葬るべき躊躇
箕子の死から暫く経ったある日、造反の報せが飛び込んできた。東方の諸侯の兵六千が、紂王に反旗を翻すべく蜂起したのである。
紂王は直ぐに、一万二千の部隊を東へ派兵するよう命じた。
西の姫公が謀反を企てているという噂は、紂王も知らないわけではなかった。だが、恐れを抱く素振りは見せたくなかった。それで、最も力のある黄将軍と禁軍部隊は朝歌に残しながら、
「辺境の反乱といえども手加減するな。目にもの見せてやれ」
と指示した。
寿仙宮で喜媚から軍の動向を聞いた妲己は、思わず顔を強張らせた。
「東へ……」
反乱を鎮めるために東へ兵を割けば、必然的に朝歌と朝歌の西側の軍備は薄くなる。これが本格的な戦の始まりかもしれない。
けれど、己がそんなことに気を揉む必要は無い筈だ。妲己がそう己に言い聞かせた時、庭のほうから声がした。
「妲己よ、お前はそれで構わんのか」
妲己と喜媚が同時に息を呑んだ。いつからか、宦官の衣を纏った影が庭に立っていた。
「あなたは……申公豹ですね?」
「いかにも」
咄嗟に妲己が喜媚を背後に庇うのを見て、申公豹が、
「だから虎は外だよ」
と付け足した。
「来るなと言いたいなら、せめて結界ぐらい張っておけ」
「何故、ここに」
「言ったろ? お前はそれで良いのか、と」
申公豹の真意が、妲己には全く掴みかねた。
「何が仰りたいんです――」
「分かっている筈だぞ」
「何の理由があってわたくしに語りかけるのです!」
睨みつける妲己の鋭い目線を、申公豹が冷たく受け止めた。
「姜尚は今頃、封神榜を持って西へ辿り着いて、軍師の椅子におさまっている頃だ。紂王の軍の隙をついて、姜尚と姫発の軍は、この都を攻め落とす。殷は倒れる」
淡々と申公豹が述べる筋書きは、千年狐狸精が女媧から拝命した使命、そのものだった。彼女はきっぱりと述べた。
「わたくしは女媧様から仰せ付かった使命を、遂行するのみです」
「素直な奴だねえ。さすが女媧の使う狐だ」
申公豹が目を細めた。
「だが俺の訊いているのは、お前はそれでいいのか、という事だ」
「……」
「己が絶対必要不可欠な存在である事実は、お前に大きな意義をくれる。だが、本当に肝になるのは、何に必要不可欠なのか、その理由のほうだ」
申公豹の言葉は、彼女への侮辱にも女媧への反抗にも聞こえた。だが彼女は、心の奥底で跳ね上がる感情に、未だ名前を付けかねていた。
「――わたくしが、あやかしだからですか」
「何が」
「わたくしに道を説いてご満足ですか。封神傍とは世の均衡を保つ為の策です。天命のもとに歴史を導くのもまた秩序です。あなたもご存知でしょう。選択の余地などありません」
「選択の余地が無いわけがあるか」
申公豹がきっぱりと否定した。
「最後に行動するかしないか選ぶのは、己だ。――子供でも出来る事だ」
何故か申公豹は穏やかに笑って、妲己と、そして喜媚に言った。
「狐よ、雉よ、生きろ。天界の一員としてではなく、一つの魂として」
妲己は、いつしか喜媚の手をきつく握っていた。
「じゃあな。もしまた会う機会があれば」
申公豹は妲己と喜媚に背を向けて、懐から薄い木の護符を幾枚か出し、頭上に投げた。次いで軽く地面を蹴ると、宙に浮いた護符を足場にして、見えない階段を登るように屋根の上へ昇ってゆく。我に返った妲己と喜媚が庭に駆け出し、屋根の上を見た時には、申公豹の姿はもう無かった。
「……姐姐、いえ、妲己様。わたくし達……間違っていませんよね」
喜媚が妲己の隣で、小さく呟いた。
「正しいわ」
妲己は、庭に落ちた護符を一枚拾い上げた。
「正しい未来に向かってきたわ。ずっと」
――力ある者達の魂は、革命の果てに封神台へと至る。やがて来たるべき時に、封神榜を持つ姜尚の手により、彼らの魂は神々の社へと封じられ、真の役目を天命より授かる。個々の魂が、万物の要素を一つずつ司る。そして自然は、万物は均衡を取り戻す。――
これが、かつて彼女達が女媧から教えられた、天命の行き先である。
魂が封神台へ収まるとは、すなわち死である。王朝の交代は、死の犠牲を伴う。当然の事である。
初めて朝歌に足を踏み入れた日、女媧の使命を背負う誇りは、何よりも揺るぎ無い礎だった。その巌が、今はひびだらけになっている。彼女が革命の一幕を演じきらなければ、歴史は天命から逸れてしまう。――
唐突に彼女は、申公豹の真意に気付いた。
彼は、歴史の行く先を、たった一人で変えようとしているのではないか。
妲己は立ち尽くした。信じられなかった。河が山から平野へ流れるのと同じく、歴史は未来という海へ向かって野を下る。天数という地形が、天命という大河の流れる方向を定める。これが絶対の理ではないのか。
彼女の胸の内で、困惑が無数の渦を巻いていた。
正しい未来に向かってきたのだ、今日まで。今更の憂慮は葬るべきだ。今までの月日を、王貴人の死を、己のあやふやな迷いで無に返してはならない。
それでも。気付かなかったふりは出来ないと、心が叫んでいた。