだ。お前さん達は殷の内側で紂王を骨抜きにする。傾いたところで奴が外側から殷を攻めて潰す。それが天界の算段だ。――封神計画って知ってるか」

彼女には覚えの無い言葉だった。首を振った。

「知らんか。うちの虎と同じぐらいの純粋培養だな」

思い返してみれば、彼女は女媧に永く仕えてはきたが、術以外の知識を乞うた記憶は不思議なほど少なかった。

「天界の思惑はこうだ。今日び、矢鱈と仙人だの導士だの妖怪だの、その他にも知識やら力やらを身に付けた人間が地上には大勢溢れている。天界の皆さんはそれが面白くない。だからその中から適当に選んで、厄介払いをしてやろうと」

「随分乱暴な言い方ですね」

「ありのままを言ったまでだ」

申公豹は真顔で続ける。

「殷を潰す革命を起こせば、要するに戦争だ、相当な犠牲者が出る。そのうち三百六十の魂を、封神、つまり神として封じる。誰を封じるかは既に計画に織り込み済みだ。封神傍っつう名簿が出来ている。名目上は彼らを一人一人、別の神として祀り上げるらしい。実態は殆ど生贄だな。……大昔に組み立てられた計画だが、実行されるのは初めてだ」

「だから何だと言うのです」

彼女は震えを抑えて、申公豹の目を真正面から見据えた。

「殷は滅びます。歴史が、大いなる天命の流れに沿って動く。それだけです。何が起ころうと、わたくしのすべき事は変わりません」

「どうして封神計画の説明をしたか、まだ分からんか」

言葉とは裏腹に、申公豹の声は穏やかだった。

「さっき姜尚にかち割られた琵琶精。あいつの名前は、恐らく、封神傍に載っている」

「……何ですって」

彼女は息を呑んだ。申公豹が頷く。

「だから遠慮なく潰したんだ」

そういえば、と彼女は姜尚の言葉を思い出した。

――『何故だか思っていたよりも少しばかり時間が必要になりそうでしてな。こちらに参りました』

「あれは、つまり――」

「時間稼ぎだな」

申公豹がもう一つ、頷いた。

「よくは分からんが、多少計画に遅れが出そうだから、お前さんの力を削ぎに来たんだろう。くそ真面目な姜尚の事だ、たぶん奴自身は、封神傍は読んでない。が、元始天尊なら琵琶の姉さんが死ぬ予定だったのは当然知っている筈だ。時間を稼ぐなら狐の片腕を潰せ、となった。だから奴が朝歌に来た。――これで辻褄が合うんじゃないか」

「まさか、そんな、理由で」

思わず彼女は、拳を握り締めた。

声の震えは、最早、隠しようが無かった。

もしその通りなら、死ぬのは玉石琵琶精と九頭薙鶏精のどちらでも良かった事になる。ふたりの力の強さは殆ど変わらなかった。姜尚がたまたま王貴人を選んだから、彼女が死んだ。

「どうして」

姉妹のように長年過ごしてきたのに。自分の目の前で、あんな残酷なやり方で。

「時間が要るなら、女媧様がわたくしにそう言って下されば……。――どうして」

「さあ。お前さんが信用されてないか、女媧と元始天尊が仲悪いのかね。そこは俺には分からんが」

庭を眺めていた申公豹が、右腕を差し出して、牡丹園の方向に向かって指を弾いた。すると茎と葉ばかりだった牡丹園で、最も手前の一株だけがふわりと伸び、薄紅色の蕾を二つ付けた。蕾は雨に濡れたように輝きながら開き、大輪の花となった。申公豹は歩いて行って、二つの花を手折り、妲己の傍へ戻って来た。

「知ってるか。花ってのは、枯れるんだぞ」

「……ええ」

「定まっている寿命分の時間が経って、役目を終えたら、枯れる」

「……わたくしも、覚悟は、出来ています。元より女媧様に捧げた魂です」

思考が混沌とする中でも、その言葉の意味するところを、彼女は察した。殷が倒れれば、傾国の元凶となった妃は討ち取られるかもしれない。けれども彼女の内に、迷いがよぎった事など、一度たりと無かった。完遂すべき使命には、同等のものを賭けなければならない。

「だが、お前達にも心はあろう」

申公豹は手折った牡丹を、一輪、妲己の髪に挿した。

「狐よ、生きてみてはどうかね」

残り一輪の牡丹を手に持ったまま、申公豹は城門へ向かって歩いて行った。彼女はただ、その後姿を見送った。

――お前達にも心はあろう。

だから打ちのめされたのだ。突然の、妹のように寄り添ってきた玉石琵琶精の死に。

思い返した彼女の喉から、嗚呼、と小さい嘆きが零れた。申公豹は、お前達、と言った。琵琶精にも心はあったろう、と。

涙を流してはならない、と、彼女を今まで動かしてきた意志が告げていた。同時に、その意志の足下が揺れ始めてもいた。揺れながら心の奥底が、違う、わたしも生きてきた、と必死で叫んでいた。

遠い昔、彼女がまだ只のありふれた子狐だった頃、藪の中の巣穴で兄弟達と共に母狐の傍に寄り添っていた頃から、彼女は、いつか他の狐達を遥かに超えたものになるのだ、と強く望んでいた。熱い屈強な意志。それが野心と名づけられる種類の意志だとは、まだ言葉を持たぬ山の子狐は知る由もなかった。そんな頃から、己を生きる事を望んできた、筈だった。

それなのに今どうして、これ程に揺らぎを感じるのか。

姐姐おねえさま

詰まった涙声に、妲己ははっとした。いつの間にか、喜媚が横に居た。妲己と同じ、血の気の無い頬だった。彼女達が女媧の命を受けて人界に降りてから、喜媚が妲己を姐姐と呼んだのは、初めてだった。

喜媚も、揺らいでいる。それを悟った妲己は、細い足に力を込めて廊下を踏みしめた。

「道を逸れては駄目。迷っては駄目。続けるのよ」

喜媚に語り掛ける妲己の瞳は、しかしながらどこか虚ろだった。




申公豹が中央の門を通って堂々と城壁の外に出ると、門の正面の、大通りを隔てた向かい側の道端に、童女の姿の黒点虎が座っているのが見えた。牛馬が行き交う通りを見ながら、何かをぽりぽりと齧っている。

「こら、クロ。何だそれは」

「蓮の実でふ。こっちはくりゅみ」

黒点虎は小さな麻の袋に手を突っ込んで、殻を割った胡桃くるみを二、三個申公豹に差し出した。

「許由も食べます? 僕、こういうの初めて食べたんですけど、結構美味しいですね」

「お前、猫じゃなくてリスだったか」

「だって許由が遅いから」

よいしょ、と立ち上がり、申公豹の胸の辺りまでの背丈の童女が、自分の半分ほどもある大きな布袋を二つ持ち上げた。中身が虎だけあって、体力と見た目が釣り合っていない。

「で、そっちは」

「干し肉です。久し振りに朝歌に来たんだから、市に行ってきました」

「お前って奴は。折角妙齢の娘の格好をさせてるというのに。久し振りに市に行って衣でも簪でもなく栗鼠の餌と干し肉かよ」

片方の袋の口を覗くと、羊の足が見えた。

「僕のですよ?」

「俺は食わんぞ」

殺生が禁忌である道士は、肉を食べるのも禁じられている。こっそりと肉の味を楽しむ道士もいるが、申公豹は嫌っていた。

「こういう時だけ、道士の振りをするんだから。で、次は何処へ行くんです?」

華奢な身体で大きな袋を二つ軽々と抱える黒点虎は、かなり珍妙な格好だった。申公豹は呆れて、袋を一つ、黒点虎から取り上げた。

「え、いいですよご主人様。別に重たくないし」

「目立つだろうがよお前」

「そうですか?」

「自覚しろ。そして道士に肉を担がせるぐらい買い込んだ事を反省しろ」

そう言って、代わりに右手に持っていた牡丹の花を黒点虎の髪に挿して、歩き出した。

「どうしたんです? これ」

「土産だ」

「珍しい」

黒点虎の額の斜め上で、薄桃色の花弁がひらひらと揺れた。食べられないけど有難う御座います、と笑う黒点虎を、申公豹が小突いた。



子牙、もとい姜尚が占い師として城に召抱えられてから僅か十日の後、紂王の元へ訃報が飛び込んできた。子牙が城内の水路に転落して流されたというのである。

偶然一部始終を目撃した官吏によれば、恐らく、不慣れな城の中で迷ったのだろう、という報告だった。子牙が転落したのは城の中で最も深い水路である。官吏の話を一通り聞いて、紂王は非常に残念がった。

死体は、ついに見付からなかった。


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