造反
箕子の死が齎した衝撃が、ようやく徐々に和らいできた頃、紂王に別の報せが入った。
黄将軍が、数十名の腹心の精鋭を連れて朝歌を脱したという。急いで追っ手を差し向けたが既に遅かった。
まさか、と思いつつ足取りを調べさせると、黄将軍の行き先は意外なほど簡単に分かった。数週間も経たないうちに、黄将軍が寝返って西岐軍に加わった、と巷の噂になったからである。西岐へ密偵を放つと、裏付けも取れた。
――また一人、忠臣であったはずの男が、儂を見放した。
紂王は茫然自失となった。
西岐では老齢だった姫昌が病に没し、その喪が明けるのを待って姫昌の息子、発が西岐公を継いでいた。姫発は若く、活力に満ちていた。
殷の禁軍を知り尽くした黄将軍、否、黄飛虎を新たな臣下に加え、数ヶ月の後、姫発の軍は殷と紂王に反旗を翻す。
姫発の隣には、軍師、太公望がいた。西岐の人々は、大公が待ち望んだ者、の意で姜尚をそう呼んでいた。この呼称は、姫発を西伯公ではなく「大公」だとしている。これが人々の姫発に対する希望そのものであった。そして、姫発もまた、太公望の名を只のあだなに終わらせず、姜尚に公の場で新しい名として授けた。紂王に対する事実上の反抗と見做される行為だった。
だが、紂王と殷は未だ、動かなかった。