つかの間の夢
夜が深くなった。
束の間の眠りの狭間で、彼は、夢を見ていた。
まだ彼が、道士になる前の夢である。
崑崙山に向かって、山道を歩いていた。冷たい雨が降っていた。
ある時、仙人を名乗る見知らぬ老人に、お前には仙人の素質がある、と言われ、熱心に崑崙山行きを勧められたのだった。しかし、だからといって簡単に崑崙山へ向かおうと思ったのは、もし万が一にでも本当に己に仙人の素養があるなら、孤独に修行を積む生活も悪くないし、あわよくば美しい仙女でも嫁に貰えるかもしれないと想像したからである。あの老人が果たして本当に仙人だったのかどうかも、実際のところはどうでも良かった。
彼には何故か、昔から、人でも獣でも生きている物の気配が判った。だから狩りで弓を手にすれば、矢は間違いなく標的に当たった。最初はその腕が重宝されたが、次第に賞賛の声は失せていった。仲間に気味悪がられるようになった。そんな人生にも慣れ、誰に疎まれているかにすら興味が無くなった頃、あの老人に会ったのだった。
ふと、山道を登る足を、止めた。
山の奥のどこかで、魂の気配がした。
彼は何となく誘われるままに道を外れて、竹林の中へと進んで行った。
腰まである藪を掻き分けて進むと、小さな崖とその下に洞穴があり、白い虎の親子がいた。
横たわる母親と、猫ほどの大きさの三匹の子供。
子を持つ獣は獰猛である。襲われるか、と身構えたが、母虎は微動だにせず彼を見つめている。気付けば母親の後ろ足と腰に、それぞれ一本ずつ矢が刺さっていた。
毒矢だ。
矢と矢尻の種類に見覚えがあった。彼が背負っているのと同じだ。ありふれた種類のものである。
彼は静かに母虎に近付いた。
ゆっくりと虎の傍に膝をつき、矢に手を掛けた。
母虎は身じろぎひとつしない。彼が矢を一本抜くと、黙って痛みに耐えているようだった。立て続けにもう一本の矢も抜いてやった。そして小刀で傷口を僅かに切開し、矢の毒を絞り出した。
同じ種類の毒矢を持っていたから、毒消しの薬草も持っている。それを細かく千切り、傷に当てて、包帯代わりの布を巻いてやった。
手当てを終えて、
――なぜ、こんな事をしているのだろう。
ふと、そう思った。自分でも分からない。
首を振って立ち上がり、元の山道へ戻ろうとした。
すると、虎の子のうち一匹が、彼の後を付いてきた。
「おい、お前、付いて来るな。お袋の所へ帰れ」
胴体を軽々と掴み上げて、彼は虎の子を母親の傍らへ戻した。
しかし、再び彼が歩き出すと、虎の子は彼の後をとことこと歩いて来る。
「おい――」
母親を振り返ると、青い目が彼を真っ直ぐ見つめていた。こう云ったように聞こえた。
――もし宜しければ、その子は貴方に差し上げます。
「正気か?」
――はい。
「白い虎は、確かに珍重されるが……。俺は、こいつの皮を剥いで売り飛ばすかもしれんぞ」
――わたしは深手を負いました。貴方にお助け頂いて命は助かりました。けれどこれから子供達を三匹とも養ってやれるか分かりません。
彼は唇を噛んだ。その怪我の元は、人の射た矢だ。昨日通り過ぎた山の麓の村の者達の、虎退治の矢だ。
「もしも……俺が虎退治に雇われていたら、俺は足なんかに当てていないぞ。お前の脳天を射抜いていただろう。一矢で」
――それはわたしには知り得ぬ事です。でも、今、あなたは、わたしを助けて下さいました。
彼は背を向けて、歩き出した。虎の子が三度、足元に駆け寄ってきて、彼を見上げた。
「お前、本当に来るか」
虎の子は彼の足に擦り寄った。
雨に濡れているが、掴み上げると温かかった。母親譲りの白い毛は柔らかく、細い黒い縞模様、青い瞳が美しかった。額の上に、黒い点が三つあった。
彼は、肩の上に小さな虎の子を乗せて、山道へ戻って行った。