【第30話 動員、アレは旗——神のため息】
朝焼けの色が硬い。紙の匂いが濃い。
門柱に三枚の布告が重なって貼られていた。
一、王都評定による動員布告。
二、純化会の義勇招集。
三、教会査察局発の“安全な進軍”随行要請——昨日の覚書に、今日の日付が重ね押しされている。
最後の一行だけが、新しかった。
『神の名において自由の加護を戴く輸送団』——誰だ、こんな言い回しをねじ込んだのは。
「読む。飲み込む。……動く」
壁板に今日の欄。
・編成:兵站輸送団(先行/中核/救護)
・規律:霧=退避帯のみ、攻撃不可/避難優先/撤退路二重
・標章:白布に青二線(従事者)+青水滴(衛生)+鹿角印(品質)
・渉外:随行覚書の条文を旗に縫い込む(見せる規律)
「呼ぶぞ」
ニナ、テッサ、セラ、ルーク、ボルン、子どもらは留守の段取り。骨は視界外。オーシは先頭。
黒外套——カリスが歩いてきて、小さく首を振った。
「文言が変わった。“神の名において”。——危ない橋だ」
「橋しかない。渡る。ただし、欄干は俺が打つ」
俺は布を広げ、針を取る。旗と言っても帆布だ。
白地の中央に、青の二線。左下に小さな水滴。右上に鹿角の印。
そして縁の上に、覚書の要点を刺繍で走らせる。
『霧は退避の帯。前進の目隠しに使わず。避難優先。救護運営は当方。撤退路二重。』
旗というより、巨大な規則票だ。
「隊呼称、決めろ」とルーク。
「名前は——『鹿角輸送』でいい。神の名は隅に小さく。俺たちの仕事は“運ぶ”だ」
ボルンが笑い、肩をさすった。「禁酒、99。明日で100」
「100勝ったら、“ボルン式”を正式採用。輪の治具に印字する」
「やめろ、照れるって」
出立前の短い訓示。
「やることはいつもどおり。道を作る、道を守る、道で返す。今日は旗がついた。それだけ。
——霧は消火器。三箇条でしか使わない。Clause1・2・3、声に出せ」
「人命即時」「代替ゼロ」「使った後に返す」と、皆が唱える。声は揃わない。揃わなくていい。覚えていればいい。
出る。
先行はニナと“青タグ骨”(視界外)。中核に荷車2とオーシ。救護隊にセラと担架。
旗は低く、読みやすい高さで。見せるのは色じゃなく条文だ。
街道の丘に上がると、人の群れが道の両脇にいた。
誰かが小声で言う。「神の軍が来る」
違う。俺は笑って、旗の縁を指さす。「軍じゃない。規則票。読んで」
読める人は口に出し、読めない人は耳で拾う。
霧は退避の帯——。前進の目隠しに使わず——。避難優先——。
前方、義勇の先遣が槍を立てて待っていた。
隊長は昨日より落ち着いた目で、旗を見た。条文にも目をやる。
「“退避のための霧”だけ、か」
「だけだ。前へ押すためには使わない。——道を守るためなら、並ぶ」
「並べ」
列が二つに割れて、救護線と物資線が間を通る。
俺は息を吐き、腕章を軽く叩いた。霧は要らない。要らないまま通れ。
昼前、小競り合い。
土塁の陰から矢が二本、こちらでなく向こうの槍の列に落ちた。崩れかけた空気。
Clause1が半歩、顔を出す。
俺は旗を掲げず、条文だけを高く見せた。「退避の帯、敷ける。——必要なら」
矢は止んだ。誰かが悔しげに舌打ちした。
使わないで済むなら、それがいちばん安い。
午後、遠見の丘に“本隊”。旗の森。
王都の旗、純化会の旗、商会の旗、そして“神の名”を冠した新しい旗の束。
呼び出しの使者が、紙束を胸に抱えてきた。
「鹿角輸送、前へ。——兵站総括、署名」
紙に書いてある。
『兵站総括:鹿角輸送団 ケイ=サンジョウ』
逃げ道はない。逃げないのは、俺が決めた。
「条文の追記を条件にする。
・避難最優先。
・衛生線は不可侵。
・霧の運用は“退避に限る”。
破ったら、撤収する」
「記す」と使者。砂粒みたいな声。だが、紙に落ちた字は本物だ。
署名する。カリスが脇で見て、印を押す。救護院の院母が、短くうなずいて水滴の印を重ねた。
紙の上で、線が一本太くなる。代わりに、別の線をまたぐ。
「ケイ」とニナ。
「俺たちは、軍じゃない。——だけど、先頭に見える。旗があるから」
「見えるのは、止めようがない。見える姿で、違うことをする」
出陣の角笛が鳴った。
列が動く。
オーシが角で肩をコツン。合図は一回。「行け」。
骨は林間に沿って“道を均す”。どや立ちはしない。看板は胸の前。
テッサは治具袋を抱え、ボルンは輪と軸を睨む。手先が震えていない。100日目は、明日だ。
旗が風で鳴る。
縁の条文が光って見えた。——霧は退避の帯。攻撃に使わない。
俺はその文字を、十回読んだ。二十回読んだ。百回読めば、きっと折れない。
日が傾く。野営地が設けられ、炊き出しの鍋が並ぶ。
救護線の白布が風にゆれる。衛生標章の水滴が薄い青を拾う。
少し離れた丘に上がる。薄紫の空。
横に、リベルティアがいた。昨日より、背がほんの少し伸びている。幼い顔のまま、目だけが遠くを見ていた。
「けい。……ふね、うごきだした。おおきいの」
「知ってる。俺が綱を引いた。引くときは、結び目を増やす」
「たぶん、ながい。たぶん、いたむ。たぶん、また」
「また、か。——またでも、やる。線は俺が引く。霧は消火器。道は道。兵站は、人を生かすための嘘じゃない本当だ」
風がひとつ、横から抜けた。
リベルティアは空を見上げて、ほんの少しだけ、背伸びをして——小さく、ため息をついた。
「……また、今回もか」
糸鈴が、一度だけ鳴った。
旗の縁の条文が、夕陽に薄く燃えた。俺はうなずいて、手を下ろした。
行く。神の名のもとに——じゃなく、俺たちの規則のもとに。
でも世間は、神の名を呼ぶだろう。呼ばせておけ。
数字は逃げない。道は折れない。俺は、折らない。
(終)




