白虎と道士
それから数日の後。
崑崙山からも朝歌の都からも、ひいてはいずれの人里からも遠く離れた幽谷、そこを流れる川を、簡素な板造りの船が一隻、進んでいた。
船は流れに逆らって、上流へ上流へと進んでいる。
その船の上で、申公豹は寝転がって空を眺めながらうつらうつらしていた。
川の両側は殆ど垂直に切り立った岩山で、ところどころに緑が茂っている。灰色の岩壁、緑の松の葉がひたすらに続く。
と、その幽谷を貫いて、突如、甲高い声がした。
「ご主人様――――っ!」
やかましいのが来た。
「ご主人様! 許由っ! 許由ってば!」
申公豹は渋々起き上がる。
岩壁をなめらかに、一匹の虎が下りてくるところだった。白い毛並みが美しい。額に黒い点が三つある。
「騒々しい奴だな、そう連呼しなくても俺しかおらんというのに」
「そういう問題じゃありませんっ!」
「主人が暫くぶりに帰って来たってのに、労りの言葉もなしかよ」
「労わられたいのはむしろこっちですよ!」
白い虎は岩壁を下りきると、軽々と宙を舞って船の上に――飛び乗った時には、童女の姿に転じていた。
「じゃあ労わろう。留守番ご苦労トラ猫君」
「猫じゃありません! 僕は虎ですっ」
「はいはい黒点虎君」
黒点虎、と呼ばれた童女はぷうっとふくれて見せた。虎の時の姿の名残であろう、左右に結った長い黒髪には一房ずつ白い部分が混ざっている。青い襟と、白に黒で文様が入った着物に、大きな青い瞳が映えている。
怒り心頭の虎とは思えない容姿だな、と申公豹は内心笑った。せめて最初にもう少し美女に仕立てておけば良かったかもしれないが、それにしても中身がこれである。
「まったくもう! 帰って来るなり僕を猫扱いですかっ」
「だって虎ってのはでかい猫のことだろ」
「しっ失礼な!」
「だいたい疲れて帰って来た主を頭の上からどなりつけるやつがいるか」
「そーれーはー! そうです、言いたい事があったんですよ!」
話が逸れていたと気付いて黒点虎は、ずい、と申公豹に歩み寄って睨む。
「許由、出かける前の日、変な笛を吹いて中から何か飛び出してきた時に、屋根に穴空けたでしょ!」
「あ?」
「許由が昔、崑崙山のどっかから拾ってきた古うぅい笛を、いきなり引っ張り出してきて『そういえばこいつはどんな音がすんのかね』とか言って思いつきで吹いてみて、変な虫みたいなのが飛び出してきたじゃないですか! あの時! 屋根に! 穴!」
「あー…。空いたかもしれないなあ」
「かもじゃない!」
黒点虎は更に怒って船の上でだん!と足を踏み鳴らした。
「うお! 何すんだ揺れるだろ!」
「屋根に穴空いてるの知ってたくせに! 僕に『留守番なんだから、たまには外じゃなくてこの部屋の中で主の留守を守ってろ』とか言って! 許由が出発してから翌々日に嵐が来たんですよ? 僕、部屋の中だから気を使ってこの姿で寝てたら、夜の間にびしょぬれになったんですからね?」
「……」
「……許由?」
黒点虎をまじまじと見つめて、申公豹が真顔で呟いた。
「お前……」
「えっ」
「ほんとにその通りにしたのか……」
暫しの沈黙の後、申公豹が吹き出した。
「ははははは! クロ、お前って本当に素直な奴だな!」
「クロじゃありません! 黒点虎ですっ!」
黒いのは額の三つの点で、本来の毛並みは白いのだから、クロという呼ばれ方は黒点虎にしてみれば甚だ不本意である。
「省略しないでくださいっ。自分で名付けたくせに。しかも何の連絡も寄越さずに――帰りが予定より遅れるなら遅れると、便りをくれればいいものを」
黒点虎はそう言って再びぷうとふくれて、目を逸らした。
申公豹は、適当に黒点虎の頭を撫でておいた。
「元始天尊に呼び出されて崑崙山に寄ってきたんだ、仕方ないだろうが」
「崑崙山?」
船が止まった。近くの木に綱が巻かれている。申公豹が手繰り寄せて船を繋いだ。
黒点虎は、ひとつ息を吐いて宙返りをすると、虎の姿に戻った。
申公豹を背中に乗せて、ふわりと飛び上がる。
黒点虎は翼こそ無いものの、宙を飛ぶことができる。申公豹を乗せたまま、垂直に切り立った崖に沿って昇ってゆくと、岩壁の上にひときわ大きな藪があり、その真ん中に庵が建っていた。
人里から遠く離れているうえ、万が一、人の船が川を遡って来る事があったとしても、崖の下からは見えないように造ってある。家主いわく『平和で優雅な』申公豹の住まいであった。松材と竹とで組まれた屋根に土壁、裏手には土造りの釜がある。
戸口の前で、黒点虎は申公豹を背中から下ろした。
幽谷の風が涼しく吹き抜ける。久方振りに足を踏み入れた家は、家主が長らく不在だったにも関わらず、手入れが行き届いていた――屋根に穴の空いた居間以外は。
「穴、広がってないか」
「だから嵐が来たって言ったでしょ」
「直しとけよ。お前暇だったろ」
「嫌です。ここで許由にも一晩寝てもらおうと思って、穴、取っといたんです」
「ひどい奴だなあ」
「納得いかない。理不尽すぎる。あーもうそんなんだから許由は」
「何だよ」
申公豹は旅の荷物を下ろし、居間に腰を下ろして、屋根の穴を見上げた。
術を使って直すか、のんびりと屋根に上って手作業で修繕するか。いずれにしても今宵は雨は降りそうに無い。急ぐ必要はなかった。
「元始天尊様に、今度は何を怒られて来たんですかあ?」
黒点虎が不敵に笑って訊いた。
「なんだその顔は。どうして俺が怒られるんだ」
「違ったんですか」
「説教されてきた」
「一緒じゃないですか」
黒点虎は深く溜息を吐いた。道士として、申公豹の術の力の強さは抜きん出ている。が、いかんせん性格が性格である。秩序と伝統と格式を絵に描いたような天界からは、とうの昔に見放されていた。黒点虎もとうの昔に、生きてゆくには諦めが肝心な時もある、と悟っていた。一介の虎だった頃は悩みもしなかった事である。
「また、『ちゃんと修行して仙人に昇進しなさい』とか?」
「仙人になったら次は弟子を取れとなる。そんなの死んでも嫌だ」
「なかなか死なないくせに」
「なかなか老けないだけだ。それにそういう話じゃない」
「じゃあ何です? 他にまた怒られるような事したんですか」
「俺は悪くないぞ。夜盗に悩んでるっちゅう村に雇われて、賊どもが来た時にちょっと妖怪見せて追い払ってやったんだが、賊の下っ端が肝を潰して落馬して首の骨を折って死んだっていうのが」
「元始天尊様にばれたんですね」
道士に殺生は禁忌である。
「傭兵まがいの小遣い稼ぎをやって、しかも人を死なせるなんぞ、言語道断、だと」
「そろそろ止めたらどうです? その雇われ道士。便利なお助け屋」
「さあ、どうしようかねえ」
実際、働く必要は無かった。だからこんな幽谷に住んでいられる。術を操り、大地の恵みを寄せ集めて、穏やかな暮らしをしている。申公豹が時々、素性不明のくたびれた道士として人里を歩き回っているのは、金目当てではない。
申公豹が僅かばかりの旅の荷物を解いているのを、黒点虎が覗き込んだ。
「お土産は? ないんですか?」
「ない」
「なーんだ。美味しい妖怪でも持って帰って来てくれればいいのに」
「ああ、そうだ」
申公豹はふと考え込んで、言った。
「お前、狐と鳥の妖怪は好物だったな」
「えっ?」
黒点虎が目を輝かせる。やはり虎である。
「もしかして? どこかに、僕が食べちゃってもいい妖怪が居るんですか?」
「違う。その逆だ」
即座に否定した。
やめて下さいよ期待させるような言い方は、と口の中で黒点虎は独りごちた。主の真意がさっぱり分かりかねる。
「いいか、これから先、どこぞで妖怪を見つけても、狐と雉と琵琶だけは絶対に食うな。食う前に必ず、俺に言え」
「何ですかあ、それ? 琵琶は美味しくなさそうだから、別にいいですけど」
「俺としては、お前が奴らを食っても面白いんだがな。元始天尊に怒鳴られる、じゃ済まんだろうな。通天教主と右神にも怒られる」
申公豹がにやりと笑った。
「よく分からないんですけど、ただの狐妖怪と雉妖怪と琵琶妖怪じゃないやつがいるから、万が一にでもそれを食べないようにすればいいんですね?」
「そういうこった」
よくできましたとばかり、申公豹はまたも適当に黒点虎の頭を撫でた。黒点虎はまだがっかりした顔をしている。
「歴史を変える、一匹の狐がいる」
「歴史を、変える?」
「そうだ。狐の化け物が、雉と琵琶を引き連れて朝歌に向かう。で、絶世の美女に化けて都の中心、それも紂王の城の一番奥に潜り込む」
「それ、朝歌って、都の話でしょ。随分遠いじゃないですか。僕が食べちゃう心配、ないですよ」
「奴らはただ紂の妾になりに行くんじゃない。やる事がある。いつ何時後宮を抜け出して何処をうろついてるか分からん。それに俺らも近々朝歌に行くからな」
「え――っ!」
黒点虎が一段と呆れた声を上げた。
「帰って来たばっかりで、また朝歌? どういう風の吹き回しですか?」
「どういうって、六百年の国が狐で傾くんだぞ。こんな面白そうな物、見ないでどうする。今、殷を潰すってことは、天界は大殺戒が来るのに乗じて、いっぺんに国取りと禊をすませるつもりなんだ」
「だいさっかい? って何です?」
「そんな事も知らんのか」
申公豹は大袈裟に呆れて見せた。が、虎が知らなくとも無理はない知識である。
「そのうちゆっくり説明してやる」
まだ暫く、時間はある。




