10 ティオラ視点
ピアノの旋律が、まるで頭に入ってこなかった。
──憧れのジークス様。
本当は、彼との縁談が最初に持ち上がったのはオーレリアだった。
でも、彼女には恋人がいた。
だから私はお祖父様にお願いして、代わりに私を勧めてもらったのだ。
けれど、ジークス様に断られ、代わりに婚約を申し込んできたのは弟のマーキスだった。
マーキスも悪くはなかった。優しいし、家柄も申し分ない。
けど……やっぱりジークス様の方が、私の理想そのものだった。
隙を見つけては近づいてみたけど、彼は一年経っても私に見向きもしなかった。
『本当に好きなのはジークス様、あなたなんです』
思い切って打ち明けたその日、マーキスとの婚約はあっさり破棄された。
──まさか、本当にオーレリアが好きなの?
あんな平凡で、どこにでもいるような子なのに。
数度のミスを重ね、私の演奏は最悪の出来で終わった。
マーベリーは怒って席を立ち、ケイラスも「どうしたんだ? あんなに練習したのに」と顔をしかめる。
「体調が悪かったの」
そう言い訳して、私はメルキオを探した。
──演奏前、何があったのよ? あの二人、どうしてあんなに親しそうなの?
ようやく見つけたメルキオに問い詰めると、信じられない答えが返ってきた。
「リッチモンド夫人の事業パートナー? リアが?」
「そうだよ。店を任されるってさ」
「じゃあ、ジークス様は?」
「リアを口説いてる最中だって!」
「うそ……」
「僕だって信じられないよ!」
メルキオの情けない顔に、怒りが込み上げた。
「それでいいの? リアを奪われて、黙ってるつもり?」
「よくないよ!」
「なら、取り返すのよ。行きましょう!」
そう言って踵を返した瞬間、腕を掴まれた。
「父上に言われてるんだ。問題を起こすなって。リアとは後で話す」
「ここでじゃなきゃ意味がないのよ! 大勢の前で、リアが裏切り者だと見せつけてやるの!」
「だめだ!」
メルキオの制止を振り払うように、私はテーブルのグラスを手にし、彼の顔に水をぶっかけた。
「わっ!」
彼がひるんだ隙に、私は腕を振りほどき、ドレスの裾を掴んで走り出した。
――ジークス様のもとへ。
「リア!」
大きな声で呼んだ瞬間、会場のざわめきが止まった。
リアが振り向く。その肩を、ジークス様がそっと抱き寄せる。まるで庇うように。
周囲の視線が一斉にこちらへ集まる。
──今よ。
「メルキオがいるのに何をやってるの? 偽装だって知ってるでしょう? この浮気者!」
リアはいつものように黙り込むと思った。
けれど、今日の彼女は違った。
「ティオラ、私たちは別れたわ」
……生意気に……言い返してきた?
「う、うそ言わないで! ジークス様、騙されないで!」
そう叫んだ私を無視して、ジークス様はリアをさらに抱き寄せた。
いやだ、そんなの見たくない!
「僕はリアを信じるよ。愛してるからね」
「ジーク……」
「一度は君を諦めた。でも、そばにいたくて雑貨屋でバイトをしていたんだ。ずっと君を見てた」
「ええ、そう話してくれたわね」
「リアが好きだ。愛してるんだ」
「ジーク……あなたの隣は温かくて、優しくて、私も貴方が好きよ」
――やめて!
何よこの茶番は!
「メルキオを捨てるの? 彼が可哀そうよ、リアの浮気者!」
「浮気をしたのはメルキオよ。ティオラ、貴方を選んだのよ」
私は唇を噛んだ。
どう言えば二人を引き離せる? 焦りで頭が真っ白になる。
そんな時だった。
「君が言えるのかな? 浮気者だなんて」
低い声が背後から響く。
振り返ると、そこにはマーキスが立っていた。
「兄を好きだって言ったよね。僕という婚約者がいながら」
「わ、私は浮気者ではないわ! 初めからジークス様が好きだったのよ!」
「僕との婚約も偽装だったのか。本当に君は嘘ばかりだな」
「ち、違う……」
「ティオラ!」
メルキオがようやく駆けつけてきた。
「貴方もリアに言ってやって!」
「お騒がせしてすみません。連れて帰ります」
メルキオは頭を下げ、私の腕を掴んで引き寄せた。
「謝罪だけでは済まない。君たちの家には抗議書を送るよ」
ジークス様の冷たい声に、メルキオの肩がびくりと揺れる。
私は抵抗したが、そのまま屋敷の外へ連れ出された。
「何てことしてくれたんだ!」
「あなたのためにやったのよ!」
馬車の中は重苦しい空気に包まれる。
私は爪を噛み、指先がボロボロになっていた。
向かいに座るメルキオは頭を抱え、かすれた声で呟く。
「あの日、リアを選ぶべきだったんだ。僕は馬鹿だ……」
――そうよ。馬鹿だから、こうなったのよ。
私は悪くない。悪いのは全部、あなたたち。
屋敷に戻ると、マーベリーとケイナスが待ち構えていた。
「ティオラ、私の演奏会を台無しにしてくれたわね!」
「初めから一人でやればよかったのよ。私は具合が悪くなったの、仕方ないでしょう?」
「まだリアに頼んだ方がマシだったんじゃないか?」
ケイナスが鼻で笑う。
「馬鹿な兄妹ね。結局リアが一番の玉の輿。あんたたちなんてクズよ」
「なんですって!」
「待てよ!」
二人の声を背に、私はヒールを鳴らして階段を上った。
後のことなんて、どうでもいい。
お祖父様が全部なんとかしてくれるわ。
──私は悪くない。何も、悪くないのよ。
読んでいただいて、ありがとうございました。




