第十話
放課後、あたしは重い足を何とか動かして、屋上のドアを開けた。空はあの日みたいに晴れ渡っていて、嫌でも思い出してしまいそうで……入るのはすごく躊躇われた。でも頭の中に美恵の言葉が思い出されて、あたしは思い切って中に入った。
すぐに目に入って来たのは、青空の中、手すりに両腕で寄り掛かって空を見上げる姿。
――あいつが、そこに居たのかと思った。
何も言えずに立ち尽くすあたしの気配に気づいたのか、そこにいた人物は振り返ってあたしのほうを向いた。
「木原さん?」
「あ……」
あいつだと思ったのは一瞬の見間違いで。それでも、あたしがそこにいるのは三嶋ではなかったと理解するまでに、相当な時間がかかった。
「来てくれてありがとう」
「小池……君?」
あいつとは違う声。違う顔。……そっか。呼び出されたのは小池君だったっけ。三嶋がいるわけ無かったんだ。
鮮明に思い出してしまったのは、必死に忘れようとしていたあいつの背中。広い青空に溶け込むように、手すりに両腕で寄り掛かりながら、あいつはぼんやりと空を見上げていた。
忘れることはあんなに難しかったのに、思い出すのはあまりにも簡単すぎて。考えないようにしていたはずのあいつの声とか、表情とかがあたしの頭の中で見る間にいっぱいになった。
「――木原さん!? 何で泣いて……、俺、なんかしちゃったかな」
小池君の慌てた声に我に帰った時、あたしの頬に水滴が伝って落ちる感覚がした。頬を指で拭うと確かに涙で、あたしは泣いていたようだった。小池君と同じくらいあたし自身も驚いてしまった。泣くつもりなんてなかったのに、無意識のうちに涙が出るなんて。
「ごめんね、違うの。この前、ここで好きな人にフラれたっていうか、さよならしたっていうか……」
「えっ!? うわ、じゃあそんな場所に来てもらうなんて、俺最悪なこと……」
そう言いながら慌てる小池君が何だか気の毒で、あたしは少し無理をして笑顔を作った。
「気にしないで。忘れなきゃいけないんだけど……。あたしも未練がましいよね。まだ、忘れきれないなんて」
あいつのことを話してるとまた涙が出そうになって、笑顔も上手くできなくなってきたから、あたしは涙を隠すように俯いた。すると、ふわり、と暖かいものに包まれたような感覚がして。気づいた時には、あたしは小池君の腕の中にいた。
「……俺、ずっと見てたんだ」
三嶋といる時の、心臓が壊れそうなドキドキとは違う。でもすぐ近くに小池君の声が聞こえて、安心感、みたいなものが、あたしの心の中に広がった。――ああ、この人はあたしを受け入れてくれてるからだ。
「木原さんがどれだけあいつのこと好きだったのか、見てたらわかったよ。……俺じゃダメかな。忘れるって決めたなら、力になるから」
そっか。他の人が見ててもわかるくらい、あたしは三嶋が好きだったんだ。そんなに好きだったのに、あいつは気持ちを返してくれなかったんだ、って思ったら、涙が込み上げてきた。
忘れなきゃいけない。忘れなきゃいけないって、わかってる。あたしはとうとう泣くのを我慢できなくなって、子供みたいに大声をあげて泣いた。あの日からずっと我慢してた涙が、一気に溢れたみたいだった。
それから、どのくらい泣いていたんだろう。涙が収まってくるのと同時に、初対面の人の前で思いっきり泣いてしまったことが恥ずかしくなってきて。あたしは慌てて小池君から離れた。
「大丈夫?」
小池君が心配そうに声を掛けてきた。ほんと、あたし何やってるんだろう。以前のあたしだったら、相当仲良い人にだって、涙なんて絶対見せなかった。
「ごめんね。今更泣いたりするなんて……。忘れるって決めたのに」
「簡単に忘れられるんなら、誰も恋愛で苦労しないよ」
そう言ってにこっと笑う小池君は、やっぱりその顔を見ただけでいい人なんだろうなってわかるくらい、優しそうで。同時に、この人は傷つけちゃいけない、って思った。
「……ありがとう。小池君の気持ち、嬉しかった。でもやっぱり今のあたしには、新しい誰かを好きになるなんて……」
「今すぐ答えなくていいから。ゆっくり俺のことも考えて」
「でも、そんなの……」
「気にしないで。弱ってるとこにつけこむような俺なんだから、遠慮なく利用してよ」
そう言っていたずらっぽく笑う小池君に、あたしも少し笑ってしまった。この人を好きになれればいいのに。そうすればきっと毎日楽しいんだろうな。あいつといる時の、心臓がうるさいくらいのドキドキはない。あいつを見てる時の、あの胸が苦しいくらいの、愛しさもない。でもきっと、辛い、泣きたいことなんて何もないんだ。
「そろそろ帰ろうか。もう学校が施錠されるかもしれない」
「うん。そうだね」
小池君は屋上のドアを開けて、あたしを先に入れてくれた。そんなことしてもらったのは初めてで、なんだか戸惑ってしまう。……三嶋はいつも、あたしを置いて先に帰っちゃってたし。
「遅くまで付き合わせて、ほんとごめんね」
「ううん。あたしこそ、あんなに泣いたりしてごめ――」
小池君に対するあたしの言葉は、そこで途切れてしまった。
――階段の下に続く廊下に立って、こっちを見ているあいつを、見つけてしまったから。