第十二話
「木原さん、これ」
「あ、ありがと……」
小池君はベンチに座っていたあたしに、買ってきた缶ジュースを渡すと、あたしの隣に座った。日曜日、あたしは小池君と遊びに来ていた。二人で遊ぶのは初めてだから、近くの公園っていう簡単なコースだけど。冷えたジュースを一口飲んで、ふと横を見ると、小池君はじっとこっちを見ていた。
「……? どうしたの?」
「いや、木原さんが俺のそばにいるなんて、実感わかないと思ってさ。結構長い間、好きだったから」
「なっ、なにそれ」
ふいっと顔を背けたあたしを、小池君は面白そうに覗き込んできた。
「もしかして、照れてる?」
「そんなんじゃ……」
小池君はあたしを見て、面白そうに笑った。何か、調子出ないって言うか……。三嶋といる時は、どっちかって言うとあたしが、からかってたから。なんて考えた後に、またあいつのこと考えてる自分に気づいて、あたしは慌てて口を開いた。
「小池君は、どうしてあたしを好きになってくれたの?」
咄嗟に出たのは、聞きづらくて聞かないままにしていた、ひとつの疑問。不躾な質問に失敗したかな、と思ったけど、小池君は気を悪くすることもなくにこりと笑ってくれた。
「そうだなぁ。ほら、木原さんよく中村と一緒にいたからさ。最初は可愛いな、くらいだったんだけどね。でも木原さん、よく見てると面白くてさ」
「面白い?」
「うん。表情がくるくる変わるから。多分感情が人より豊かなんだと思うよ。それでいつも見てたら、好きになった」
「そ、そうなんだ……」
自分でも気づいてなかった一面を知られていたことと、ストレートな言葉にどう反応していいかわかんなくて、ちょっと俯きがちになってしまった。そんなあたしに少し笑ってから、小池君はまた口を開く。
「そんな感じで、特にこれといった理由があるわけじゃないけど……。でも、誰かを好きになるってことは、そういうことだと思わない?」
「え……?」
小池君を見ると、やけに真剣な目をしていて、あたしは直視できなくなった。誰かを好きになるってこと、それはあたしの中で今一番思い出したくないことにつながっている。そんな言葉であたしの心を乱さないでほしい。
「わ、わかんないよ、そんなの」
「そう? 木原さんはもうわかってるんじゃないかな」
小池君は何が言いたいんだろう。返事に困って、あたしは黙るしかなかった。小池君も何も言わないからその場に沈黙がやってきて、耐え切れなくなったあたしは必死で言葉を探し出した。
「えっと、今、何時くらいかな」
特に知りたいわけでもなくて、ただ何か言わなきゃと思って、出た言葉だったんだけど。
「ごめん、俺もわかんない。時計見てくるよ」
「えっ、わざわざ? いいよいいよ、そこまでしなくて」
「いいから。すぐそこだしね」
小池君は気を遣って、すぐ近くにある公園の時計を見に行こうとして立ち上がった。その時ぽつりと、頬を濡らす水滴を感じて。見上げれば、空を分厚い雲が覆っていた。
――雨。
「三嶋、雨が――」
雨が降ってきたことを教えようと思って、引き止めるためにあたしが咄嗟に呼んだのは……、彼の名前じゃなかった。小池君は立ち止まって、何とも言えない表情で座ったままのあたしを振り返った。
「――っ、じゃなかった、小池君……」
よりによって小池君をあいつと間違えるなんて。罪悪感で小池君の顔を見れない。雨がだんだん強くなってきて、あたしと小池君を濡らし始める。
「あはは……。何言ってるんだろ、あたし。あんな奴と小池君を一緒にするなんて。ごめんね、バカみた……」
申し訳なくて、語尾が涙声になってしまった。忘れなきゃいけない、もう考えちゃいけない。もうあいつのことはこれっきりにして、小池君のことを考える。そうじゃないと、あたしは……。
「木原さん。誰かを好きになるのって理屈じゃないよね。いつの間にか好きになって、会いたくて、笑った顔が見たくて、仕方なくなる」
あたしの内心を知ってか知らずか、小池君が唐突に話し始めた。あたしの気持ちの奥まにで訴えかけてくるような小池君の眼差し。瞬時に脳裏に焼きついたあいつの姿が浮かびそうになって、あたしは思わずきつく目を閉じた。耳をふさぎたかった。それなのに、小池君は容赦なく続ける。
「気づいたら、心の中をその一人が全部独占してるんだ。もうその相手のことしか考えられないくらいに。……木原さんは知らない? そんな感情」
小池君のその言葉に、思わず閉じていた目を開いた。その拍子に、あたしの目の縁にたまっていた涙が一筋、頬を伝い落ちた。
――知ってる。あたしを占領してる、愛しくて、切なくて、どうしようもなくなるほどの感情。
今のあたしに、そんなこと言わないで欲しかった。簡単に剥がれ落ちて、隠していたはずの想いが溢れてしまうから。どんなにあがいてみても絶対に薄れることなんてない、あいつへの想い。小池君といても、あたしの頭の中は結局、三嶋が三嶋がってそればっかりで。
「木原さん」
小池君が、気遣うようにあたしの名前を呼んだ。三嶋と同じ呼び方のはずなのに。何でこんなに違うんだろう。
気がついてしまった、気づかないふりしてたあたしの気持ち。わかってしまった今、もう自分をごまかすことはできなかった。忘れなきゃいけない。忘れなきゃいけないって、わかってる。
――でも、でもほんとは……。
「ほんとは、忘れたくない。あんなに好きだった三嶋のこと、好きじゃなくなるなんてできるわけない……!」
雨に濡れて冷たくなった手を、あたしは強く握り締めた。小池君も濡れながら黙ってあたしを見ている。きっとこんなことを言ったら小池君を傷つけることになるんだろう。でも、わき上がってくる自分の気持ちを抑えられなくて。あたしは涙声になりながら、言葉を続けた。
「……っ、あたしは多分一生、三嶋以外好きになれない。なんで三嶋なのかわかんない。でも、三嶋じゃないとダメなの」
あいつへの想いは、自分ではどうしようもないほど大きすぎて。あたしの目からは雨と混じってわからなくなるくらい、涙が次々と溢れ出していた。小池君は何も言わなくて、きっと傷つけただろう言葉を言ってしまったことがショックだった。あたしに泣く資格なんてない。傷ついてるのは小池君なのに……。
「ごめんね、小池君。ごめんね……」
「ごめんなんて言わなくていいから、木原さん」
気の利くセリフも言えず、ただ謝ることしかできないあたし。それでも小池君はあたしをいたわるような優しい声だった。
「木原さんは何も悪くないから。わかってたんだ、俺じゃダメだってことくらい。それでも木原さんが好きだから、ちゃんと自分の気持ちに向き合って欲しかった。だからわざとあんなこと言ったんだ」
「小池君……」
「でも、ごめん。今はちょっと一人にして欲しい、かな」
小池君はそう言って、困ったようにふっと笑った。こんな状況でも、びしょぬれになって笑うその姿が、出会った日の三嶋と重なってしまって。自己嫌悪に陥りながら、それでもあたしの中で、あいつへの想いが破裂しそうなほどに膨らんだ。
――無理に忘れるなんて、きっと間違ってた。
「……ありがとう」
あたしがそう言うと、小池君は笑顔で返してくれた。ほんとに、ありがとう。あたしを想ってくれた人。気持ちを返すことはできなかったけど、誰かを想う気持ちは、あたしに大事なことを思い出させてくれた。
あたしは少しためらったけど、立ち尽くす小池君に背を向けて、公園を後にした。