刃のない剣
崑崙山へ通じる道の脇の、日差しを避けた大木の陰。
申公豹は、虎の姿の黒点虎に寄りかかって鼾をかいていた。
「許由」
申公豹の返事は無い。
「許由。ご主人様」
「んあ?」
ようやく目を覚ます。
「どうした。誰か来たか」
「いーえ、誰も来ません」
「なんだ。じゃあ起こすなよ」
「っていうか、誰が通るんですか、この道。いつまで見張ってればいいんですか。ちょっとは交代しましょうよ」
「主に対して、なんつう物言いだ」
黒点虎の不満にも、申公豹は全く取り合わない。
「お腹空きましたよ……」
そう呟いた時、ふと不思議な匂いがした。
「あれ?」
黒点虎は身を起こして、風の匂いを嗅いだ。
山道の上から、天の匂いがした。清濁併せ持つ地とは異なる、純粋な甘い薫りである。
「誰か来ます」
「そうか」
申公豹も起き上がった。
山道を暫く見つめていると、一頭の四不象と、その手綱を引く一人の道士が歩いてきた。紫の上着と灰色の衣、旅の荷を四不象の背に乗せ、道士には不釣合いな剣を持っている。
「姜尚、……おい、姜尚」
申公豹が呼びかけた。何度目かで男が足を止めた。申公豹がすかさず畳み掛ける。
「こら、俺の声を聞き忘れたとは言わせんぞ。同じ門下で何年修行を積んだと思ってる」
振り返った男の顔を見て、黒点虎は、申公豹より年嵩に見えるな、と思った。印象は中年と初老の間あたり、黒い顎鬚と隙無く結った髷、穏やかそうな目に知性を湛えている。
「なんだ申公豹、あんたか」
「なんだとは失礼な言い草だな。下界に降りるなら久し振りの知り合いの顔ぐらい拝んどけよ」
「お前の顔を拝んでも碌なことがない」
「元気そうだな」
「お前もその減らず口、相変わらずだな」
申公豹は不敵に笑い、姜尚の手元に目をやった。
「姜尚。その剣は何だ」
「天界の方々から、直々にお預かりしたものだ」
「へえ? ――ちょっと見せてみろ」
返事を待たず、申公豹は姜尚の腕の中の剣を掠め取った。
「あっ! こら申公豹!」
姜尚が慌てた。申公豹は奪った剣を右手に持ち、軽々と身を翻して、それを取り返そうとする姜尚の腕をすり抜け、
「黒点虎! ちょっとこれ持ってろ」
「はあ!?」
今度は黒点虎に向かって剣を投げた。
思わず飛んできた剣を受け取ったが、黒点虎はおろおろするばかりである。
「申公豹! やめろ、返せ!」
「絶対取られるなよ黒点虎」
「えっ、ちょっ……えええぇえ?」
黒点虎は咄嗟に姜尚をかわし、飛びのいたが、事態が呑み込めなかった。剣を咥えたまま申公豹と姜尚を見比べた刹那、今度は申公豹が、
「渡せ!」
と笑顔で呼んだ。
「こら申公豹!」
姜尚がと怒鳴る。悲しいかな長い年月には勝てず、咄嗟に黒点虎の耳が反応したのは主の声であった。黒点虎は申公豹に剣を投げ渡す。
奇妙な追いかけっこの末、申公豹が剣を再び手にして、――鞘から抜いた。
抜き身の剣を見た瞬間、申公豹の顔が曇った。
「――何だこりゃあ」
剣には刃が無かった。代わりに、青銅の身に、米粒のような細かい文字がびっしりと刻まれている。
「これは――」
「この莫迦っ!」
姜尚が一喝して、申公豹から剣を奪い返し、素早く鞘に収め直す。そして涼しい顔の申公豹を睨みつけた。
「天界の方々から預かっている物だと言っただろう。とんでもない奴だな、お前は」
「それ――封神榜か」
「――そうだ」
硬い表情のまま頷く。申公豹の顔が険しくなった。主の珍しい気配を感じ、黒点虎が顔を覗く。申公豹は考え込むように眉を顰めた。暫し沈黙が流れる。
沈黙を破って、姜尚が付け加えた。
「いいか。これは、来たるべき時まで、誰一人読んではならぬ物だ」
「……なるほどねえ」
「私も含めて、だ。意味が分かるか。それをお前って奴は――」
「なに、お偉方がやってる事だ。俺には関係ないね」
からりと言い放つ。姜尚が叱るように反論した。
「関係あるか無いかは、我々には決められん」
「あ、そう」
姜尚は、懐から紐を取り出すと、剣の柄と鞘にきつく巻きつけ、小さく文言を唱えた。封印を施したらしい。その姿を、申公豹は道端の大きな石に腰を下ろして、まじまじと上から下まで眺めた。
「理不尽な話だねぇ。お前、貧乏籤を引かされたな」
「貧乏籤だと?」
「封神榜を預かったって事は、あんたが実行役なんだろう――封神計画の」
話の蚊帳の外に追い出されている黒点虎が、
「ほうしんけいかく?」
と訊いた。が、疑問は申公豹に無視された。
「天命に沿って歴史を導く役なんざ、俺だったら絶対嫌だね。姜尚、あんたはいつまでも優等生だな」
「お前は永遠に問題児だな」
「……昔から問題児だったんですね」
黒点虎が呟いて、そうですよね知ってましたけどね、と付け加えた。
「程々にしておかないと、後で痛い目に遭うぞ」
姜尚に諫められて、申公豹がさも可笑しそうに笑った。
「何が可笑しい?」
「いや、この前、左神にも同じような小言を言われたんでな」
「左神殿……女媧様か」
「そうだ」
ふいに申公豹が真顔になり、立ち上がった。姜尚と正面から向き直り、訊いた。
「姜尚、一つ訊いていいか。答えなくてもいい」
「何だ」
「封神榜の編纂に、女媧は関わっているのか」
「……。いいや」
「――やはり、そうか」
――なぜ、それを訊く。
姜尚の喉からその一言が出掛かったところで、申公豹がきっぱりと言った。
「有難う、訊きたかったのはそれだ。――黒点虎」
「えっ?」
「行くぞ」
「えええっ?」
申公豹は踵を返し、黒点虎の背にさっさと跨る。
姜尚が慌てて言った。
「お前、変な事を企むんじゃないぞ。天命に逆らうような真似だけは止めておけ」
「何だ、俺は忠告されてばっかりだな」
「それだけの過去があるからだ」
「悪いが、俺は自分の思うようにさせてもらうよ」
やれやれと首を振って、姜尚がぼやいた。
「いくら同じ門下の同期のよしみとしても、庇いだては出来んからな。お前はやる事なす事、常に度を越えている」
「お気持ち有難う。だが姜尚、別にあんたを巻き込む気はないから安心してくれ。――黒点虎、飛べ」
「は、はい――」
地を蹴って、黒点虎は空へ舞い上がった。ふわりと身体が浮いた。
耳元で風が大きく鳴った。
姜尚の姿が、背後で小さくなってゆく。
「で、どっちへ行けばいいんです?」
「さあ、どうしようかねえ」
「はあ?」
黒点虎が、背中に乗せた主を思わず振り返った。
「まさか何にも決めずに僕に飛べって言ったんですか?」
「とりあえず帰って飯でも食うか」
「も――! これだから許由は」
これほどまでに面倒な主に仕えてしまった己を嘆いた事など、もはや数え切れない。おそらく星の数より多い。
「あれぐらいまともな方がご主人様なら良かったのに」
「あれぐらい? 姜尚のことか?」
「そうですよぉ」
黒点虎は意地悪く笑って見せた。
「今の方は許由と同じ門下で修行してたんでしょ? それであっちは優等生、こっちは問題児の万年道士」
「ありゃ天然呆けと言うんだ」
問題児に呆け呼ばわりされても痛くも痒くも無いだろうな、と黒点虎は思った。
「あの方、崑崙山を降りて何処へ行かれるんでしょう」
「西だ」
「西? ――っていうか、許由は、姜尚殿が剣を持って崑崙山から降りて来るのを、知ってたんですか」
「国取りには新しい国が要る。女媧が狐を出したんだから、元始天尊も一番頭の切れる弟子を出したって事だ。傀儡の相手も傀儡なんだよ」
黒点虎の疑問には直接答えず、申公豹はからくりだけを説いた。紂王の手足には、既に無数の見えない糸が絡まっている。千年狐狸精を通じて、彼は天命の操り人形と化しつつある。それだけではない。次の王朝を、天命に沿って正しく建てるために、もう一人、名誉の傀儡が選ばれている。
「紂を討つのは、今だったら恐らく西の姫昌か――、あるいは姫昌は歳だから、その息子の発か。姜尚はそのどちらかの助太刀をするんだろう」
「それも――天命に定められてるんですか」
申公豹は何も答えなかった。
風が強くなった。
真昼の白い月が、地平線の上に浮かんでいる。
「……あの、剣」
黒点虎が口を開いた。
「剣がどうした」
「姜尚殿が持ってた剣、何やらびっしり色々書いてありましたよね」
「あれか――ありゃあ、仙人、妖怪、人、その他しめてウン百人の名簿だよ」
「名簿? 名簿なんか作ってどうするんです?」
「……。お偉いさんたちが勝手に始めたことさ」
申公豹はそれ以上、何も言わなかった。
「それであの。僕には分かんないんですけど。何で、山を降りていくあの方に、わざわざ許由がちょっかいを出しにくるんです」
「あ?」
「普段は、天界の連中に出くわしたら面倒臭いからって、崑崙山には近付きたがらないくせに」
「……」
「許由?」
「…………暇潰し」
「ひ! ま! つ! ぶ! し!」
黒点虎は思わず、空を飛んでいるのも忘れて頭を抱えた。
「どーーして暇潰しにこんな所まで来なくちゃならないんですか!」
「だって面白そうだろ。崑崙山の天然呆け優等生がウン十年ぶりに山を降りるんだぞ」
「友達一人失いに来たみたいでしたよ」
「失っとらん」
自信満々にきっぱりと言い切る。
「なぜなら。向こうは俺を友達だと思ってないから」
「うわあああ、たぶんその通りだ……!」
申公豹の笑い声には、いつも通り、影が無かった。黒点虎は呆れ返りながらも、心の奥で根拠の無い安堵を感じた。
眼下には草原が広がっていた。
黒点虎と申公豹が飛んでいる空は、高い。大地の匂いも、ここまでは上がってこない。
この先起きようとしている革命も、どこか遠い絵空事のような気がした。




