警告
申公豹の住まいがある幽谷は、静かそのものである。
昨日と殆ど変わらない今日があり、昼夜を積み重ねて穏やかに季節をなぞる。
ましてや、申公豹に付き従う事で長い寿命を持つようになった黒点虎には、他の鳥獣よりも一層、幽谷の時の流れが緩やかに感じられた。
だから、いつものように童女の姿で庵の前で薪を割っていた時に、頭上で奇妙な羽音が聞こえても、最初は風かと思った。はたと手を止めると、巨大な術の気配がした。
咄嗟に何が起きたか分からず、黒点虎はぽかんと口を開け、次の瞬間、叫んだ。
「うわああぁ! じょ、女媧娘さま?」
現れたのは、巨大な鳥と、その背に乗る右神であった。鳥は滑らかに宙を旋回し、庵のほうへ降りてくる。羽根が木の枝にぶつかりそうになった刹那、巨鳥は煙のように消え、右神一人がふわりと降り立った。
「え……あの、本当に、女媧さま、ですよね?」
右神は、以前に遠目で見たのと同じ、透き通った銀糸の裾に銀の長い杖を携えていた。が、いかんせん天界の最高位に属する女媧が一道士を訪ねるなど、少なくとも黒点虎が知る限り、前代未聞である。何かの間違いだと思いたかったが、目の前の右神は明らかに神仙を超えた力の塊、つまりは本物だった。圧倒的な存在の重さが感じ取れる。
「黒点虎。あなたの主は何処です」
「え……許由ですか? あ、でも、ちょっと……やめたほうが、いい……かも」
「申公豹は何処に居ると訊いているのですよ」
「いるにはいるんですけど。あのー…」
黒点虎は、どう答えようか躊躇に躊躇を重ねたものの、総てを見透かしそうな右神の眼差しには正直に応じるより他ないと諦めた。
「……多分、まだ寝てるかも」
「何ですって?」
「いやうちのご主人様むちゃくちゃ寝起きが悪いんですよ! あの、寝起きが悪いっていうか、文字通り起きてこないっていうか!」
慌てふためいて黒点虎が付け足した言葉には何の効力もなかった。右神が泰然と命じた。
「ではあなたが連れて来なさい」
「えっ」
黒点虎が心底逃げ出したい気分になった時である。
「その必要はない」
背後から声がした。耳を疑って振り返ると、申公豹が庵の入り口に立っていた。普段ならようやっと起き出すかという頃だが、今日は目を覚ましているだけでなく、襟を正した道袍を身に着けている。黒点虎は唖然とした。
「え……うそぉ?」
目をぱちくりさせる黒点虎を無視し、申公豹が爽やかな笑みを浮かべて右神に一礼した。
「わざわざこのような辺境にまでお越し頂き光栄です。全ての人を創られし母なる女神、女媧殿。ご機嫌麗しく……、ないようですな」
右神が憮然と返した。
「わざとらしい礼はおやめなさい。何も用などなければ、貴方の顔を見に来る筈もありません」
「そうですか? ここから眺める朝日と夕日は絶品ですよ、右神殿」
背後の黒点虎が小声で、朝日なんか見たことないだろ、とぼやいた。だが右神も申公豹も、黒点虎の存在は全く眼中にない。
「申公豹。変な企みはお止めなさい」
「企み? 何のことです」
右神は襟元から小さな何かを取り出し、申公豹の眼前に突きつけた。
「これは――」
歪に曲がっているが、笹の葉で折られた鳥だと一目で分かった。右神が畳み掛けた。
「二人の太子に、何を吹き込みました?」
「吹き込んだとは。ただ現実を説明してあげただけですが」
「では何故、よりにもよって何故貴方が、その現実を説明してあげねばならないのですか」
「他にやる奴がいないからに決まってるでしょうが」
申公豹は悪びれる素振りも無く、平然と言った。黒点虎だけが後ろで動揺している。右神は冷たく申公豹を睨んだ。
「貴方は天界の最高神の一員でもなければ、姜尚のように使命を受けたわけでもない。関係のない者が余計な手を出す必要はありません」
「関係のない者。私がですか」
「そうです。一言付け加えておきますけれど、これは忠告ではありませんよ。警告です」
右神が低い声で言い放つ。申公豹が眉間を寄せた。
「だから、これ以上しゃしゃり出て余計な真似はするな、という事ですか」
「ええ。そこまで分かっているなら良いのですが」
「――私には分かりません」
申公豹が、いつになく険しい顔で吐露した。
右神が声を更に強くする。
「忠告でなく警告だと言ったでしょう」
「なぜ天命の流れに沿って歴史を動かす必要があるのか。何故その為に天が狐と軍師を遣わしてまで革命を起こすのか。何故今更になって封神計画を実行に移すのか。何故万物の均衡を保つために人の魂を縛り付けるのか。私には分かりません」
淡々と述べる申公豹の表情には、静かな怒りが篭っていた。
「申公豹。貴方の思惑がどうであれ、殷が滅び、新たな王朝が成立する未来は変わらないのですよ」
「たとえそれがこれから事実となる未来であろうと、真実だとは、私には到底思えません」
張り詰めた沈黙が流れた。風の音すらしなかった。
右神が口を開いた。
「それだけですか? だから邪魔をする、というのですか? 真実という、貴方の描く不確かな信条を根拠にして」
申公豹が、後ろ手に組んだ手をきつく握り締めた。
「右神殿。貴方は考えた事がおありだろうか。心有る生きとし生ける者が、神々の椅子に封じられるとはどういう事なのか。そのために戦で傷付き、苦悶の果てに死んでゆくとはどういう事なのか――」
「その思慮に、意義はありません」
申公豹の言葉を、右神が鋭く遮った。
「死は人にも獣にも等しく与えられます。形ある物には終わりが定められています。けれど世界は決して無にはなりません。天下は魂の為に在るからです」
「本当にそうだろうか」
「そのための封神計画です」
右神の目は揺らがない。
申公豹が冷ややかに笑った。
「では人身御供になる魂は、その恩恵を受けられないと? 心を失い、ただ一つを司る神となって永遠に存在し続けるのが最終目的だと? 二律背反ですな。人は全てこの世で生きるために生まれて来るのです。死んで魂となって自由を奪われるために産声を上げる生命など、存在しない。何の為に全ての魂は心を持って生まれて来るのか、その答えが封神榜には書かれていない」
吐き捨てるように申公豹が言った。右神が咎めるような視線を投げた。
「申公豹、思い上がるのはお止めなさい。これは天命に刻まれたさだめなのですよ」
「さだめ? 国が滅びるのも天命? わざわざ狐を遣わしてまで国を滅ぼすのも天命と仰るか。理不尽なとは仰らずに?」
「理に適うかどうか決めるのは、貴方ではありません」
「そして貴女でもないというのか、右神。貴女は義を司る女神なのに――」
「それは私に対する侮辱ですか?」
意外にも、右神の問いは、怒りも屈辱も含んでいなかった。ただ純粋な疑念の声だった。
「……いいえ。憐憫だと捉えて頂ければ結構です」
「何故?」
右神が目を丸くした。申公豹は、僅かに言葉を探してから、口を開いた。
「貴女は総てを天命のままに受け入れる。それが女媧の役割だから。しかし――天が実行に移した計画の所為で人が死んでゆくなら、何故貴女がたが、死にゆく者達の名簿の編纂に携わっていないのか。――何故、母なる女神たる貴女がたが!」
右神の顔は険しくなった。しかし反論はしなかった。母なる女神の勤めを果たし、黄土を捏ねて人を造ったのは遠い昔だったが、地に溢れる人々は、今も変わらず女媧の子供達であった。
申公豹が強い声で畳み掛けた。
「右神。貴女も天命の流れに傷を負わされる者の一人ではないのか――」
不意に申公豹の左手が、右神の右腕を捉えた。
一瞬、右神が身を震わせた。
「左神に分からなくとも、右神、貴女になら分かる筈だ。左神が司るのは慈悲だ。慈悲は迷わず信じればいい。だが右神、貴女が司るのは義だ。義は迷いだ。貴女になら分かる筈だ、運命に惑い、何故と問い掛ける者の存在が――」
「放しなさい――その手を放しなさい!」
右神が命じた。
瞳に、微かな狼狽の色が差していた。
申公豹は、俯いてゆっくりと手を離した。それきり何も言わなかった。
右神が顔を歪め、一歩下がって、申公豹に背を向けた。
「……申公豹」
「はい」
右神の背に向かって、申公豹が答えた。女神の後姿は、存在の強さに比べると、とても華奢に見えた。
「いつか、貴方は私に問いましたね。天下に広がる世界は誰の為に在るのかと。そして左神は、天下に生きる人総ての為だと答えた。――貴方は、私に、どんな答えを望んでいたのですか」
「……。答えではありません」
「では、何故」
「何故でしょうね。ただ、貴女を……ほんの僅かでも困惑へ導ければ、それで満足だった」
後姿の右神が、一瞬だけ、小さく笑ったように感じられた。
「正義は迷いではないわ」
「何故そうだと」
「私に迷いなど無いから」
いつもの透き通った、しかし芯のある言葉だった。申公豹が破願した。
「――おかげで私は、毎回容赦なく御説教されているんですな」
右神が勢い良く振り返って、申公豹を睨んだ。
「それは貴方が悪いのです」
申公豹は、天を仰いで溜息を吐いた。
「御理解頂けないのは悲しい限りですね」
「誰も貴方の考えなど分かりません」
即座に右神が返した言葉に、黒点虎が後ろで激しく頷いた。申公豹は、
「では、いつか御理解頂ける日を夢見ておきます」
と穏やかに微笑んだ。右神はまだ申公豹を強く見据えている。
「勝手になさい、と言いたいところですが、これ以上貴方に掻き回されてはたまりませんわ。身の程を弁えなさい。貴方は一道士に過ぎないのですから」
「御心配なく。もうすぐ、終わります」
「――天界の警告、確かに伝えましたよ」
そう言うと、右神は舞うように長い杖を振った。甘い香りと共に煙が沸き、頭上に巨鳥が現れた。右神は音も無く宙に舞い上がり、鳥の背に乗る。主を乗せると、鳥は巨大な翼で空を切って羽ばたき、飛び去った。
鳥の後ろ姿が見えなくなっても、申公豹は空を見上げたまま、動かなかった。
黒点虎がそっと近付いて、申公豹の顔を伺った。と、申公豹がぽつりと呟いた。
「狐が女媧にちくったかと思ったが、違ったのか……」
「え、そこ?」
黒点虎は面食らった。
「やっぱり何にも反省してないんですね」
「お陰で戦が始まるのが分かった」
「はい?」
話がぽんぽんと飛躍する。黒点虎の目が点になる。
「西が立ち上がったのさ」
「どうして分かるんです」
「わざわざ此処まで右神が来たからだ。革命の成立に向けて、俺に余計な邪魔をするなと釘を刺しに来たんだよ。俺に説教するなら女媧が、それも右神が最も適役と踏んだらしいな、元始天尊達は」
「はぁ……。片方で足りるって意味ですか」
「違う。左神は生やさしいだろ」
申公豹がにやりと笑う。肩を落として、黒点虎が溜息を吐いた。
「生やさしいは失礼でしょ。あーあ。確かに許由には慈悲は要らないですね。むしろ無いほうが良いですもんね。一つの魂で身体が二つだと、こういう事も出来るんですねー。便利ですねー」
申公豹が、渋い顔で疑念を投げかけた。
「お前、本当に便利だと思うか?」
「便利でしょう」
「お前な、俺が二人いてみ? どう思う」
黒点虎は暫く想像を巡らした末に、言った。
「……………………朝、起こすのが大変だと思う」
「そこかよ」
「僕の身にもなって下さいよ! 毎日のように僕がどんっだけ苦労してると思ってんですか! しかも何で今日だけ、朝っぱら早くから目が覚めるんですか。分かりませんよ……」
「美人が来りゃ目も覚めるさ」
「うわ。なんつーゲンキンな」
しれっと言い放つ。黒点虎は慄いてみせたが申公豹は気にする素振りを一切見せず、庵の中に戻って、床に寝転がった。
「許由?」
「寝直す。邪魔するなよ」
「え――……」
まさかの二度寝である。黒点虎は再びがっくりと肩を落とした。
「――おい、クロ」
頭の後ろで腕を組んで仰向けに寝転がったまま、申公豹が呼び掛けた。
「はい?」
「ぼちぼち旅支度をしとけよ。長旅になる」
「旅? 何処へ、ですか」
黒点虎は、嫌な予感を抱きながら訊いた。
「朝歌観光だ」
「えー! つい今さっき右神様がああ言ってらっしゃったばっかじゃないですかっ」
「見物するだけだ。ただの野次馬だぞ」
申公豹は寝転がったまま、白々しく否定してみせた。しかし黒点虎は信用しなかった。
「毎回毎回、ただの野次馬じゃすまないのがうちの御主人様でしょう!」
「革命だぞ。しかも倒れるのは、六百年の歴史を持つ殷だぞ。こんな面白そうなもの見物しないでどうする」
「これじゃ右神様が何の為にいらしたのか分かんないですよ!」
「固いこと言うなよ。禿げるぞ」
眠気交じりの気だるい声で、申公豹が答えた。黒点虎は困惑しつつ、止めるのは無理そうだ、こうなったら付いて行くしかない、と腹を括った。
暫くすると、申公豹の鼾が聞こえてきた。




