決して守られぬ約束を
いつの間にか牡丹の季節が来ていた。
紂王は牡丹園に池と縁台を作らせ、最上級の酒と肉で宴を開いた。庭園には、妲己の発案で、大勢の美しい男女が一糸纏わず遊んでおり、その光景はさながら創生の神話のようだった。
そこへ、顔を強張らせた黄将軍が、重々しい足音で現れた。二人の禁軍の部下を従えている。邪魔な、と思った紂王だったが、
「紂王陛下、火急のご報告が御座います」
という黄将軍の険しい気迫に押されて発言を許した。
「何だ――申してみよ」
「はっ、恐れながら、箕子殿が、亡くなられました」
「何だと――」
紂王の顔が凍りついた。父王の代から政を支えてきた忠臣、幼い頃は叔父のように慕っていた箕子の、訃報である。耳を疑った。
「箕子が、死んだと――」
「はい」
「何故だ」
「……」
「何故だ? 申してみよ!」
黄将軍は短い逡巡の後、拳を握り締め、躊躇を捨てた。
「恐れながら――箕子殿は長らく殷の最も優れたる賢人として政を取っておられましたが、今や都は荒れすさみ、城には蛇に食い荒らされた死体が山をなし、西方では西伯候・姫発が密かに謀反を起こそうとしているという噂まで流れる始末。全ては――陛下が妲己様をご寵愛なさるあまり民をお忘れになってしまわれたゆえでございます!」
死も覚悟した、直言であった。紂王は押し黙って将軍の言葉を聞いていた。
「箕子殿は、長年の忠臣の言葉をも御聞きにならぬ陛下のご様子を悲観し、崩れゆく都を愁うあまり、……自ら、戴盆に、身を投げられました」
「……箕子が」
庭園の宴は静まり返っていた。
「紂王陛下! どうか……どうか今一度、殷と殷の民とを思い起こし下さい!」
「黄将軍」
紂王は手元の杯を取り、中の酒を一気に飲み干して、ぽつりと言った。
「そうか。ご苦労。――下がってよい」
戴盆の刑も覚悟して紂王の眼前に頭を垂れていた黄将軍は、耳を疑った。
紂王は彼から目を逸らすと、宴に列席する皆に向かって
「さあ飲め、皆の者。今一度、暫し濁世を忘れようではないか」
と明るい声を張り上げた。隣の妲己も我に返り、酒の入った盃を持ち上げた。
煌々と焚かれた篝火に照らされ、宴は深夜まで続いた。
愉しみ尽くして宴を終え、妲己と寿仙宮に下がってからずっと、紂王の眼差しは暗かった。夜は刻々と更けて行ったが、眠たくはなかった。
「――なあ、妲己」
「はい」
「箕子はな、儂が子供の頃からこの城にいた。そうだ、本当に……神仙かと思うほど、何でも知っていた。賢い男だった」
虚しいと思いながら、紂王は忠臣への今更の賛辞を口にした。
「だが、その箕子が儂に悲観して死んだ」
「愚かな狂人ではありませんか。わざわざ自分から戴盆に身を投げるなんて」
妲己は精一杯の屈託ない笑顔を作った。
「そうだな」
紂王も微かに微笑んだ。
「……儂は、殷の国となるために生まれてきた」
妲己の髪を飾る牡丹を、紂王が指先でなぞると、花の香が鼻腔を擽った。
「儂に傅かぬものなど誰もいなかった。持っていない物などなかった。叶わぬ夢など――一つたりとも、この世になかった」
そこで言葉を切った。
ここに今流れている透明な悲しみに、気付かずに笑うべきだ。妲己はそう思った。だが、どうしても無邪気になれなかった。
「陛下、わたくしも――」
「どうした?」
「――わたくしも、陛下にただ傅く女の一人ですか」
紂王は顔を上げた。初めて聞く、痛みを堪えるような妲己の声だった。
しかし問いには答えず、呟いた。
「遅かれ早かれ、いつかは皆、儂の元を去ってゆく」
紂王が妲己の頭を胸に抱いた。
「妲己、約束をしてくれないか。守られぬ約束を」
「……? でも、約束とは守るためにあるのですわ」
「そんなことは分かっている」
「では何故」
紂王の頭の片隅で、己は愚かだ、と囁く声が聞こえたような気がした。だが、そのまま、目を合わせないようにしながら、言った。
「妲己、ずっと儂の傍にいてくれないか」
「――」
妲己は言葉を失った。
はいと答えるべきなのか、妲己には分からなかった。
守られぬ約束、と紂王は言ったのだから。
――あなたは、玉座の上で、ずっとひとりだったの。
胸の奥が縛られるように痛んだ。何も言わずに誤魔化すのはとても卑怯だ、と妲己には思えた。けれど、慰めの言葉も埋め合わせの方法も見付からない。
妲己は思わず紂王の背を両手できつく抱き締めた。




