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シェンファ  作者: 森くうひ
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夢の如く


月が煌々と光っている。

杯の中の酒に、月が映っている。

紂王は妲己の居室がある寿仙宮じゅせんきゅうで酒宴を設け、その後、うとうとと眠りに落ちたのだった。目を開くと、妲己の白い首筋があった。他の人影は既に消え、静かだった。先程までの宴の余韻が、更けた宵のうえに穏やかに流れていた。

紂王は、妲己の膝の上に頭を乗せたまま、そっと彼女の細い喉に触れた。

夜が更けて、月明かりと室内の灯火に照らされると、妲己の肌は昼間のあどけなさを脱ぎ捨て、艶かしくなる。

すべての仕草が、芳しい香りを纏っている。

「なんて美しい夜でしょう」

妲己が囁いた。

「ずっと、こうして陛下のお傍に居られますように」

「ずっと?」

「ええ。この静かな日々が、ずっと続きますように」

「ずっと、か」

紂王の顔は浮かなかった。

「どうなさいましたの?」

「最近――」

「はい」

「――いいや、何でもない」

口籠って、言葉を閉じた。

「陛下」

目を開けると、妲己が紂王の顔を覗き込んで微笑んでいた。妲己の瞳は星が零れたように光る。

「仰って下さいな。途中でお止めにならないで」

そう言って、口づけた。

「そなたには敵わんな」

紂王は苦笑いを浮かべた。

「最近、儂に反論する者が増えた」

「そうですの?」

妲己がきょとんと目を丸くした。

「そなたは気付かんか」

「まつりごとについてですか?」

「まあ、それに限らずだが」

紂王は、妲己の髪を指で弄びながら答えた。

「儂を良く思わぬ者がどこかにいるか、若しくは儂に理由があるのか――」

「陛下」

幼子を嗜めるように、妲己が遮った。そして月を見上げた。

「ご覧下さいましな。静かな夜ですわ。この平和そのものの世に、どんな問題がございましょう」

「平和か」

確かにそうだ。

都が立ってから六百年以上、小さな反乱はあったものの大事には至らず、民と周辺の諸侯の支持を受けて、殷は繁栄を続けている。

玉座が揺らいだ事など、無かった。

「陛下がここにいらして下されば、何一つ不足も不都合もございませんわ」

「そうか」

妲己の笑みが、紂王には運命の女神の笑みに見えた。

「……でも。もしそれほどお気に障るのでしたら――」

少し悪戯っぽく首を傾げて、妲己が言った。

「陛下に口煩く進言する輩は、消してしまえば良いんですわ」

「なんと」

紂王は苦笑いした。

「愛くるしい顔で大それた事を言うな、そなたは」

「あら? 冗談ではございませんのよ。わたくしに良い考えがありますの」

「ではそなたの良い考えとやらを聞いてみようか。消すとは、どうやって」

紂王は身を起こした。静かに晴れ渡る満月の晩は、どこか夢見心地である。面白い遊びを思いついた子供と、それを早く聞きたくて胸を躍らせている子供。そんな気分だった。

「ええ。そうですね、場所は摘星楼てきせいろうの外が宜しいかしら、まずはそこに大きな穴を掘らせますの。深さは、そうねえ、五丈くらい」

「ほう。その穴をどうする?」

「穴の中で、蛇をたくさん飼うんです」

「蛇を。だが、蛇は何処から連れてくる」

「朝歌の都中の民に手伝ってもらいましょう。皆に、生きた蛇を一匹ずつ城に納めさせるんですわ。穴の底を埋めるぐらいの蛇が要りますもの」

奔放な妲己の言葉を、紂王は楽しんでいた。

「城で、そんな数の蛇に餌をやって飼うのか」

「ですから、餌には自ら穴の中に飛び込んで貰えば良いのですわ」

妲己は手振りを混ぜて無邪気に語った。その笑顔は雨に濡れた梨の花のように美しかった。

「陛下に逆らう愚かしい者達は、穴の中に落としてやれば――」

「瞬く間に蛇の餌になる、か」

「ええ。上から眺めれば、きっととっても面白い眺めになりますわ」

「なるほどな」

紂王も笑った。妲己の肩を抱き寄せ、首筋に口づけた。

「――良い考えかも、しれない」

翌朝、紂王は早々に玉座の間に出て、庭を一つ潰す工事と、朝歌の全ての民に、一軒の家につき一匹の蛇を城に納めるよう布告を出せ、と家臣達に命じた。

蛇の使途を聞いて、近臣達は一斉に慄いた。

「陛下! 恐れながら申し上げますが、それは名君としてあってはならぬ行いでございます! かように残忍な処刑がこの都で行われたとあれば、成湯六百年、御先祖代々の皇帝の皆々様に顔向けが出来ないではありませんか! どうかその勅命、撤回して下さいますよう!」

そう叫び、果敢に紂王を止めようと、縋った家臣がいた。

程なくして完成した穴を、紂王は戴盆たいぼんと名付けた。

最初に戴盆へ落とされたのは、紂王を諫めた、あの家臣だった。




いくら紂王が妲己に溺れようと、妲己は妾妃であった。皇后ではない。

「いつかそなたを、皇后に」

何度も紂王は妲己を抱き締めながら、そう言った。

だが、簡単に皇后の位が落ちてくる筈も無い。正妻である姜妃は、聡明で貞淑な皇后だった。毎月、満月と新月の日には、各宮の妃達が皇后に挨拶をする慣わしがあったが、妲己が拝礼しに行くと姜妃は

「陛下が日夜後宮に篭り、政は乱れつつあります。貴女は陛下のお傍にいるのだから、君主の務めを果たしていない陛下をお諌めしなければなりませんよ」

と、妲己をやんわりと叱った。

「城の中に居る者は皆、朝政の一端を担っているという自覚を持つべきです。殷を守るのも、貴方の務めなのです。王は天子ですが、天子の言葉をすべて肯とするのは、賢いお仕えのし方ではありませんよ」

他の女や宦官の前で、妲己が紂王を酒色に溺れさせているとは言わない。更には、紂王がいま最も寵愛している妲己を無下には扱わず、その事で君主を立てている。だが、紂王に楯突いた家臣が戴盆に落とされたのを暗に批判してもいる。見事なものだと妲己は感心した。家臣達からの信が厚いのも頷けた。

姜妃は元々、紂王に仕える重臣の娘で、生まれ育ちは申し分なく立派、容姿は齢を重ねても麗しく、気品があった。更に、紂王と姜妃との間には、若くして儲けた世継ぎの男子が既に二人あった。兄の殷効いんこうは十四歳で弟の殷洪いんこうは十二歳、昔の父親に良く似て、いずれ劣らぬ利発な王子達である。逞しさと賢さは父親譲りだが、優しさと実直さは母親譲りであった。民の間では、姜妃ほど天下の国母に相応しい人物は他にいるまい、と評されている。妲己と姜妃では、何もかもが違う。

皇后の座が、要るかもしれない。

そう考え始めた頃だった。

紂王が城を留守にしたある晩、妲己は術の気配で目を覚ました。

狐狸精よ、と呼ぶ女媧の声がした。彼女は素早く身を起こした。

月明かりも星明りも無い真夜中の闇の中に、女媧の陣があった。

「女媧さま」

陣の前に跪いた。気付けば後ろに、王貴人と喜媚も跪いていた。隣の控えの間で眠っていたが、同じように陣の気配を感じて目覚めたのだろう。

――ほどなくして西が動き始めます

――そなたのすべき事、分かっていますね

同じ声が二つ、折り重なり語り掛けてきた。どちらが右神の声か左神の声か、彼女には分からない。ただ、肯いた。

「はい。承知しております」

――歴史の歯車は天命に沿って廻さねばなりません

「仰せのままに。全ては天命の大いなる流れのもとに」

妲己は一計を案じ、王貴人と喜媚に、密かに命じた。



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