双身の女神
男は、崑崙山の頂にほど近い泉のほとりで、大樹を眺めていた。
時が眠っているように静かである。
静寂というのは生命を持たぬ天のものなのだな、と、男――申公豹は思った。
地は生きている、だから音がする。鳥が舞い、風が草を吹き、人の足が地を踏む。常に生命の音がする。だが天の中枢に在るこの場所は、完全なる静寂を保っている。ここは生命の外側にあるのだろう。神々は不老不死なのではない。そもそも生を持たないのである。
名の無い場所。
世界の源泉。
昼と夜の狭間のように、薄暗い。
ここには陰も陽もない。万物のちょうど狭間なのか、若しくは万物が総て重なり合った中心なのか判らない。
泉の中央には土が盛り上がり、中洲が出来ている。中州には金の小さな祠があり、その横で、大樹が根を八方へ伸ばしている。
水の上では、五つの炎が浮かんで、中州を囲む形になり、景色を照らしていた。
大樹はやわらかく光っている。
その大樹のほど近い所に、対照的な若木が生えている。大樹の枝葉を良く見ると、所々、枯れ掛けた葉が混ざっているが、若木の葉は艶があり、瑞々しい。そして若木もまた、ほのかに光っていた。
大樹と若木の傍に、老子と元始天尊と通天教主と女媧――右神と左神――がいる。
天を治める神々が、一同に会している。
何やら話しているが、申公豹のいる岸辺まではまったく声が聞こえない。
暫くすると、老子と元始天尊と通天教主は、大樹と若木の傍に女媧の右神と左神を残して去って行った。
人を造りし母なる女神の魂の、右の半身と左の半身。右神と左神は、それぞれ右手と左手に、銀色に光り輝く長い杖を持っている。
双身の女神はその手を伸ばし、宙に陣を描いた。
なにかを呼んでいる。
なにを始めるのだろう。
杖を掲げる女神の腕は白く、結い上げた漆黒の髷とそこから流れる一房の長い髪は夜の闇の如く、瞳はその中央に浮かぶ星の如く、ただ美しかった。
元始天尊達の姿が完全に消えたのを確かめてから、申公豹は泉の水面に足を乗せた。
あたかも水面が凍りついているかのように、いとも簡単に、申公豹は泉の上を歩き始めた。
申公豹がほんの数歩、足を進める間に、右神と左神が描いた陣は五色の旗を纏って渦巻き、中から三匹の妖怪が現れた。妖怪がそれぞれ名乗った。
「女媧さまにご挨拶を申し上げます。千年の狐にございます」
「九頭の雉にございます」
「玉石の琵琶にございます」
右神が口を開いた。
「そなた達に使命を与えます」
狐が深く頭を垂れて答えた。
「わたくしどもへの直々のご命令、光栄に存じます」
妖怪たちは一様に、興奮を体の奥底へ押し込めているような笑顔を静かに保っている。それを遠くから見ていた申公豹は、見た目より頭が良いのだろうな、とにやりと笑った。今度は左神が口を開く。
「殷の原始の王から数えて十七世と三十代、五度の遷都と六百二十九年の年を経て、かの王朝の命運は尽きつつあります。そなたたちはここより下界に降り、殷の都、朝歌へお行きなさい。」
右神と左神は姿も顔立ちも同じだが、印象はまったく異なる。慈悲を司る左神の眼差しは母なる女神そのものの柔かい温もりを持っている。しかし、義を司る右神の瞳は、静かで揺るぎ無い強さを湛えている。
右神が凛とした声で言った。
「そして、今天下を治める君主、紂王を、その玉座から引きずり落とすのです」
情け容赦無い命令である。
「かしこまりました」
狐の精がすかさず答えた。
こやつらは何を引き受けたのか分かっているのか。国取りは狐と雉と琵琶の妖怪ごときに遂げられる事なのか。一瞬いぶかったが、すぐに理解した。
「千年狐狸精よ、そなたは人に変化する術と魅惑の術を心得ていますね。九頭雉鶏精と玉石琵琶精と共に人の娘の姿となり、朝歌の後宮に入りなさい。」
左神がそう命じたのである。
「そなたの術に囚われたが最後、王は簡単に堕落してゆくでしょう」
「そして、」
若木を横目で捉えながら右神が続ける。
「これから遙か西に、新たなる王が立つ。新たな王は都を落とし、殷を滅亡へと導き、次なる都を建てるでしょう」
「女媧様、すべて大いなるご意志のままに。必ずや、運命の通り天下を導いてみせますわ」
女神に深々と礼を捧げ、千年狐狸精は九頭雉鳥精と玉石琵琶精を従えて、姿を消した。
妖怪達が去るのを見届けてから、枯れゆく大樹を見上げ、左神がぽつりと呟いた。
「運命の前では、すべて無力に過ぎないのかしら」
右神は、左神の内で、慈悲の奥底が微かに迷いで曇ったのを感じた。
その慈悲こそが、左神の役割である。右神は静かに返した。
「運命の車輪を回さなければ」
その時、不意に背後から、男の声がした。
「余計な手出しだと思いますがねえ」
右神と左神は振り返った。泉を渡って、一人の壮年の男が歩いて来ていた。長い黒髪を後ろで束ね、濃紺で膝下ほどの短い丈の道袍に身を包み、腰に玉を下げている。見覚えのある道士だった。
「申公豹?」
目を丸くする左神の横で、右神が一言で切り捨てた。
「元始天尊の門下の、似非道士ではありませんか」
「これはこれは、似非道士ときましたか、右神殿。ご機嫌麗しくないようだ」
女神の冷徹な一瞥をあざやかに流す。この慇懃無礼な振舞いを他の道士が見たら、腰を抜かすかも知れない。
「なぜあなたのような者がここにいるのです」
「しかも余計な手出しとは。申公豹、これは天の定めのままに地の歴史が動いているだけのことですよ。あなたも修行を積んだ道士ならば、この世の仕組みはよくご存知のことでしょうに」
「私は少しばかり違う見解を持っておりますがね。歴史は動いているのではなく、天のお偉方の独断と偏見で動かされているのが本当のところではありませんか」
「申公豹、少しは口を慎んだらいかがかしら? 貴方のためにも」
左神がたしなめた。
だが申公豹は止めない。
「左神殿、私のような者にまで慈悲深さを示してくださるおつもりですか? お気持ちは有難いが、私は貴女がたのようには素直でなくてね。ご無礼を重々承知の上でお尋ねした次第」
「申公豹! ここは暇つぶしに来る所ではありませんよ」
右神がぴしゃりと言い放つ。
「怒らせてしまいましたか?」
「自業自得というものです。そろそろいい加減になさい」
左神は落ち着いたものである。幾度もたしなめる様すら、温かい。
「右神は、貴方のような方にはとても手厳しいですよ」
「御忠告に感謝致します。それでは慈愛の女神、左神殿に一つお尋ねしよう。――天下は誰の為にある?」
申公豹の問いに、左神は静かに答えた。
「全ての天下に生きる人のためですわ」
「思った通りのお答えだ。では右神、貴女はいかがか?」
間髪入れずに右神が返した。
「左神の答えが私の答えですわ」
「何故?」
「わかりきったことを。貴方の右の半身と左の半身が違う意志を持ちますか?」
申公豹は微笑んだ。
この男はどんな強風にも揺れぬ石のような己を持ちながら、走り回る悪戯っ子の顔をする。女神はそう思った。
微笑みながらも、申公豹は否定した。
「それは答えではありませんね」
「なぜです、申公豹?」
「良い答えが得られるまで、私は諦めませんよ」
そう言って申公豹は、一礼し、踵を返した。
「それでは、また」
来た時と同じように、泉の水面を歩いて、申公豹は去って行った。
後に残った右神と左神は、その背中を静かに見送った。
「彼は何を言いたかったのでしょう」
「さあ」
右神と左神は、身体はふたつでも魂がひとつなのだから、申公豹に対する『訳の分からない変わり者』という印象もひとつである。
「相変わらずですね」
左神が苦笑いして、溜息を吐く。
「相変わらずすぎて呆れますわ。元始天尊殿は、何を思ってあれを、いつまでも好き放題にさせているのか」
そもそも、普段は神々どころか他の仙人や道士の周りにもあまり近付かない申公豹が、どうして天界に来ていたのかといえば、師である元始天尊に呼び出されて自由奔放な振る舞いをこっぴどく叱られた帰りであった――のを、女媧は知らなかった。
背後の祠を振り返る。柔らかい眼差しで、左神が言った。
「始まるわ。遥か昔から天命に書き込まれていた歴史の欠片を、ついに現実にする時が来たのですね」
その横で、同じ瞳が冷たく言葉を継いだ。
「実質、革命と大殺戒に便乗するだけですけれども。随分と安易なやり方ですわ」
「通天教主殿が反対なさる道理も分かります」
「あの方は、反対なさる理由が違いますわ。目先の犠牲ですらなく、単にご自分の損得を天秤にかけていらっしゃるだけですもの。封神榜に名を挙げられているご自分の配下の神仙の力が惜しいのでしょう」
右神が憮然としているのに対し、左神はころころと笑った。
「たとい相手が誰だとしても容赦をせぬ言葉。貴女が義を司る存在ゆえですけれど、通天教主殿が今の貴女の台詞を聞いたら、無礼なと怒り出すかもしれませんね」
「これが我が存在の役割ですもの。調和の下に総てがひとつの環に繋がっている――我等は調和でなければならないのですから」
金色の光が祠の上に降り注ぐ。
雨で草木が伸びるように、光を浴びて祠が育ち、いずれ台となって役目を務めるのである。そして女媧は、それを見守らなければならない。
右の半身も左の半身も、その使命を全身に刻み込んでいた。




