止まらぬ大河
西岐の姫発は、新たな王朝「周」の立上げを宣言した。
殷の断片である西岐としてではなく、新たな国を名乗った形である。姫発と軍師姜尚は、紂王を見限っていた辺境の諸侯を次々と傘下へ取り込み、瞬く間に軍勢を強化していった。
しかし、殷王朝六百年の歴史の余韻と、妲己の色に溺れていた紂王は、これが天下を揺るがす戦乱だとはなかなか思わない。妲己が
「陛下。東の制圧に向かった軍を呼び戻して下さいませ」
と進言しても、紂王は
「そなたは心配するな」
と取り合わなかった。だが、珍しく妲己が引かない。
「兵力を厚くしなければ、このままでは、都の西に攻め入る隙を与える一方です」
「隙とはあんまりだな。守りは固めてある。反乱に臆病になる必要はない」
「女の戯言とお思いですか?」
「妲己よ――」
「それでも構いません。わたくしがこのような事を申し上げるのは奇妙だと仰っても構いません。淮水の反乱など比べ物にならぬ、天下を血に染める戦が始まる前に――もう時間がないのです」
紂王は必死の面持ちで危機を説く妲己を訝った。蝶よ花よと育てられた娘が、戦の報を聞いて不必要に怯えているのではないかと思った。だが周の軍勢はその間にも、一つ、また一つと主要な関を落として東へ進んた。関が落とされたという報告が立て続けに届いて、紂王は初めて姫発が本気で朝歌を落とそうとしていると気付いた。
「淮水制圧に向かった兵を、大至急、呼び戻せ」
紂王は家臣にそう命じた。
だが、時既に遅かった。
東に遠征していた軍勢を呼び戻すべく、早馬が朝歌を出た夜、寿仙宮に女媧の陣が現れた。欄間から吊られた薄絹に、双身の女神の姿が映った。
寝床から抜け出した妲己は、床に膝を突いて頭を垂れた。耳の奥で、女媧の声が聞こえた。
――千年狐狸精よ。紂王に、姫発と姜尚の軍を迎え撃て、と進言しましたね。
妲己は頭を垂れたままで、震える両手を合わせて握り締めた。
「女媧娘々(さま)、わたくしにはもう……申開きも御座いません」
――知っているでしょう。天命が人に止められる筈は無い。そなたが何をしても、殷が生き延びる道は無いのです。
「はい。わたくしごときに天命を変える力など無いと、痛いほど分かっております。……でも、わたくしは……」
――そなたの振る舞いは、天命に対する反乱ではありませんか。
「でしたら……女媧娘々、わたくしを――わたくしを今、此処で、貴女様に背いた罪により誅罰願います」
彼女は女神に向かって、躊躇い無く死を望んだ。女媧と使命に捧げた命、惜しくは無いという思いは今も全く変わっていなかった。だが女媧は、罰を与えはしなかった。
――そなたの役目は未だ果たされていない。殷が滅するまで、そなたは紂王の妃である蘇妲己の姿を放り出してはなりません。
女媧の陣が消えてもなお、妲己は黙ってその場に跪いていた。