緋色の夢
夜半をとうに過ぎていた。
摘星楼の下には、薪が山と積まれていた。
王城からは、朝歌の市街に周軍の松明の光が無数に散らばっているのが見て取れた。戦にしては、あまり市街は破壊されていない様子だった。姫発が此処を新たな都とするのか、あるいは異なる地に都を建てるのか、紂王には判らない。ただ、民の生活が壊滅していないのは幸いだろうと思った。
紂王は冠と正装の衣に身を包み、楼に足を踏み入れた。
その時、声が聞こえた。
「陛下!」
琴のような声音。まさか、と階下を覗くと、妲己が楼へ駆け寄って来るところだった。
「妲己か」
「はい」
妲己の目は赤かった。紂王の前に膝を突いて一礼した。
「わたくしも、お供させて下さいませ」
紂王は微笑んで、妲己の手を取った。しなやかな手は、驚くほど冷たかった。妲己の細い指を、紂王の手が包んだ。
「その言葉だけで充分だ」
「陛下……!」
「そなたはこの城から逃れなさい。戦乱に呑まれまいと都を逃れる民の中に紛れ込めば、生き延びるのもそれほど難しくはないだろう」
「そんな……」
妲己の瞳に涙が浮かんだ。彼女と離れる覚悟が揺らいでしまいそうで、紂王は妲己の手を離し、愛しい妃に背を向けた。
「儂はそなたを巻き込むつもりは無い。だから、行ってくれ。時折都を振り返りながら生き延びてくれ」
紂王の表情がその背から伺い知れぬまま、彼女は思わず首を振った。
「わたくしに、生き延びる資格など――ございません」
「いいや。これは儂が招いた事だ。そなたに責任は無い」
妲己が紂王の前に進み出て、再び膝を突いた。紂王を見上げる瞳からは涙が溢れていた。
「……陛下。わたくしにはまだ陛下にお話ししていない事がございます」
真っ直ぐに、妲己の目が紂王に向けられていた。彼は目を逸らせなかった。
「――それは、儂が聞かねばならぬ事か」
「いいえ。永遠にお話しせぬつもりでした。固く禁じられておりましたゆえ」
「それなら――」
「けれど、たとえそれが、人が決して知ってはならぬ事であっても」
妲己が紂王の言葉を遮り、続けた。
「わたくしは陛下に知って頂きたいのです。真実を。わたくしが、本当は妲己という名の娘などではない事を。――わたくしは、人から産まれた者ではありません」
紂王は妲己の告白に目を見開いたが、俄かには信じられない。
「それではそなたは、……その美しさは、天の女仙か」
「いいえ。そんな尊い身分ではございません。わたくしは、千年のあいだ月の光を浴びてあやかしとなり、人に変化する術を心得た狐です」
人智を超えている話だった。紂王の顔が、次第に驚きに満ちていった。
「本当の妲己という名の娘は、とうに死んでいるのです。わたくしは、人を造りし偉大なる女神、女媧娘々の命を受け、下界にくだり、丁度そのとき陛下に献上される筈だった娘を呪い殺して、その者に成り代わりました」
「何故」
「貴方を、殺すために」
絞り出すように、妲己が言った。
「殺すために。……随分と、時を費やしたな」
「わたくしの使命は、陛下をたぶらかし貶め、国を傾けて革命のきっかけを作り出し、殷を滅ぼすことでした。殷の天数は尽き、それゆえ王朝の交代が必要だと。だからわたくしは此処に来たのです。わたくしさえ来なければ、陛下は民に慕われ続ける君主でいらしたでしょう。わたくしは貴方を裏切るために此処に居たのです」
人を超えた大いなる力が、己の頭上から働いていたとは。紂王に初めて突きつけられた真実だった。そんなことは夢にも思わなかった。妲己は、後から後から零れる涙と悲痛な眼差しを隠そうともせず、紂王を見上げていた。
「そうか」
紂王は短く答えた。
「――わたくしを、責めては下さらないのですか」
妲己の声が震えていた。紂王は妲己の前に屈んで、妲己を正面から見つめた。
紂王が柔らかく微笑んだ。
「儂は、そなたに感謝している」
妲己は思わず絶句した。静かに、紂王は続けた。
「儂の妃になろうと望む女は、昔から、大勢いた。数多の美しい女を見てきた。けれど、初めからそなたの瞳は、どこか違った。その理由が、今、ようやく分かった。そなたが望んでいたのは、富でも栄光でも権力でもなく、この世を越える大きな使命を果たす事だったからなのだな」
妲己が首を振った。
「わたくしは何一つ――己の使命の意味すら、理解しておりませんでした。そしてまさにその事が、貴方に対してわたくしが犯した罪なのです」
紂王は妲己の頬に触れた。温かな涙に濡れていた。
覗くと、妲己の瞳は篝火の光を映してきらきらと光っていた。美しかった。
紂王が訊いた。
「この瞳も、偽りか?」
妲己の唇が震えていた。それでも目を逸らさず、彼女は答えた。
「――いいえ」
紂王が目を細めた。
「ならば儂はやはり、そなたを愛しいと思う。――」
――妲己、と呼んで良いのだろうか。
紂王はふと迷って、名を呼ばずに言葉を継いだ。
「今、やっとそなたに会えたな」
長い時を経て。
ずっと紂王の隣には、蘇妲己の姿があった。
彼女は、蘇妲己という妃を演じていたという。
けれど、彼女の瞳には、人の世を越えた光が満ちていた。纏っていた蘇妲己の抜け殻を、彼女はいつしか超えていたのかもしれない、いや、そうに違いない、と紂王は思った。
彼の瞼の裏には、彼女の総ての仕草が焼きついていた。牡丹の花を髪に飾った笑顔。抱き締めた柔らかい温もり。細い肩が赤く染まる。夜露に濡れた月下の梨の花のように、静かに微笑む。君主として背負う重荷を、彼女の前では下ろしていられた。重責を忘れて笑う事が出来た。楽しかった。天に操られ妖に惑わされていても、鮮やかな日々が紛れも無く彼女と共に在った。過去の欠片が、記憶の淵から紂王の胸の内に熱く溢れた。
そしてその鮮やかな日々こそが、今まさに彼を押し潰さんとしている、巨大な罪だった。
紂王が静かに言った。
「これでお別れだ。――ありがとう」
そして立ち上がると、泣き崩れる妲己に背を向けて、楼の階段を登った。最上層に上がると、東の地平線がほんの少し、淡い光に染まり始めていた。朝日が昇ろうとしている。
紂王は篝火を倒した。
伽藍から降りていた御簾を剥ぎ取り、床の上の炎に投げ入れた。小さな火はすぐに大きくなっていった。
炎は床を舐め、紂王の衣に燃え移った。
彼女はいつしか、天を仰いで叫んでいた。
「女媧様――!」
人を造りし母なる女神に、彼女は遣わされた。
「天下の人が、皆あなたの愛し子なら……どうして傷付かなければならないのですか! あなたの遣わした、愚かな妖によって! どうして!」
けれど、どれだけ問うても、答えが降りてくる筈もなかった。
熱い風が吹いた。止まらない涙すら乾かすような、熱い風だった。
「姐姐!」
叫ぶ声に振り返ると、喜媚――九頭鶏雉精がいた。喜媚も両の瞳から大粒の涙を零していた。
いつの間にか、夜明けを待たずして、城の中に周軍の兵士が入り込んできていた。兵の叫び声と鎧の音が聞こえた。間違いなく、兵が最も血眼になって探しているのは、紂王と蘇妲己だった。
楼に駆け込んできた喜媚は、泣きながらも凛と顎を上げていた。華奢な腕で楼の大きな扉を内側から閉じ、急いで太いかんぬきをかけると、泣き腫らした顔で笑った。
「姐姐、行って下さい――紂王陛下のところへ」
喜媚の笑顔に、彼女はこみ上げる涙と嗚咽を押さえられなかった。
――わたしはずっと、独りではなかった。
有難うと、言いたかった。けれど、喉から声が出なかった。代わりに彼女は大きく頷いて、階段へ向かい駆け出した。
ひとつ上層へ上がろうとした時、突然、下からも熱い風が吹き付けた。後ろを振り返ると、楼の扉と喜媚の衣が、眩しい火に包まれていた。喜媚は胸の前で手を合わせ、天を仰いでいた。自ら炎を呼んだのだった。
楼の最上層に上がると、既に火の海だった。
その真ん中に、紂王の後姿があった。
衣に移った炎が、建物と一体となって燃えている。
朝焼けの空を焦がすように、殷の名を自ら焼き尽くそうとしている。
――たった独りで。
その後姿を見た瞬間、彼女は、姜妃にも息子達にも叶えられなかった紂王の願いを悟った気がした。
――罪を償う方法は、此処に一つだけあった?
彼女は紂王に駆け寄り、背後から彼を抱き締めた。
「わたくしはずっと、あなたの御側におります」
紂王がゆっくりと彼女を振り返った。彼女の泣きじゃくる瞳は、初めて出会った時と同じように、今もなお透き通っていた。紂王の目にも、涙が溢れた。肌を焼かれる痛みではなく、息が詰まるほどの喜びのような何かが、涙を流していた。
炎は、あっという間に彼女の衣服にも燃え移った。
――玉座の上でずっと独りだった、あなたを、もう二度と独りにはしない。
熱い風が喉を焼いている。もう、言葉は声にならない。
紂王が火に包まれた両腕を持ち上げた。
彼女を強く抱き締めた。
周りの世界が、夢のように溶けてゆく。
身体の境目が分からなくなる。
己の近くにではなく、内側に、互いの存在を感じる。
光に埋め尽くされる。
二人の身体は、重なり合い、ひとつの炎の柱となっていた。柱はやがて雪のように崩れた。燃えているのが人のかたちをしたものかどうかも分からなくなった頃、天井が燃え落ち、彼らを覆い隠した。
その巨大な篝火の中に、長い杖を手にした銀色の人影がひとつ、空から舞い降りてきた。




