第1話 始まりの終わり
■ ■
人を助ける、という行為は、至って簡単だ。
自らの手を伸ばせばいい。
その手で助けるべき人を、助けるべき物を、優しく、強く、放さぬように、掴んであげればいいだけだ。
ただ、人物を助けるのと、人物を助けようとするのは違う。
助けようとしても、助けられる訳では無いのだから。
ここに広がるのは、空虚の世界――いや、正確には違う。
空虚な「あいつ」が生み出してしまった、創り上げられた世界である。
だから、どうやっても空虚となってしまうのは当然である。
そんな空虚な「あいつ」が創り上げた空虚の世界の中で、俺は「あいつ」を助けようとする。
この行為は、間違っているのかもしれない。
助けるべきでは、無いのかもしれない。
「あいつ」がしてしまったことを考慮しても、「あいつ」がもたらした現状を振り返っても、やはり俺のこの考えは間違っているのだろう。
でも、俺は、「あいつ」を助けなければならない――それを求める声が、聴こえてきた気がするから。
だけど、これはあくまで、「あいつ」を助けようとしているだけである。
助ける訳でも、ましてや、助けられる訳ではない。
こんな小さな力では。
こんな小さな手のひらでは。
何も助けられない。
何も守ることはできない。
無力を感じ、絶望する俺に、「あいつ」がそっと近付いて来る――と思いきや、どうやら俺に近付きたい訳ではないらしい。「あいつ」は俺を通り過ぎ、絶望の中で跪く俺の後ろで両手を広げ、空を見上げる。
空は、もう暗かった。
いつの間にか、夜になっていたようだ。
星すら見えない、漆黒の空。
そんな夜空を見上げながら、「あいつ」は、悲しい顔をしていた――かといって、そんな大層な悲しみではないように見える。何というか、欲しい物を手に入れることのできなかった小さな子供のような、その程度の悲しみに見える。
「ここでも無かったかな」
そんな悲しみの顔で、「あいつ」は小さくつぶやいた。
こうしてまた、一つの偽りの夜が終わった。
「あいつ」にとっての偽りの夜を、「あいつ」は越えた。
俺は、何も見えない、何も聴こえない、けれども終わりの無い、生きることだけができる、何も無い時間に残された。
■ ■
カーテンの隙間から朝日が漏れてくるのを目に受けて、俺は目を開けた。
そのままゆっくりと、ベッドから起き上がる。
何だか変な夢を見たような気もするが、夢である以上、もう思い出すことはないだろうな。
本当はまだ寝ていたかったけれど、二度寝ほど心地の良いものは無いけれど、変な夢がどんなものだったか気になって、二度寝しながら思考しようかと思ったけれど、ベッドの隣に置かれていた時計が示す時間を見て、それは無理だと判断した。
八時過ぎ。
学校からの距離によっては、もう家を出ている者もいておかしくない時間であった。
目覚めは最悪。
けれども、時間は止まらない。刻一刻と、遅刻へのボーダーラインが近付いている。
俺は、二階の自分の部屋を出て、一階のリビングへ降りた。
まぁ、自分の部屋だとか、リビングだとか、部屋の名前を挙げてはいるけれど、俺の家に関してのみ言えば、それに大した違いは存在しない。
どの部屋にも誰もいない。
どの部屋にも何も無い。
殺風景な部屋しか広がっていない。
分かりやすさを求めるために、形式上で自分の部屋だとか、リビングだとか言っているだけである。
この話は置いておこう。話が進まない。
さて。
これから学校へ行く訳ではあるが、その登校の準備自体(今日使う教科書とかの整理や、制服の用意)は昨日からしてあったので、準備に手間をかける手間は無かった。
リビングのドアノブに掛けられた制服(俺の学校指定の制服は、白のシャツに紺色のブレザー、下が黒のズボンである)を取り、すぐに着替えた。
側に置いてあった紺と黒で斜めに縞模様の入ったネクタイもしっかりと締め、ワックスで髪を整える。
そして、玄関側に置かれていた教科書等の入った荷物を肩に担ぎ、家から出た。
ちなみに、今日の朝食は諦めた。食べられないことも無いのだが、用意が面倒くさいのが一因である。朝の空腹は、うん、昼食を目一杯取ることで帳消しにするとしよう。
時間がギリギリだと感じ、急いで用意をして出たのは良いものの、何だかんだで時間に余裕が出てしまったようだ――と、左腕に着けた腕時計を見ながら、俺は思った。
という訳で、俺は、思いっ切りのんびり歩くことにした。
ただ、これが悪かったのだろう。
「た、助けて!」
のんびり歩いてしまったからこそ、見えてしまうものがあり、聴こえてしまうものもある。
いつもは気付かないような路地裏であるはずなのに、今日この日だけは、そんな弱々しい少年の声が聴こえてきてしまった。そして、そこで行われている光景が見えてしまった。
見えるだけならまだいい。
その上、そんな弱々しく、そんな弱々しさがゆえに、その他三人の者達にいじめられている弱々しい少年の目と、俺の目がばっちりと合ってしまったのである。
「まだまだぁ!」
少年をいじめる三人の内の一人が、少年の頬に蹴りを入れ、少年の顔の位置を動かしたがために、俺と少年の目が合ったのはほんの一瞬だけでしか無いが、その一瞬で、俺のこの瞬間からの罪悪感は桁違いに跳ね上がる。
桁違いとなった罪悪感のせいで仕方なく、すぐさまその場から離れることなく物陰に隠れて、少年と、少年をいじめる三人の構図をもう一度見てみる。
少年も、少年をいじめる三人も、俺と同じ制服を着用していることから、どうやら俺と同じ学校の生徒のようだ。
「何で僕にこんな酷いことするのさ! 僕が、僕が何をしたっていうんだ!!」
近くに人がいると気付いたためか、少年は少しだけ強気になって、いじめる者達にそう抗議する。
「今、ここにいるだろ」
あっさりと。
一人がそう言って、少年を再び殴りつけた。
少年は殴られながらも、悲鳴を上げながらも、その悲鳴で、助けを求める。
俺を、求めている。
だけど、俺が助けに入ったところで何になるというのだろう。
相手は三人。何の武器を持っていないとも限らない。少年を殴る、蹴る、といった行為を現時点で行っているだけで、その懐には、何らかの凶器が眠っているかもしれない。
こちらは一人。当然、丸腰である(一応、今日の授業のための教科書類の入ったリュックは持っているが、この場合には役立たない)。
圧倒的に不利なこの状況。
俺が助けに入ったところで、少年と一緒に俺も殴られ、蹴られるだけである。
言ってしまえば、意味の無い行為、ということだ。
だから、俺は、助けようとも思わない。
と、柄にもなく中途半端な論理立てでその場を後にしようとする俺の横を、一人の少女が猛スピードで駆けて行った。
一人の、俺と同じようなブレザーを纏った少女が。
俺の横を。
その先はもちろん、路地裏の、少年と少年をいじめる三人の下である。
「おりゃぁっ!」
少女は声を上げ、黒のスカートがめくれ、中のパンツが見えてしまうことも辞さないまでに飛び上がり、ドロップキックをいじめる一人に決めてしまった。
くっ、パンツが見えない!
とは、ならない。
「だっ、誰だおまえ!?」
至極最もな疑問を、ドロップキックを決められた一人が出した。
「いじめなんてする奴に名乗る名前なんてない!」
少女は、残りの二人を正拳突きと、その勢いのまま体を回転させて繰り出した裏拳で倒してしまってから、そう言い切った。
名乗らないと、言い切ってしまった。
だからこそ、俺が答えよう。
少女の名前は、神宮詩織。
いじめを行っていた三人を倒し、倒れた彼等の中央に立っている彼女の表情は、とても凛々しく、しかしちょっとした可愛さを秘めていた。一部のマニアからは、その凛々しさと可愛さのギャップが、なかなか好かれているらしい。ギャップ萌え? とかいう奴だったかな。マニア、と言っている辺りは、俺の皮肉とでも受け取ってくれればいい。深い意味は無い(実際はマニアからしか好かれていないのかも知れないが、具体的には俺は知らない)。
凛々しい表情の彼女の長い黒髪が、風に揺れ、靡く。
彼女のその姿は、俺からすれば有り得ないものであった。
まさしく、正義、という奴だ。
強さを持ち、強靭さを持ち、勇気を持ち、勇敢さを持ち、そして何よりも、優しさを持っている。もうどっかの漫画とかアニメとかの主人公にでもなってしまえよ、とでも言いたくなってくる。
正義の実行者にして執行者にして、遂行者。
強さを以て正義を実行し、勇気を以て正義を執行し、優しさを以て正義を遂行する。
つまり、手を伸ばすことで助けようとする奴ではなく、手を伸ばすことで助けられる奴だということだ。
どうしようもなく、凄まじい存在である。
そしてまた、有り得ない存在である。
正義という不確かなものを、確かなものとして、自分の中で確立させ、持ち続けているのだから。
だからこそ彼女は、いじめを行う者三人を見た瞬間、すぐさま駆け、すぐさま蹴散らし、俺が今見ているように、すぐさま傷ついた少年に手を差し伸べるのだ。
少年は、そんな彼女の手を払い除け、辺りに散らばった教科書類を全て持って駆けて行ったが、それでもなお、彼女は笑い続ける。笑みを浮かべる。
自分の正義に、素直になれている。
自分の正義を、信じているのだ。
そんな彼女を見て、俺は、
「自分の無力さと、それから来る虚しさを覚えざるを得ないのであったー」
……いや、そんなことは思っていない。
「だけど、無力さを覚えるけれど、虚しさは消えないけれど、彼女のことが気になってたまらない。いつだって、彼女のことを見てしまう。力は無になる。言葉は虚となる。でも、その行動だけは、その想いだけは、無にならない。虚にもならない。真のまま、変わらない。それはつまり、俺は彼女に恋――」
「しちゃってねぇよ」
ついにイライラが爆発してしまったので、俺は、俺の隣にいつの間にかいた一人のまた別の少年の頭部をチョップしてやった。
そいつの被っていたソフト帽の頭頂部が少しだけ凹んでしまったが、そんなこと知るか。
「俺のこの後の展開をしょうもない恋愛ものに変えるな。これじゃあ、テンプレ過ぎる。それに、お前の一人称は僕だろうが。強がって俺とか言ってんじゃねぇよ」
「いやいや、いつだってテンプレっていうのは大切だと、僕は思うよ? テンプレがあるからこそ、雑味やら毒味やら、そういった作者のアレンジ、っていうのが効いてくるんだから」
「雑味や毒味、って誤魔化されている時点で、それは作者のアレンジとは言わない。作者の自己陶酔と言う。打ち切り臭しかしなくなるぞ」
ここで、俺はこいつとの会話を切った。
これ以上会話しても、意味の無い、というか自分でも何を言っているのか分からない、よく分からない会話しか続かなくなるからだ。
こいつの名前は、速坂那由多。
高校生でありながら、こいつの顔立ちには未だ、幼さが残っている。そんな幼さが嫌だからなのか、単に人と顔を合わせるのが照れくさいからなのかは謎だが、こいつは、黒のソフト帽を目が隠れる位にまで深々と被っている。髪も、照れくささを表さんとしているのか、目が隠れる程度の長さがある。
だが、そんな照れ屋みたいな見た目なのに、幼い顔立ちなのに、人を小馬鹿にしたようなことをよく口にする。
「小馬鹿になんてしてないよ。これが僕のスキンシップさ」
が、こいつの口癖ではあるが……。
うん、やっぱりこいつは、俺を小馬鹿に、いや、馬鹿にしている――気がする。
「小学校からの仲なんだから、この位の会話は許して欲しいな」
「小学校からの仲は関係無い。どんな仲であろうと、嫌なものは嫌だ」
「以心伝心な間柄じゃないか」
「心を以て心を伝えるなんてこと、お前とできた試しが無いよ」
「じゃあ、僕以外とならできるの?」
「そんなことも言ってない。それに、人の心なんて、人の想いなんて、分からない方が良いんだよ。相手が何を想っているかなんて、分かっても無駄だ。拒絶しようとしている奴の想いが分かったからって、拒絶されなくなる訳ではないしな」
「神宮さんのこと言ってるの?」
「あいつはまぁ、拒絶されるのが分かろうが分かるまいが、今みたいに、何も考えずに突っ込んで、馬鹿みたいに人を助けるんだろうよ」
何処を見るでもなく、俺はそんな言葉だけつぶやいてみた。
何も考えずに。
馬鹿みたいに。
まるで、昔の自分が嫌いで、昔の自分に対してこんなことを言っているようだ。
「馬鹿とは失礼だね」
突然、神宮がそう言って、俺と那由多の方を見た。
どうやら、俺と那由多がいることは、もう気付いていたらしい。
「二人が何処にいるかなんて、気配で分かるよ」
気配とか言い出した。
本当にもう、どっかの漫画かアニメにでも行って、主人公にでもなってくればいいと思う。
「そうなると、二人にもその世界にいて欲しいかな」
「僕達って、必要?」
「いや、必要無いだろ。こいつ一人で、全部やってのけるぞ。魔王討伐も、世界平和も」
「いやいや、必要なんだって。魔王の城には、ヒロインが囚われているから」
「俺達ヒロインかよ!」
三人で笑い合った。
俺がいて。
那由多がいて。
神宮がいて。
下らない会話を繰り返して。
それが、俺の日常。
どうやら、こんな下らない会話をしている間に、いじめを行う三人も逃げてしまったようだった。
「ところで、さっきは何の話をしていたの?」
「んー。刹那が神宮さんのことを好き、って話」
「してないだろ、そんな話!」
「じゃあ、気になる、って話」
「気にならないどころか、気にも止めてねぇよ! それに、じゃあ、お前はどうなんだよ? 那由多」
「えっ、僕?」
「そうだ。お前だ。いつもいつも、俺と神宮の関係性について、うだうだといじりやがって、たまにはお前自身がいじられてみたらどうなんだ?」
「僕はどっちでもいいけどね」
「どっちでもだと? どっちでもは良くない!」
「そこで何で、刹那が怒りを露わにするの?」
「やっぱり、神宮さんのことが……?」
「へぇ~。刹那がね。まさかとは思ってたけど、これは意外。刹那には、もう少し優しくしてあげないといけないかな」
「だから、違うって! っていうか、何で神宮がまさかと思ってたんだよ!」
下らない会話を繰り返して。
俺達は学校へと向かう。
学校に着いてからの俺達のすることに、登校途中までのこととは、さして違いは無かった。
朝礼(で、伝わるのだろうか? ホームルーム、と言った方が分かりやすかっただろうか?)までまだ時間が余っていたために、俺達三人は、クラスメイト何人かと一緒に下らない会話を続け出した。ただ、そんな下らない会話の途中で、クラスの委員長が姿を見せて、眼鏡に手を掛けながら、昨今の環境問題やら、内戦、各国の戦争状況やらを語りだした時は、何とも言えない空気になってしまったが。
「ん? もしかして私、何か間違えた?」
それが、何とも言えない空気が流れた後につぶやいた、委員長――発峰志乃の言葉である。
手を掛けている黒縁眼鏡がかたかたと震えていたり、顔がほんのりと赤くなっているところから、この空気を流してしまったことに、多少の照れを感じているらしい。
だからここで、それに気付くのが遅いとか、そういう野暮なことは言わないでおこう。
「よく気付いたね、志乃。偉いぞー」
そんな委員長を励ます副委員長――浅野知美もまた、俺と同じことを考えているようだ。それだけを言って、照れを隠し切れていない委員長の頭をそっと撫で始めている。
この副委員長、委員長に対してフォローするのは、何もこういったなんてことのない、どうでもいい場面の時だけではない(委員長からすればどうでも良くはないのだろうが)。例えば、クラス内での物事を決める際に開かれるクラス会議とかでは、委員長以上に良い意見を、しかもズバズバと言っていく。それも、委員長を立てて。自分はあくまでも副委員長だと言い張って。
委員長を、しっかりとサポートする。
委員長をサポートするのが副委員長だとして、だとしても、これほどまでに委員長をサポート――否、ここまでくると、むしろ委員長と言って差し支えないほどに物事を淡々とこなせるこいつは、おそらくはもう、委員長の中の委員長である副委員長なのだろう。
委員長が普通に肩位までの長さの黒髪に対し、明るい茶髪でサイドテール(って言うんだっけか? ポニーテールを横に垂らしている髪形)にしている副委員長が、委員長よりも控えめにしようとしている、委員長を立てようとしている、っていうのが少し嘘くさい話な気がするけど。
「知美ぃ」
しかし、ここまでしっかりとフォローされ、サポートされているにも関わらず、あまりそれに気付けていない委員長もまた、ある意味では、大物なのかもしれない。
いや、ゴメン。やっぱ気のせいかもしれない。
こうして、副委員長が委員長をそっと連れ去っていくことで、何とも言えない空気は解消されることとなった。
そう言えば、何とも言えない空気が流れたのは、そんな空気の読まない委員長の、空気の読まない話題が始まった時だけでは無かったな。
朝礼二分前。
昨日のテストの点数が、俺と那由多で丁度三倍の差があるという話をしていたころ(ボロ負けだ!)。
教室の扉が開いたのだ。
そこには、制服を泥だらけにした、あの後に回収したであろう左のレンズに罅の入った眼鏡を掛けた、ややボサボサ頭の少年が立っていた。
少年、という言い方はやや一般的過ぎるか。
先程までいじめられていた――そして、神宮に助けられた、更にはそれを拒絶した、少年が立っていたのだ。
少年は、教室に入るや否や、誰とも会話をすることがなく、教室内に流れる何とも言えない空気に触れることもなく、そそくさと自らの席に向かい、リュックを自分の机横のフックに掛けると、そっと腰かけた。そして黙々と、リュックから一冊の教科書を取り出し、読み耽るのであった。
灰谷煤。
何となく、この少年の名を思い出してみる。
いや、この時点で俺は一つ謝らなければならないことがあるのだった。
先程までの描写では、まるで俺がこの弱々しくも弱々しい少年の名を知らない、みたいな形で進んでいたにも関わらず、いきなり俺がこの少年の名を挙げたことは、いささかアンフェアであろう。
叙述トリックもあったものではない。
だからこそ、謝ろう。
俺は、この少年のことを知っていた。
同じクラスであることも。
クラス一の成績の持ち主であることも。
いや、学年一の成績の持ち主であることも。
そして、学年一の、嫌われ者であることも、である。
成績は良いのだろう。成績だけでなく、学校の勉強ができるだけでなく、本当の意味でも頭は良いのだろう。それを分かりやすく表現しているかのような容姿でもある(今は眼鏡のレンズに罅が入っているため、その風貌は半減しているようにも見えるが)。
だが、それだけなのだ。
それだけでしかなくて、それゆえに、彼――灰谷煤は、嫌われている。
「どしたの、刹那? 灰谷を助けなかったこと、やっぱり気にしてたの?」
那由多が小声で、俺にそう聴いてきた。
「まさか。あれが灰谷であろうが、よく知っている誰かであろうが、全く知らない誰かであろうが、俺は助けなかったよ」
「そっか……」
俺は素気なく答えることにした。
俺と那由多のこの会話がまるで全ての会話の締めのように、この直後、俺も那由多も、俺や那由多とは別のグループと会話していた神宮も、言うなればクラスの全員が、自分の席に着いた。
いや、ただ単純に先生が来たからなんだけど。
さぁ、これで終わりだ。
俺がいて。
那由多がいて。
神宮がいて。
下らない会話を繰り返して。
そんな俺の日常は、これで終わりだ。
いつも通りの日常は、こうして幕を閉じる。
いつも通りに席に着き、いつも通りに先生が教室の扉を開け、そして、いつも通りでなくなる。
この俺――羽場切刹那のいつも通りの始まりは、こうして終わった。