最後の名人
とある村に弓の名人が居た。
その名人は言葉少なだったが、良く弟子を観察していた。「丹田を意識しなさい」。「呼吸を腹の底でしなさい」。「顎を引きなさい」。「君はあの兄弟子の脚をよく観察しなさい」。
二つ三つの悪い癖を、よく考え、的確なひと言で見事に直すのだから、弟子たちはみるみる上達していった。当然信頼は厚く、多くの弟子が居た。わたしもそのひとりであった。
その名人が死んだ。弟子の中で一番の名手が師となった。
新しい師は自信家だった。その所為だろうか、弟子を観察することと考えることとを怠った。指示が総てにおいて曖昧だった。「射が汚い」。「形が崩れている」。「お前はいったい何を観察しているのだ」。否定ばかりで、道筋を示せなかった。そのことをひとりの兄弟子が指摘すると、師は癇癪を起こした。やがて弟子に言葉をかけることをしなくなった。兄弟子は気まずくなり、出て行った。
「我が世代は師の技を盗むのに必死であったのに、今の世の者のていたらくはなんじゃ。その打たれ弱さはなんじゃ」
師は言った。しかしわたしたちは、如何に先代がわたしたちを観察していたか、如何に、投げかけるひと言に苦心していたか知っていた。ひとりの兄弟子が憤り、師を怒鳴った。師は顔を沸騰させ、あろうことかその兄弟子を射殺そうとした。幸い射は逸れた。その兄弟子は当然怒り去っていった。
師はある日、村の者と談笑していた。昨今の城主のいたらなさを愚痴りあっていた。ひとりの兄弟子が、先代が如何に城主にさえ命がけで意見していたかを説いた。師は怒り、「城主様の悪言など捨て置けぬ」と破門にした。
弟子は次々去っていった。師は、弟子の悪口を村の者に放言しはじめた。村の年寄りと一緒になって、子供らの悪口を公然と言ってのけた。我慢ならず、弟弟子がそれを咎めた。先代の師は陰口の一切を禁じていたことを知っていたから。教育を施すときは必ず本人に直接言い、また言い訳も赦したことを知っていたから。弟子のいたらなさを、己のいたらなさと意識していたから。師は弟弟子を生意気だと殴った。弟弟子は唖然とし、次の日には居なくなっていた。
師は、村の子らが己に弟子入りしないことを嘆いた。先代が、貧しい子や恵まれない子を弟子として自ら招いたことを知る弟子は、随分少なくなってしまっていた。
やがて鉄砲の噂が流れてきた。弓を操る技術がなくとも、容易にひとを殺せるものだという。
これを期に多くの弟子が師の元を去った。兄弟子らはわたしに、去ることを強く勧めた。わたしは答えた。
「弓矢がすべてすぐに鉄砲に成り代わるとは思い申せぬ。必ずや鉄砲にも弱点があるはずと存じ上げます。どうか、兄弟子らも今しばらくご辛抱なりますまいか」
しかし、次々去ってゆく同朋を止めることはできなかった。
師は、しかし自分の過失の一切を認めようとはしなかった。この状況の総てを、村の者や領主の所為にした。竟にはわたしも声を荒げた。
「いったい貴方は何をおっしゃるか! 弟子の稽古に時間をとらず、村民を弟子とする努力もせず、あまつさえ射さえ見せず! この状況の責任の一端さえ認めず! それが師たるものの態度か! 先代が、如何に我らを愛し、如何に我らのために苦心し、如何に我らのために考えを巡らせていたか……忘れたなどとはおっしゃいますまいな!」
師は激昂した。手近な弓をとりわたしに向けた。見ただけで、それが外れることが知れた。わたしも頭に血が上っていた。わたしも弓を構え、鏃を師に向けた。師の矢が先に離れた。思った通り、わたしには中らなかった。次にわたしの矢が離れた。矢は、見事師の心臓を射抜いた。
*
その後、彼の言ったとおり、すぐに矢が鉄砲に成り代わるようなことはなかった。火薬にしろ銃の製造にしろ、未開の部分が多かった。……そればかりか、弓は、戦が終わった後でも、十分もてはやされた。三十三間堂の通し矢などがそれである。名を馳せた権藤藤三郎之助は、別の地であの「崇高なる」名人の教えを代々受け継いだ者である。しかし、かつて弓の名手の宝庫などと謂われた彼の村からは、誰ひとりとして名をあげる者は居なかった。
弓は、こうして後の世でも形を変えて生き続けたが、彼がそれを知るすべなどなかった。師を射殺した咎で斬首の刑に処されていた。