傾国の佳人
千年狐狸精は回廊に囲まれた、小さな庭の前に佇んでいた。
真っ直ぐな日差しが回廊の床に落ち、きらきらと光っている。
庭はさして大きくもなかった。天界のほうが荘厳で豪華だった。
けれど、この箱庭のような城の中で、今、歴史が変わらんとしているのである。
初めて楼の上から都を眺めた日の事は忘れられない。紂王に案内されて、城で最も高い楼の最上層に登り、眼下に都を見下ろした瞬間、彼女は肌が粟立つのを感じた。言葉にはほど遠い興奮が、全身を駆け抜けた。朝歌は巨大だった。彼女のずっと下で、行き交う人々の姿や荷車が砂粒のように小さく見え、それらが蟻の群れの如く刻々と動いている。砂粒は万と集まり、石となり一枚の岩となるのだ。それが国だった。都は地平線まで広がっていた。
蘇妲己が紂王に献上された時、既に紂王には、姜妃という皇后と、その他にも妃達がいた。自分が紂王の何人目の妾妃だったか、彼女は知らない。興味が無かった。先達が何人いようと、軽々と追い抜いてみせる自信が、彼女にはあった。
蘇妲己は美しかった。彼女はその容姿を日々さらに磨き上げていた。
「妲己ではないか。どうした」
背後から紂王の声がした。妲己は振り返り、優雅に一礼した。紂王が供の官吏達を引き連れて、玉座の間に向かうところだった。
「天の女仙が降りて来たかと思ったぞ」
王はそう言って笑った。
先の帝乙の末子でありながら、文武に秀でていた彼は、父王の遺言で王位継承者に指名された。帝乙の没後、三年の喪を経て王となり今年で七年、いまだ瑞々しいばかりに凛々しく、正妃である姜皇后の間に既に二人の王子を儲け、まさに欠けるもののない王であった。
「ここで何をしていた? 花の季節にはほど遠いぞ」
「日差しがとても美しかったものですから」
僅かに頬を赤く染めて、妲己が恥ずかしそうに微笑んだ。
「わたくし、想像しておりましたの」
「何をだ? 申してみよ」
妲己がくすくすと笑う。無邪気さが愛らしい。思わず紂王の頬も緩んだ。
「儂には言えぬか」
「そんな事じゃございませんけれども」
再び妲己は笑った。鈴を転がすような声である。
「ほら、ここは楼の陰になりませんから、あのお庭に、まっすぐとても綺麗な日の光が差し込んでいるでしょう」
「まあ、確かにそうだ」
「それが綺麗だったものですから、もし更にあそこに玉を山ほど積み重ねて置いたら、どんなに光り輝くかしらと、想像していたのですわ」
「ほう……」
「ね。夜空の月よりも眩しく光りそうじゃありません?」
「なるほどな」
日差しを浴びて輝く翡翠の山。
「それだけですわ」
妲己は紂王の腕に擦り寄って、笑った。
「そんな子供のような事を想像しておりましたの」
紅いさくらんぼの唇と白い首筋。その下の鎖骨の上で、豊かな胸を飾る翡翠の首飾りが軽やかな音を立てた。
「――試してみるか」
妲己と中庭を見比べて、紂王が呟いた。妲己は目を丸くする。
「まあ、どうやって?」
「ここの宝物庫の玉すべてと、そうだな、それだけでは足りるまい。だがこの朝歌に翡翠を溜め込んでいる者など、いくらでもいるだろう」
王の背後で、官吏達がざわついた。
けれど、妲己の瞳を見つめる紂王には聞こえない。
「本当ですの?」
「ああ。そなたの言う光り輝く玉の山、儂も是非見てみたい」
――そして妲己をその隣に置きたい。
俄かにその願望に取り付かれた。
「素敵! なんて楽しみなんでしょう! 夢のような景色が見られるのですね」
「期待して待っておれ」
紂王は妲己の肩を抱き寄せ、
「今宵また、そなたの部屋で」
と囁いて身を翻し、回廊を歩いて去った。供の者達が、慌てて妲己に一礼しながら王の後を追った。
ひとの気配が消えた頃、妲己が囁いた。
「王貴人、胡喜媚」
微かな声で名前を呼ばれ、二人の女が現れた。妲己は王を見送った時と同じ、透き通った笑顔のままで命じた。
「わたくしの部屋に、今宵も蠱惑の香を炊いておいてね」
「かしこまりました」
王貴人と喜媚が一礼した。
着実にものごとは進んでいる。今宵も明日も、紂王は妲己の部屋を訪れるのだろう。そう思うと笑みがこぼれた。
彼女の心には一点の曇りもなかった。
自分は今、歴史を廻しているのだ。そう思うと、朝歌を初めて王宮の上から眺めた時と同じ、静かな熱が身体の奥底に広がるのだった。