少年たち
朝歌の都から出たところで、殷効と殷洪は兵士達と別れた。
鎧の男達に守られていては、逃げるには目立ちすぎると判断したからである。二人の王子達が追放となった事は、まだ兵達も当の二人も知らない。
別れの際に、道中の助けにと、兵から僅かばかりの玉を貰った。二人の少年を心から哀れみながら、兵達も途方に暮れているのを、殷効と殷洪は知っていた。王子達は殷の未来そのものだった。その二人が殷から逃げて、どうしようというのか。
「心配しないで。とりあえず御祖父様を頼ろうと思います。だから大丈夫」
十四歳の兄の殷効は、力強く言ってみせた。これまでは守られるばかりだった。これからは二つ年下の弟を守らねばならない。母に恥じぬよう。
都の外は、広い草原が続いていた。地平線の近くに暗い森が見えた。
「あの森の入り口まで歩こう。今夜はあそこで眠ろう」
「そうだね、兄様」
二人は口を引き結んで、歩き出した。
泣き腫らした目をしつつ、弟もしっかりと顎を上げて前を見ていた。涙ならあの日から幾度も流している。その度に兄弟は互いに、母の無念を踏みにじるものかと言葉を掛け合い、決意を新たにしていた。
――自分達は守られるばかりで、何も出来なかった。
母が捕えられたと聞いた時、殷効も殷洪も酷く動揺したが、それだけだった。父に抗う術は無いと思い込んでいた。そうして母の死を目の当たりにした瞬間、二人の心に沸いたのは、悲しみを凌駕する猛烈な悔しさだった。血の匂いと、焼け焦げた母の肌の匂い。喉の奥はずっと熱いままだった。
陽が暮れる頃、森に近付くにつれて、小さな灯りが見えてきた。何だろう、と思いながら殷効と殷洪が近付いてゆくと、焚き火だった。森の端で、一人の男と少女が焚き火を挟んで座っている。
「よう、来たな」
男は、待っていたかのように手を挙げた。兄弟二人は思わず身を固くした。
「貴方は、どなたですか」
「暇な道士だ」
「わたし達は――」
「殷の太子、殷効と殷洪」
男がにやりと笑って代弁した。
名前を言い当てられて、少年達の顔に、警戒の色が濃くなった。
「まあ、座れよ」
焚き火の傍を勧める。人懐こい口調で、男は申公豹と名乗った。向かいの少女は、干し肉を手にしている。殷効も殷洪も強い空腹を思い出した。高貴で聡明な逃亡者とはいえ、育ち盛りの少年達に変わりは無い。
兄弟の内心を見透かして、申公豹と少女が言った。
「腹減ってるだろ」
「食べますか?」
「……」
「……」
殷効と殷洪は顔を見合わせた。どうせ今晩は野宿せざるを得ない。
「…………お言葉に甘えても宜しいですか」
先に口を開いたのは弟の殷洪だった。
「どうぞ」
少女がにっこり笑った。
「……有難う御座います」
兄の殷効も、一礼して焚き火の傍に腰を下ろした。
受け取った肉を頬張ると、濃い味が身体中に染み渡った。かつて城で食べ慣れた豪華な食事の何倍も美味しかった。とはいえ、警戒を解いてはならないと頭の片隅で声がする。最初の一切れを飲み込んだところで、すぐさま次の肉を口に運びたい衝動を抑え、殷効が申公豹に訊いた。
「どうして貴方は、わたし達をご存知なのですか」
「どうしても何も、君らは殷の王子様だろう」
「でも知らない筈です、僕と兄様が今ここにいるなんて、誰も」
殷洪が口を挟んだ。
「いいや、そうでもないぞ」
「まさか、父がわたし達を追っているからですか」
「残念ながらそれも違う」
申公豹が長い枝で焚き火をつつくと、薪が小さく爆ぜた。
「予め決まってたんだ。君らが城を出るのは」
「決まっていた?」
「ま、俄かに信じ難い話ではあるな」
「こっちも食べます?」
少女が殷洪に、殻を割った胡桃を差し出した。
「美味しいですよ」
「あ、有難う……」
「どういたしまして」
貰った胡桃を、弟は隣の兄にも分けた。その二人の仕草に、少女の顔が綻んだ。
「すごく仲良しなんですね。ちょっと意外です」
「なんで?」
率直に殷洪が訊いた。
「将来どっちが王様になるか、競い合ってるかと思いました」
「――母に、いつも教えられていましたから」
兄の殷効がぽつりと言った。
「将来、お前達のどちらかが王位を継いだら、王にならなかったほうは王を助け、敬い、王に尽くすべきだと。何故なら、王は名誉と引き換えに国という重責を背負うのだから。地位を得られなかったからといって妬むのは、浅はかだと」
申公豹が頷いた。
「正しいな」
「母はとても賢い人でした。そのうえ優しくて、曲がった事が嫌いで」
殷効が膝の上で拳を握り締めた。
「母が他人を殺そうとするわけがありません。絶対に! 父だって母が正しい人だってことは知ってた筈なのに。絶対に濡れ衣なのに――父は母がやったって決め付けて」
隣で黙っている弟の殷洪の目にも、涙が浮かんだ。兄が勢い良く顔を上げた。
「申公豹殿! 貴方はわたし達が城を出るのが決まっていたと言いましたよね」
「ああ」
「それなら母が死ぬのも決まっていたと言うのですか? 母が無実の罪を着せられて、あんな酷い扱いを受けて――!」
「それは分からん」
ちょっと落ち着け、と申公豹が殷効を宥め、続けた。
「君らはこれから、どうするつもりだった?」
「まずは母方の祖父を頼ります」
「その後は」
「……」
口をつぐんだ兄に代わり、弟が声高に叫んだ。
「母の仇を取ります」
「仇を取る。どうやって」
「父を倒します」
「それこそ浅慮というものだ」
「――どうして、ですか」
兄の殷効が、拳を握り締めたまま、声を絞り出した。
「母の無念を、息子が晴らすのが、どうして、いけないんですか」
「親子の忠義を持ち出しても、君らの仇討ちは正当化できんぞ。相手は父親だからな」
「そんなの関係ありません! 父は母との絆を踏み躙ったんですよ。母がずっと陰で支えてきてくれたのも忘れて!」
「母君はその仇討ちを望むか」
「それは――」
「母君に頼まれたわけじゃあるまいに。君らの母親は、君らが父を殺すのを望むのか」
兄弟は二人とも黙り込んだ。反論を探しても二の句が継げない。在りし日の、知性と慈愛に満ちた母。母が今の息子達を見たら、何と言うだろう。
「でも……」
弟の目から、堪えていた涙が一粒零れた。
「本当の仇が何なのか、よく考えろ」
大ぶりの笹の葉を一枚、手元で弄びながら、申公豹が言った。
「殷は潰されようとしている。天数が尽きたからだ。これから新しい王が西岐で立つ。天命の筋書き通りにな」
――このひとは、何を言っているんだろう。
二人の少年は耳を疑った。申公豹が続けた。
「前に城に来た、子牙という占い師は分かるか」
兄が頷いた。
「あれは崑崙山の道士だ。天の神々から、西岐の軍師になって殷を討つべし、という使命を受けている。殺生を禁じられている道士が戦争に手を貸すのは、矛盾してると思うだろ。ところが大殺界というのが定められている。仙道が千五百年に一度、禁忌を犯して、この先の千五百年分の穢れを一気に浴びるんだ。その禊に重ねて、殷が滅ぼされようとしている。殷の血筋を絶やすために、紂王は昏君にされ、息子達は城から追い出された。君達も紂王も踊らされているんだ。予定調和の歴史をなぞる為の犠牲として」
殷効も殷洪も、息を呑んだ。頭の中は混乱するばかりだった。定め通りに天下が巡っているから、自分達も母も苦しんでいるというのか。父もまた犠牲なのか。とはいえ、今まで父に対して抱いてきた憎しみと無念は、簡単に忘れられない。踏みしめてきた足元が、突然空白になってしまう。
夜長の徒然を埋めるように、申公豹は手に持った笹の葉の端を幾度か折り曲げた。やがて葉が鳥の形になった。小声で術を唱えると、笹の葉の鳥が羽ばたいて動き出した。申公豹は、鳥が手元から飛び上がって、頭上の枝に留まるのを目で追う。
「城から追い出された息子達は父を憎む。父を倒そうとして、西岐に転んで、殷を潰す革命の一端を担う。……こんなところか」
何故なら運命だから。
それが真実だというのか。
綻びの無い話だが、殷効と殷洪には、俄かには受け入れられなかった。
「……僕達は、殷を滅ぼそうとしてるんですか」
弟の声が震えていた。弟の気持ちは、兄にも痛いほど分かった。
「君らが父を倒すとは、そういうこった」
兄弟の脳裏に、記憶の母の声が響いている。母はいつも言っていた。
――殷を守るのがわたくしの、そして貴方達の務めです。
二人の太子が城で何不自由ない生活を送れるのは、殷の民がいるからだ。王家に生まれた者は、豊かさを享受する代わりに殷を守らねばならない。姜妃は息子達にそう教えた。常に国を思っていた母を、もしや裏切っているかもしれないとは、これまで考えた事も無かった。
「紂王に人の道を説くのは、後からでも出来る。紂王が生きてさえいれば。たった一人の父親を殺したら、君らは後悔するんじゃないかね。少なくとも満足は出来んだろう」
君らは真面目だからな、と申公豹は付け加えた。
「……後悔」
――ずっと、後悔し続けるのか。
「なら、どうすればいいんです」
弟のくぐもった声に、兄も俯いた。申公豹は、二枚目の笹の葉で再びのんびりと鳥を折っている。
「君らが自分で決めるんだな。何かに操られるのが嫌なら、注意深く見て、考えて」
少女が傍に積んである木の枝を何本か折り、火に足した。申公豹が手を止めて、焚き火を見つめた。
「歴史ってのはな、いつも勝者の自慢話みたいなもんだ。仮に殷が西岐に滅ぼされたら、後世に伝えられる歴史は、新しい国が綴る。その物語の中で、紂王の極悪非道な振る舞いには尾鰭がいくつも書き足されるだろう。勝者にとって、勝者は正しく、敗者は間違っていなければならない。勝者が歴史を伝える時、敗者はとっくに灰になっていて何も言えない。そういうもんだ」
黙って聞いている殷効の眼に、先程までの熱は無かった。戸惑いを湛え、焚き火の明かりを映している。
「王太子なら、殷の歴史は、随分勉強したろ」
「――はい」
「六百年の長きに渡る、歴代の、いずれ劣らぬ賢帝による、泰平の治世。そう教わったんじゃないか」
「……」
「でもな、清濁併せ呑むのが人の世だ。政が綺麗事だけで済むわけない。間違いも沢山あっただろう。悪い話ほど長く残って、後々に国の将来を脅かすかもしれない。だから歴史に刻まずに葬って、国を守ってきた。殷を守ろうとする誰かが」
「……王や王家の者が、ですか」
「そうとは限らん。国は王だけのものじゃないさ」
兄には申公豹の言わんとしている意図が分かった。箕子や黄将軍のように、先代の王から政に携わってきた家臣は、他にも居る。
昨日まで熱く熾っていた感情が、行き場を失くしている。母を残酷に追い詰めた父を、つい先程まで憎んでいた。その熱が矛先を見失っていた。無かった事になど出来ない。
膝の上できつく握られていた殷効の拳に、涙が落ちた。ひとつ涙を零すとそれからは堰を切ったように、涙になって後から後から溢れてきた。押し殺すには、あまりに深すぎた。昔、二人の太子に分け隔てなく愛情を注いでくれた父の姿が、思い出したくもないのに蘇る。己の記憶の残酷さが恨めしかった。
弟も泣いていた。まだあどけなさが残る面立ちで、泣き声を必死に押さえて泣いていた。
二人の兄弟の悲痛な涙を、申公豹は黙って見守っていた。
殷効と殷洪は、勧められるままに焚き火の脇で、寄り添って眠った。
翌朝、二人は申公豹と童女の黒点虎に丁重に礼を述べて、別れを告げた。申公豹が行き先を問うと、考えます、と目を伏せた。
小さくなってゆく二人の背中を見ながら、黒点虎が言った。
「あの子達、これからどうするんでしょうね」
「さあなぁ」
「さあなって……。散々揺さぶって焚き付けといて、無責任じゃありません?」
「無責任は違うだろ」
「え」
「子供でも、歩く道ぐらい自分らで決められるさ」
「――あ。そっか。そうですね」
二人の行く先に僅かな希望を見つけた気がして、黒点虎は微笑んだ。
「でも許由、ひとつ分からないんですけど」
「あん?」
「大殺戒っていうのが来てるなら、許由が雇われ先で人死なせちゃったのも、道士の禁忌には触れないんじゃないですか? 元始天尊様に怒られなくて済みそうなのに」
「俺が殺したんじゃないぞ」
「分かってますってば」
「じじい曰く、あれは大殺戒が来る微妙に前だったんだと」
黒点虎は、主の運の無さに呆れ果てた。
「おいクロ、これもう無いのか」
「はいぃ?」
黒点虎が後ろを向くと、申公豹が麻の小袋を引っくり返して振っている。
「蓮の実も胡桃も、さっきあの子達にあげたので最後です」
「あげたぁ?」
「道中の食料になるかと思って。あ、それにまだ、ここからなら朝歌近いし――もっかい買って来ていいですか?」
目を輝かせて黒点虎が訊いたが、暫く考えて申公豹は首を振った。
「――いや、帰るぞ」
「えええぇ」
「不貞腐れるなリス猫。朝歌にはそのうちまた来る」
うな垂れながら渋々、黒点虎がくるりと回って、童女から虎の姿に転じた。
「私の術で人死にが出たと仰いますか。ならば、今回の暦の巡りで、大殺戒に仙道が禁忌を犯す定めだと伺いましたが、あれは何なんです」
憮然として食いかかる弟子に、元始天尊が眉を顰めた。
「屁理屈を述べるでない。大殺戒は未だ始まっておらぬ」
「なんと――。僅かに暦をずれれば、殺しの穢れも正当な行為とされるのですか。大した茶番ではありませんか」
申公豹の腹の内には静かな怒りが沸いていた。崑崙山まで呼び出されて己が浴びている叱責に、ではない。言うなればもっと大きな天そのものに対する怒り、であった。
「お前も道士の端くれならば学んだであろう。天数に沿って巡る、それが世の在るべき姿なのだと」
「天数とは何です」
「定められた秩序だ。秩序こそが宇宙だ。秩序無くしてこの世は無い。混沌に秩序が与えられて、天地は成り立ったのだ。樹木、炎、水、あるいは人にも畜生にも、大小様々の数が在り、寸分も狂い無く組み合わされている。万物の数が積み重なって馬賽克を成す。自然とは歪み無く流れる巨大な数だ」
「歴史もその大いなる潮流の上に載っていると――」
「如何にも」
「そしてその流れは一方通行で、常に行く先は一つしかない、と仰るのですね」
「申公豹よ――」
元始天尊は弟子の頑固さに辟易し、長い白髭を捻りながら唸った。
「師の御忠告、有難く拝受します。ですがこの場で何ぞ御約束は致しかねます」
申公豹は最敬礼し、師に背を向けて、元始天尊の宮を後にした。